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タラス・シェウチェンコ

ウクライナの詩人、画家 (1814-1861) From Wikipedia, the free encyclopedia

タラス・フルィホーロヴィチ・シェウチェンコ[2](ウクライナ語: Тара́с Григо́рович Шевче́нко, Taras Hryhorovych Shevchenko、1814年3月9日 - 1861年3月10日[1])は、ウクライナの詩人、画家である。近代ウクライナ語によるウクライナ文学の始祖と評価されている。

生誕 1814年3月9日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、モールィンツィ(ウクライナ語版、英語版)
(現: ウクライナ)
死没 (1861-03-10) 1861年3月10日(47歳没)
ロシア帝国、ペテルブルク(現:サンクトペテルブルク)
職業 画家、詩人、作家
概要 タラス・シェウチェンコТарас Шевченко, 生誕 ...
タラス・シェウチェンコ
Тарас Шевченко
1859年のシェウチェンコ
生誕 1814年3月9日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、モールィンツィ(ウクライナ語版、英語版)
(現: ウクライナ)
死没 (1861-03-10) 1861年3月10日(47歳没)
ロシア帝国、ペテルブルク(現:サンクトペテルブルク)
職業 画家、詩人、作家
国籍 ウクライナ語
活動期間 1840年‐1861年[1]
代表作 コブザール
親族
署名
兵役経験
部門ロシア帝国陸軍
Odesa
軍歴1847年–1857年
最終階級二等兵
部隊オルスク (1847–1850)
Fort - Shevchenko(英語版) (1850年–1857年)
戦闘1848年 アラル遠征
1851年 カラタウ遠征
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農奴制に反対し、秘密結社「聖キリルと聖メソジウス団(英語版)(Кирило-Мефодіївське братство)」に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの農奴の解放に力を尽くした。1847年4月5日に同結社に手入れが入った際に、シェウチェンコが書いた皇帝ニコライ1世と皇后アレクサンドラを批判する詩が見つかり逮捕された。サンクトペテルブルクの刑務所に入れられた後、10年間の流刑生活を送った。皇帝の命により、流刑の間はペンと筆を持つことを禁止された。

タラス・シェウチェンコの写真(ウクライナ語版)1859年

画家としての才能も優れていて有名である。ウクライナ国内では人気が高く、首都キーウには彼の名を冠したタラス・シェウチェンコ記念キーウ国立大学がある他、ウクライナ国家文学芸術賞「シェフチェンコ・ウクライナ国家賞」、ウクライナ人民共和国・ディレクトーリヤ時代の軽巡洋艦「巡洋艦タラス・シェウチェンコ」、「タラス・シェフチェンコ国立博物館」、国外でもアメリカ合衆国ニューヨークの「タラス・シェウチェンコ広場(英語版)」・沿ドニエストル共和国の50沿ドニエストル・ルーブル紙幣等、シェウチェンコにちなんだものも多い。

概要

「カテルィーナ(ウクライナ語版)」(油絵、1842年)。『コブザール』詩集に入る「カテルィーナ(詩)(ウクライナ語版)」物語詩をモチーフにした作品。ウクライナの娘カテルィーナはロシア人の将校に遊ばれ捨てられた。19世紀のウクライナ・ロシア関係の象徴。

タラス・シェウチェンコは1814年3月9日[3]、ロシア帝国領ウクライナ、キエフ県モールィンツィ村(英語版)[4]の農奴の家庭にて、父フリホーリィ・シェウチェンコ(英: Hryhoriy Ivanovych Shevchenko)と母カテリーナ(英: Kateryna Shevchenko)のあいだに生まれた。 一家は翌年、近隣のキリーリフカ村(現在のシェウチェンコ村、Шевченкове)へと移る[5]。彼らが生活したのはドイツ系ロシア貴族のヴァシーリィ・エンゲリガルト(Енгельгардт Василь Васильович)の所領であった[5]。 幼い頃より村の教会学校で読み書きを習いながら、絵画を独学していたが、1823年(9歳)に母、25年(11歳)に父を失ってしまう[6]。孤児となったシェウチェンコは、教会の住み込みとして輔祭のもとで働きながら教会スラヴ語の読本や祈祷書などに親しんだ[6]。その後1828年、14歳の時にヴィリシャーナ村(英語版)にて(先代ヴァーシリィの跡を継いでいた[6])パヴェル・エンゲリガルドト(ウクライナ語版)の家庭で小使を務めはじめた。

シェウチェンコ画「パヴェル・エンゲリガルドト像」1833年

1829年にはエンゲリガルトに随伴して、ロシア帝国領リトアニアのヴィリニュスへ移り、1831年以降は帝国の首都ペテルブルクに住むようになった。地主はシェウチェンコを家庭画家にする予定があったので、シェウチェンコはロシア画家V.シリャイエフ(ウクライナ語版)の弟子となり、美術を習うこととなった。この頃から、シェウチェンコは密かに詩を書くようになる。

シェウチェンコの作品はロシアの画家たちカール・ブリューロフ、イヴァン・ソシェンコ(英語版)、アレクセイ・ヴェネツィアノフと、詩人たちヴァシリー・ジュコフスキーとイェヴゲン・フレビーンカ(英語版)などによって高く評価され、1838年にシェウチェンコ自身は彼らの努力によって農奴制から解放された。同年、上述した文化人たちの推薦によってシェウチェンコはロシア帝国美術大学に入学し、ブリューロフの弟子となった。

1840年にシェウチェンコは、美術大学に在籍しながら、有名な詩集『コブザール 』を著した。詩集はウクライナ語で書かれていたので、ヴィッサリオン・ベリンスキーをはじめとするロシアの知識人はシェウチェンコを「いなかっぺの言葉」を用いる「いなかっぺの詩人」として鋭く批判した。一方、ウクライナの文化人たちは、『コブザール』を絶賛した。都の批判に対しシェウチェンコは、ウクライナ・コサック時代を英雄化する『ハイダマークィ』(1841年)と『ハマリア』(1844年)という二つの物語詩を出版した。


1843年にシェウチェンコはウクライナに戻り、史学者ムィハーロ・マクスィモーヴィチと作家パンテレイモーン・クリーシュ(英語版)と知り合い、『絵のように美しいウクライナ』という絵画シリーズを作り始めた。大学に戻ったシェウチェンコは、1844年に反農奴制と反帝国主義を説く『夢』という政治的物語詩を著した。同じく農奴である役者、ミハイル・シェープキンとも交流があった。

友人達と。左からO.M・ラザレフスキー(ウクライナ語版)(?)、 M.M・ラザレフスキー(ウクライナ語版)、シェウチェンコ、H.M・チェスタヒフスキー(ウクライナ語版)、不明

絵画作品

主な著作

文学リスト

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

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