タート・ルアン

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タート・ルアン
地図

タート・ルアン(‍ラオ語: ທາດຫລວງ / ພຣະທາດຫລວງ, ラテン文字転写: Pha That Luang ラーオ語発音: [pʰā.tʰâːt lǔa̯ŋ])はラオスヴィエンチャンにある、ラオスを代表する仏塔のひとつである。その塔の構造や意匠にはラオスの文化やアイデンティティが各所に見られ、ラオスの国民主義のシンボルともなっている。

敷地面積は8500平米、仏塔は高さ45m[1]である(35mとするものもある[2])。現在は中央の仏塔の頂に金9kg9バーツ9サルンを使用し、また周囲を囲む各小塔に9バーツ使用している[3]

1991年の新憲法発布とともに、ラオスの国章はかつてのハンマーと鎌からタート・ルアンとなっている[4]

タート・ルアンの北西側にはラオス仏教連盟中央部(ラーオ語:ສູນກາງອົງການພຸດທະສາສະໜາສັມພັນ ແຫ່ງ ສປປ ລາວ 英語:Buddhist Fellowship Organization of Lao PDR)の入る大法堂(ラーオ語:ຫໍທັມມະສະພາ)とタート・ルアン・ヌア寺(ラーオ語:ວັດທາດຫຼວງເໜືອ)がある。東側にはタート・ルアン広場、南側にはタート・ルアン・タイ寺(ラーオ語:ວັດທາດຫຼວງໃຕ້)がある。

現在は一般にタート・ルアン(‍ラーオ語:ທາດຫຼວງ)もしくはパ・タート・ルアン(‍ラーオ語:ພຣະທາດຫຼວງ)と称されるが、この呼称は少なくとも19世紀末からの使用が確認されている。これは「偉大な仏塔」を意味する[1]

また、1566-1567年に作られた東門北の石碑のパーリ語の解読によると、パ・チェーディ・ローカチュラマニー(ラーオ語:ພຣະເຈດີ ໂລກະຈຸລາມະນີ)[2]と記される。チュラマニーとは冠に埋め込まれた宝石や、釈迦の髪を意味する。同じ石碑のラーオ語の箇所にはパ・マハー・タート・チャオ・シェンマイ(ラーオ語:ພຣະມະຫາທາດເຈົ້າຊຽງໃໝ່)と彫られている[2]。これはチェンマイの王の大きな仏塔を意味する。これはセタティラート王自身もしくは祖父を指す[2]

参拝

タート・ルアンへの参拝は、単なる見学ではなく、宇宙の真理を体現した構造物に対する修行の一環としての側面を持っている。

1. 参拝の準備と心構え

適切な服装を整えることが基本中の基本である。女性は伝統的な筒型スカートであるシン(ラーオ語:ສິ້ນ)を着用し、男女ともに肩にパ・ビアン(ラーオ語:ຜ້າບ່ຽງ)と呼ばれる肩掛けを羽織るのがラオスの伝統的な礼儀とされている。これは、仏陀の聖遺物に対する深い敬意の表れである。

2. 回廊での作法

右繞の実施

参拝の基本は、時計回りに仏塔を巡る「右繞(パーリ語: padakkhiṇā)」である。これは、自分の右肩を常に聖なる対象(仏塔)に向けることで、敬意を示す作法である。

各方位への祈り

タート・ルアンには東西南北の四方に「念仏堂(ラーオ語: ຫໍໄຫວ້)」があり、それぞれの方向で祈りを捧げる。

3. 方位ごとの祈祷文

特に信心深い参拝者は、四方それぞれの場所で以下のような特定のパーリ語の祈祷文を唱える。これらは、仏塔に納められた仏舎利に対する賛辞となっている[5]

