セルゲイ・イワノフ
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| セルゲイ・イワノフ Сергей Иванов | |
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イワノフの写真(2009年12月18日) | |
| 生年月日 | 1953年1月31日(73歳) |
| 出生地 |
レニングラード (現サンクトペテルブルク) |
| 出身校 | レニングラード大学 |
| 前職 | KGB諜報員 |
| 現職 | 大統領特別代表(自然保護活動・環境問題・交通運輸担当) |
| 所属政党 |
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| 称号 | 予備役大将 |
| 配偶者 | イリーナ・イワノヴァ |
| 子女 | 2人 |
| 在任期間 | 2011年12月22日 - 2016年8月12日 |
| 大統領 |
ドミートリー・メドヴェージェフ ウラジーミル・プーチン |
| 内閣 | 第2次プーチン内閣 |
| 在任期間 | 2008年5月12日 - 2011年12月22日 |
| 大統領 | ドミートリー・メドヴェージェフ |
| 内閣 |
第2次フラトコフ内閣 ズプコフ内閣 第2次プーチン内閣 |
| 在任期間 | 2007年2月15日 - 2008年5月7日 |
| 大統領 |
ウラジーミル・プーチン ドミートリー・メドヴェージェフ |
| 内閣 |
カシヤノフ内閣 第1次フラトコフ内閣 第2次フラトコフ内閣 |
| 在任期間 | 2001年3月28日 - 2007年2月15日 |
| 大統領 | ウラジーミル・プーチン |
| 在任期間 | 1999年11月15日 - 2001年3月28日 |
| 大統領 |
ボリス・エリツィン ウラジーミル・プーチン |
| 軍歴 | |
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赤の広場での戦勝記念パレードにて大将の制服を着用するイワノフ(2015年5月9日) | |
| 所属組織 |
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| 軍歴 |
1975年 - 2000年 (KGB・SVR・FSB) |
| 最終階級 |
第1級ロシア連邦現役国務参事官 [注釈 1] |
| 指揮 |
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| 戦闘 |
・第一次チェチェン戦争 ・第二次チェチェン戦争 |
セルゲイ・ボリソヴィチ・イワノフ(ロシア語: Серге́й Бори́сович Ивано́в, ラテン文字転写: Sergei Borisovich Ivanov, 1953年1月31日 - )は、ロシアの軍人、政治家。ウラジーミル・プーチン政権で第4代ロシア連邦国防相を務め、ロシア連邦大統領府長官、第9代ロシア連邦安全保障会議書記、ロシア連邦第一副首相、副首相などの役職を歴任している。ソ連国家保安委員会(KGB)の元諜報員であり、軍人としての最終階級は予備役大将である。
経歴
生い立ち
1953年1月31日に、ソビエト連邦ロシア連邦共和国、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に誕生する。1975年にレニングラード大学文学部翻訳学科及び同大学付属軍事学科を卒業した。大学の同期には後の大統領となるウラジーミル・プーチンがおり、さらにプーチンとイワノフは同郷で、これは後にイワノフがプーチンの側近として重用される重要な出自となった[1]。
KGBでの勤務

1976年にソビエト連邦国家保安委員会(KGB)ミンスク高等課程を修了し、KGBレニングラード局で勤務した。イワノフは同局でプーチンと同じ部署で働いていた[2]。その後KGB第1総局(対外諜報)に移り、第101学校を卒業。1981年に2等書記官として駐ロンドンソビエト大使館に勤務したが、1983年にスパイ容疑で国外追放された。その後フィンランド、ケニアに転任させられたが、後のイワノフの証言によると、この人事異動には、後にロシアの反体制派として、イギリスに亡命するオレグ・ゴルディエフスキー大佐が関わっていたという[3]。なお、KGBに所属していたため、ソ連共産党に入党していた。