方向 パーリ語 ラーオ語表記 日本語訳
Imasmiṃ disābhāge jinaguyhassa thāpanaṃ loka-cūḷāmaṇiṃ nāma ahaṃ vandāmi sabbadā. ອິມັສມິງ ທິສາພາເຄ ຊິນະຄຸຍຫັສສະ ຖາປະນັງ ໂລກະຈຸລາມະນິງ ນາມະ ອະຫັງ ວັນທາມິ ສັພພະທາ. 東の方角に安置された、勝者(仏陀)の聖なる遺物、ローカ・チュラマニーという名の大塔を、私は常に礼拝いたします。
Dakkhinasmiṃ disābhāge jinaguyhassa thāpanaṃ loka-cūḷāmaṇiṃ nāma ahaṃ vandāmi sabbadā. ທັກຂິມັສມິງ ທິສາພາເຄ ຊິນະຄຸຍຫັສສະ ຖາປະນັງ ໂລກະຈຸລາມະນິງ ນາມະ ອະຫັງ ວັນທາມິ ສັພພະທາ. 南の方角に安置された、勝者の聖なる遺物、ローカ・チュラマニーという名の大塔を、私は常に礼拝いたします。
西 Pacchimasmiṃ disābhāge jinaguyhassa thāpanaṃ loka-cūḷāmaṇiṃ nāma ahaṃ vandāmi sabbadā. ປັຈສິມັສມິງ ທິສາພາເຄ ຊິນະຄຸຍຫัສສະ ຖາປະນັງ ໂລກາຈຸລາມະນິງ ນາມະ ອະຫັງ ວັນທາມິ ສັພພະທາ. 西の方角に安置された、勝者の聖なる遺物、ローカ・チュラマニーという名の大塔を、私は常に礼拝いたします。
Uttarasmiṃ disābhāge jinaguyhassa thāpanaṃ loka-cūḷāmaṇiṃ nāma ahaṃ vandāmi sabbadā. ອຸຕຕະຣັສມິງ ທິສາພາເຄ ຊິນະຄຸຍຫັສສະ ຖາປະນັງ ໂລກະຈຸລາມະນິງ ນາມະ ອະຫັງ ວັນທາມิ ສັພພະທາ. 北の方角に安置された、勝者の聖なる遺物、ローカ・チュラマニーという名の大塔を、私は常に礼拝いたします。

歴史

フランス極東学院(フランス語:l'École française d'Extrême-Orient)の研究者である Michel Lorrillardはタート・ルアンの歴史は16世紀後半にサイ・セタティラート王と関連していることはわかっているが、他はほとんど知られておらず、塔の機能自体も謎に包まれていると指摘している[2]

主な伝承では釈迦の聖遺物である胸骨が塔内に納められているとされる[1]

ビエンチャンは1827年にアヌヴォン王の反乱を鎮圧するためにシャムの侵略を受け破壊されたが、タート・ルアンは大きな破壊から免れた。1870年代中国の盗賊(ホー族)により破損を受けた[6]。その後フランス植民地政府により1893年から1940年の間に再建された[7]。1975年の革命後も整備が続けられている。

タート・ルアン

設立譚

古い歴史書・伝承書であるウランカタート(ラーオ語:ອຸຣັງຄະທາດ 英語:Urankathat)やクンブーロム(ラーオ語:ຂຸນບູລົມ)に以下のようなタート・ルアンの設立譚が綴られている[8][9]

  • 伝説的なビエンチャンの最初の王であるパチャオ・チャンタブリー・パシッティサック(リー・チャン王)(ラーオ語:ພຣະເຈົ້າຈັນທະບຸຣີ ປະສິດທິສັກ)はヴィエンチャンの前身である「チャンタブリー(ラーオ語:ຈັນທະບຸຣີ)」の都を築いた人物とされ、仏教に対する極めて篤い信仰心を持っていた[10]。紀元前307年頃(仏歴236年)、インドのラージギルで仏教を学んだ5人のラオス人阿羅漢(ラッタナ長老、チュラッタナ長老、スワンナパサータ長老、チュンラスワンナパーサー長老、サンカヴィサー長老)が釈迦聖遺物である胸骨を持ち帰ったことから、チャンタブリー・パシティサック王は伏せた椀のような形のドーム(仏塔)を作って覆った。そのドームは四方の基底が各5ワー(約10メートル)、高さ4ワー3ソーク(約9.5メートル)であった[11][9]
  • 歴史家マハー・シラ・ヴィラヴォンは、ウランカタートの記述を裏付ける証拠はないが、アショーカ王の時代にインドシナ半島に仏教が伝えられた可能性を指摘。第三結集後にアショーカ王が派遣した8つの仏教布教団の一つがインドシナ半島(スワンナプーム)へ仏教をもたらしたという説はありえると述べている[8]

これとは別に、ラオス王国政府宗教事務局長  歴史的建造物担当キュレーターであったピムマソーン・プーヴォンはワット・シーサケットの写本から以下のように引用している[12]

  • 釈迦が、現在のビエンチャンのポンパナオを旅していた際に、微笑んだ。阿難がなぜそんなに幸せそうなのかを尋ねたところ、釈迦は「私の死後、アショーカ王がこの場所に仏舎利を安置する記念碑を立てる。それは崇拝され仏教はこの地から広まるであろう」と述べた。シ・サッタナガヌハタ王の妻であるプリーチャンド王妃は、5人のバラモンと共にその場所を石で印し、そこに礼拝堂を建設した。後年、アショーカ王は釈迦の涅槃後に仏舎利を運び、ここに石の仏塔を築いた。

増築

セタティラート王による再建

  • 1560年頃サイ・セタティラート王がチェンマイやシェントーン(現ルアンパバーン)を治めた後、ビルマの侵略を何度も受け防衛が困難になったため1563年にビエンチャンに遷都した[13]。その際に首都の名前をチャンタブリー・シーサタナカナフート・ウタマ・ラタサニー(ラーオ語:ຈັນທະບຸລີສີສັດຕະນາຄະຫຸດ ອຸດຕະມະລາຊະທານີ)と命名した。1566年からタート・ルアンの再建と拡張を支援した。仏塔の2層目に4面を囲むように小仏塔を30基建設した[9]

アヌヴォン王による回廊建設

  • 1818年、アヌヴォン王は主塔と小仏塔の修理と共にタート・ルアンを4面に取り囲む回廊(各91.75m)を建設した[9]

構造

デラポルテによる挿絵(1867年頃)

中央の尖塔は、仏教宇宙論における世界の軸である須弥山を表しており[14]、仏教の三界欲界色界無色界)を示す三層構造をなす。同時に、セタティラート王による転輪聖王を象徴している。周囲の30の小仏塔は30の属州を表し、多くの属州を支配することは、王がそのような資質を確かに有していることを証明するものであった[14]

第1層

最下層(地面)は欲界を表している。東西側は69m、南北は68m。323個の石の結界(ラーオ語:ສີມາ)で囲まれる。各側面には階段付きの礼拝堂が置かれる。東側の礼拝堂(チャンタブリー礼拝堂)には美しく装飾された釈迦の骨が納められていると言われる舎利容器が祀られている。伝承によるとアショーカ王が仏歴218年~236年に作らせた8万4,000基の仏塔の一つとされる[15]

第2層

念仏堂を横切る4面各48mの層で、色界を表す。120枚の蓮弁(蓮の花弁)装飾で囲まれる。小仏像が納められた228枚の結界が設置されている。この層には30基の小仏塔が東西に各9基、南北に各5基配置され仏教の修行である三十波羅蜜の完成を表す。各小仏塔には30段階の波羅蜜が彫られている。建設当初は小仏塔の中に4バーツの金製の小塔、腕の長さの金製のバイラン(ヤシの葉写本)が納められていたとされる[15]。そのバイランには以下の釈迦の縁起四諦の教えのが記されていた。

Ye Dhamma Hetuppabhavā Tesaṃ Hetuṃ Tathāgato Tesañca yo Nirodho ca Evaṃvādī Mahāsamaṇo[15]” 「諸法は原因から生じる。如来はその原因を説き、またその滅を説く。これこそがブッダの教えである」

これらの金は1870年代に中国ホー族により略奪された。

第3層

30基の小仏塔から上の層で各面30m、無色界を表す。インド・サーンチーの仏塔に似た亀の甲羅状(ドーム状)からバナナの花の形をした頂上部分が突き出している[1]