ソ連崩壊後はKGBの解体に伴い、ロシア対外情報庁(SVR)に移り、欧州局第一副局長を務めた。その後、プーチンがロシア連邦保安庁(FSB)長官に就任すると、1998年8月には、FSB次官/分析・予測・戦略計画部長に登用された。
政界入り

以後イワノフはプーチンと共に出世し、プーチンが1999年8月に首相に就任すると、同年11月にロシア連邦安全保障会議書記に就任する。なお2000年11月9日に、現役軍人として退役し、予備役に移籍した。
国防大臣就任
プーチンが大統領に就任すると、2001年3月に国防大臣に任命される。ロシアでは陸相・海相・国防相は、ソ連時代も含めて、トロツキーを除き現役の軍人が務めていたが[注釈 2]、イワノフは軍役を解除されて予備役に移っていたため、史上初の文民の国防相である。だがイワノフは2000年11月までは職業軍人であったため、あくまで元軍人であり、真の文民とは言い難い。
ロシア連邦国防相としてのイワノフは、ロシア連邦軍に、これまでの徴兵制を改めて志願制を導入し、人員の削減による質的向上を図ろうとした[1]。また巡航ミサイルを中心とする戦略兵器の削減に意欲的であるとされる。他に、北朝鮮が核兵器保有宣言をしたことに対して、イワノフは2005年2月13日に、ドイツのミュンヘンで開かれた閣僚会議で、ロシア連邦を代表して演説し、北朝鮮の選択は誤りであると非難した。同時に、北朝鮮に核拡散防止条約に留まり、6カ国協議に戻るように求めた。
2006年1月、イワノフはウラル地方の軍事基地で発生した、残虐なイジメ事件に対する軽率な対応について批判を受けた。この事件の被害者である兵士アンドレイ・シチョフは、激しい暴行により、脚と性器を切断された[1][4][5][6]。
イワノフの国際的な軍事・政治問題に関する発言の率直さは、時折欧米諸国の聴衆を困惑させたが、彼の政治的立場は穏健であり、経済問題に関してはリベラルであると見られた。
2006年12月15日、イワノフは同年11月にロンドンで毒殺された、元KGB・FSB諜報員のアレクサンドル・リトビネンコ中佐についての外国記者団の質問に対し、「私たちにとって、リトビネンコはまったくの無名の人物であり、彼が死の床で何を言ったか、何を書いたかは私たちにはまったく関係がなかった」と答えている[7][8]。同じく元KGB諜報員のユーリ・シュヴェッツ少佐は、リトビネンコの暗殺にイワノフが関与していることを立証する書類をまとめていたが、その後、謎の死を遂げている[9]。
副首相就任
2005年11月14日から、第2次フラトコフ内閣において、副首相(安全保障担当)を兼務する。翌年3月20日には、ロシア連邦政府付属軍事産業委員会の委員長に就任した。2007年2月15日には国防相を解任されたが、第一副首相(専任)に昇格し、軍事産業だけで無く、航空産業・ナノテクノロジー・交通といった、民間産業の育成を担当した。
イワノフはロシア連邦大統領補佐官のヴィクトル・イワノフとともに、プーチンの側近中の側近であり、同格となったドミートリー・メドヴェージェフ第一副首相とともに、2008年の大統領選挙において、プーチンの大統領任期が切れた後の有力な後継候補と目されていた。
2007年12月10日、統一ロシア、公正ロシア党、農業党、市民勢力の各党の会議において、「プーチンの後継者」としてメドヴェージェフが指名され、統一ロシアに関しては12月17日の党大会で正式に決定され[10]、イワノフもメドヴェージェフへの支持を表明した。そして2007年12月10日に、プーチンは以上の各政党の指名から、後継の大統領候補にメドヴェージェフを指名した。しかし下馬評では、旧KGB人脈のイワノフを予測する声が比較的多く見られた。また世論調査においても、イワノフは比較的高い支持率を得ていた[11]。
2008年5月7日にドミートリー・メドヴェージェフ政権が発足し、5月8日にプーチンが首相に就任した後も、イワノフはプーチンによって副首相に指名され、内閣に留任した。その後2011年12月22日に、メドヴェージェフによって、ロシア連邦下院議員に転身したセルゲイ・ナルイシキンの後継として、大統領府長官に任命された[12]。イワノフはロシア・ウクライナ戦争における強硬な立場と、西側諸国に対する強硬姿勢で知られ、シリア内戦におけるロシア軍の軍事介入を後援する役割を果たしたが、2016年8月12日に、大統領府長官を解任された。イワノフの一身上の都合と説明されたが、実質的な解任であった[13]。イワノフの退任後は、アントン・ヴァイノが受け継ぎだ。プーチンによるイワノフの解任は、イワノフのような年配の側近を、ヴァイノのような若手の忠実な支持者に置き換えるという、プーチンの意図があったとされる。解任後のイワノフは、大統領令により、自然保護活動・環境問題・交通運輸担当の大統領特別代表に任命され[14]、極東のヒョウの保護を目的とした、「ユーラシア極東のヒョウ保護センター」の設立を提唱した[15]。