石碑

タートルアンに直接関係する石碑はこれまでに3つ発見されている。うち2つは仏塔の東門の北と南にある。3つ目は300m程度離れたワット・ノンボーン境内内にあった(現在ホーパケオ博物館に移転、展示)[2]

東門北の石碑

高さ122cm、幅92cm、厚さ16cmの砂岩でできた石碑。結界(ラーオ語:ສີມາ)を模した形。両面に刻銘され、それぞれ29行、27行彫られている。1566-1567年に作成されたと推定される[2]

  • 第1面:パーリ語とラーオ語で彫られているが、大きく破損し2/3以上が消失し読解が不可能になっている。
  • 第2面(裏面):摩耗により読み取りが困難な部分がある。東側の壁に貼り付けられていることから物理的に読解が不便である。 文字はタム文字で、現在でも使用されているタム・ラオ文字の特徴を持たず、代わりにタム・ランナー文字やタム・ユアン文字の形式を持つ。
  • 石碑には仏塔の名前(パーリ語でローカチュラマニーやラーオ語でパ・マハー・タート・チャオ・チェンマイ)は言及され、セタティラート王が再建指揮者として紹介されているものの建設工事に関する明示的な言及はない。碑文には仏塔にささげられた王室の供物、高官たちが君主に捧げた供物について扱っている。王の娘(ラタナ王女)への装飾品や奴隷の献上についても言及される[2]
東門北の石碑

ワット・ノンボーンの石碑

ワット・ノンボーン(寺)はタート・ルアンに隣接しており、おそらくかつては同一の宗教施設の一部であった。ここでは2つの石碑が発見されている。一つ目はホーパケオ博物館に展示されている。2つ目は1つ目の石碑のコピーである(長年包丁研ぎに使用され劣化している)[2]。ホーパケオ博物館に保存されている石碑は、高さ84cm、幅63cm、厚さ10cmの砂岩でできている。両面に刻銘され、それぞれ14行、10行彫られている。どちらもタム・ランナー文字で彫られている。

  • 日付は1567年9月12日と特定されている。この碑文でも寄進に関する言及がなされており、パ・ピタティラート(セタティラート王の父:ポーティサラート王)が最初の寄進者とされる[2]

東門南の石碑

高さ115cm、幅75cm、厚さ12cmの大きな砂岩で文字が刻まれているのは片面のみであり、15行のタム・ランナー文字が彫られている。碑文は現在ほとんど消えているが、古い転写記録から解読が可能。

  • 1593-1594年の記述がある。16世紀の最後の10年間にラーンサーンを統治したプラ・ヴォラ・ラタナ・タマ・パソタ・セタ・カッサ・アツァチャン・スヴァンナ・サムット・カッカ・ラタナ・サラ・ラサ・ボピット王(Phra Vora Ratana Thamma Pasota Seta Khassa Atsachan Suvanna Sammut Khakha Ratana Sala Rasa Bophit、別名フノ・ムアン王)(セターティラート王の息子)が広大な土地をタート・ルアンに寄進したと彫られている[2]

破壊と修復の歴史

過去に略奪や破壊の難を受け修復してきた記録が残されている[15]

破壊されたタート・ルアン(ミッション・シモンによる撮影( 1893年~1896年頃))
  • 1827年:シャムによる2度目の侵略、ビエンチャンは破壊され灰燼に帰す
  • 1873年:中国南部国境沿いに暮らすホー族がタート・ルアンの財宝を略奪
  • 1896年:落雷による尖塔の損傷
    • 小仏塔1つ、または2つが雷によって破壊され、5つの品物(波羅蜜が刻まれた金製の碑2個、パーリ語経典テキストが刻まれた金2つ、円錐形の銀の鞘1つ)が発見された[2]
  • 1976年:落雷による頂上の破壊

修復

フランス植民地政府による修復(1900年頃、1930頃)と現政権の下で1980~1983年、2016~2018年に大規模な修復が行われた[2]