2017年4月より、国営企業「ロステック」の監督委員会の委員を務めた[16]。同年10月18日には、店舗でのポリエチレン袋に環境税を導入する提案を行なった[17]。
2026年2月4日、プーチンはイワノフを大統領特別代表から解任する大統領令に署名した。ドミトリー・ペスコフ大統領報道官によると、イワノフから辞任の申し出があった。高齢が理由とみられる[18]。
北方領土訪問
イワノフは北方領土を4度訪問しており、2014年9月24日に択捉島を訪問し、イトゥルップ空港を視察した。日本政府は菅義偉内閣官房長官が記者会見で遺憾の意を表明したが[19]、イワノフは9月25日に記者団に対して、「これは儀式的な踊りのようだ。私がそこへ行くと遺憾を耳にする... そして私はまたそこへ行く」と語った[20]。
制裁
2014年3月、ロシアによるクリミアの併合及び「クリミアでの違法な住民投票の実施」に関与したとして、アメリカは「ロシアの官僚および政治指導者」を対象とした制裁リストに、イワノフを追加した[21][22]。
2022年2月24日、イワノフはカナダによる「政権の側近」を対象とした制裁リストに追加された[23]。またイワノフは、アメリカが制定した、「プーチン大統領の側近であり影響力のあるロシア人」を対象とした制裁リストに、息子のセルゲイ・セルゲイヴィッチ・イワノフと共に追加された。アメリカ国務省は、「プーチン大統領に近いロシアのエリートたちは、ロシア国家の略奪、自身の富の蓄積、家族のメンバーの地位向上にプーチン大統領との親密度を利用している」と指摘している[24]。
同年2月25日、ロシアがウクライナに侵攻した際、イワノフは欧州連合(EU)の制裁リストに追加された。この措置についてEUは、イワノフがウクライナのドンバスの2つの自称共和国を即時承認することを支持からと主張している。また同様の理由により、イギリス[25]、スイス、オーストラリア、ウクライナ[26]、日本、及びニュージーランド[27]の制裁リストに追加された。
評価
2006年初頭、ジャーナリスト兼作家のドミトリー・ビコフは、プーチンの後継者レースにおけるイワノフについて、次のように指摘した[28]。
アメリカ合衆国国務長のコンドリーザ・ライスは、自伝『最高の名誉』の中で、イワノフの人物像を次のように描写している[29]。
イワノフは我が国に対して厳格で、やや疑い深かったが、信頼できる人物でもあった。彼は決してできないことは約束せず、役職や階級に関係なく、どんなデリケートな状況でも、プーチンの信頼できる連絡係として職務を果たした。ホワイトハウスとクレムリンの関係において、この連絡係は最も重要であった。
人物

- 妻のイリーナは1953年生まれのモスクワ出身で、経済学の学位を取得している。息子はアレクサンドル(1977年~2014年)とセルゲイ(1980年〜)の二人である。
- 英語とスウェーデン語を流暢に話し、ノルウェー語とフランス語も少し話せる。
- 余暇は釣りと散歩で過ごし、原語で探偵小説を読むのを好む。
- ソ連時代からの政治エリートでありながら、10代の頃には当時禁制であったビートルズのファンであったことを、2003年にポール・マッカートニーが赤の広場で行ったコンサートの際に、インタビューで答え、このコンサートもプーチンと伴に来場した。
- バスケットボールの愛好家であり、バスケットボール統一リーグの創設者の一人であり、2008年には設立以来同リーグの会長を務め、2014年からは名誉会長に就任している。またバスケットボールのCSKA(ロシア陸軍中央スポーツクラブ)の試合を定期的に観戦し、軍人チームのアイスホッケーやサッカーの試合も観戦している。
- 公式データによると、イワノフの所得は2011年時点で631万ルーブルであり、2014年には1620万ルーブルに上がったが、2015年には1030万ルーブルに下がった[30][31]。
- 小泉内閣発足以前に日の出の勢いを誇っていた鈴木宗男は、イワノフをプーチン政権最大のキーパーソンと位置付けており、早い段階で接触を図っていた。
- 軍人としての最終階級は予備役大将である。