フランス植民地政府による修復

フランス植民地政府は1893年から1940年の間にタートルアンとそれを取り囲む寺院を再建した[2]。詳細は以下の通り。

メコン探検委員会の公式絵師であったルイ・デラポルテによるタートルアンの精緻な素描(1867年4月)
  • 1900年頃ルイ・ドラポルテ(Louis Delaporte、1842年-1925年)の1866年から1868年にかけての第一次メコン探検によるスケッチを頼って部分的に修復[2]。これは西洋風でラオスの特徴が失われたと批判を受けた[15]
  • パルマンティエ(Parmentier)が1928年にタートルアンを訪れ回廊の状況と改修の可能性を調査[2]
  • レオン・フォンベルト(Léon Fombertaux、1871-1936年)が1930年6月から1935年まで修復工事を監督。考古学的に可能な限りオリジナルに近づけることを目的にしていた[2]
    • 西側の礼拝堂の修復作業中に階段の下に古い階段を発見。その階段は少なくとも一方の側面に「象の2本の足が乗っている台座があり、その半分が外壁から突き出ている」という特徴があった。北西の角の建物を崩すことで、古いテラスの一部を露出させ図面を作成[16]
    • 考古学的発掘調査は、修復作業と並行して1934年3月から開始。仏塔の一部を解体し、現在の仏塔の下に原始的な仏塔を発見した[16]
  • 再建により1934年11月20日から22日にかけて、タート・ルアンの祭りが成功裏に行われたとの報告が残っている[2]

1975年革命後の修復

かつては西側に山門があったが、混雑時の往来を妨げるとして現在は撤去されている。
  • 1976年、ラオス人民民主共和国政府はラオスの文化遺産の収集を決定し、全国の遺跡や歴史的モニュメント、僧院などの管理と保全を指示。その中で落雷で破壊された尖塔を銅製のもに置換し、全体を新しい漆喰で修復[2]。30の小仏塔を再建するため各尖塔に三十波羅蜜つを刻む作業を開始[16]
  • 1985年、保存修復委員会はチャンタブリー礼拝堂を旧来の建築様式に再建することを決定[2]
  • 2016年9月から2018年まで第4期修復となる建設450周年を記念する「タート・ルアン仏塔修復プロジェクト」が実施。2016年10月31日には仏塔の尖塔部分に金9kg9バーツ9サルン[17]の金が張り付けられた[18]

タート・ルアン祭り

タート・ルアン祭りはラオスの12の慣習(ラーオ語:ຮີດສິບສອງ)の一つに数えられる重要な祝祭の一つである[19]

1560年に首都をシェントン(現ルアンパバーン)からビエンチャンへと遷都し、ラオス歴12月上弦8日から7日7晩のお祝いがなされた。これがタートルアン祭りへと受け継がれたとされる[20]。現在は毎年、11月に開催される1週間に及ぶ仏教行事。タートルアン広場に多くの屋台が立ち並び、蓮の花蝋燭線香などを手に寺院、仏塔の周りを3周右繞(ラーオ語:ວຽນທຽນບູຊາພຣະທາດ )した後、供える儀式やラオス全土の僧侶がビエンチャンに集結し行う早朝の大托鉢などが行われ、例年約30万人の人出でにぎわう。タート・ルアンの夜間ライトアップも行われる。

タート・ルアン祭りの朝の大托鉢の様子

17世紀のタート・ルアン祭り

西洋人によるタート・ルアンに関する最初の報告は、1641年にオランダ東インド会社の使節団の次席商人としてヘリット・ファン・ヴストホフ (Gerrit van Wuysthoff)による、報告書がある[21][22]。 彼の目的は、当時のランサーン王国が世界最大の産地であった安息香麝香スティックラックの交易ルートを確保し、商業的な可能性を調査することにあった。

ヴストホフ一行がヴィエンチャンに到着したのは、ちょうどタート・ルアン祭りの時期であった。国王スリニャ・ヴォンサーは宮殿を離れ、街から2マイルほど離れたタート・ルアン仏塔の近くに滞在していた[22]

1641年11月16日、ヴストホフはスリヤ・ヴォングサー王にタート・ルアンの回廊で謁見を許された。王は白い象に跨り、300人の歩兵、数頭の戦象、そして音楽隊を引き連れて現れた。その後ろにはさらに2,000人の兵士と、王の5人の妻を乗せた16頭の象が続くという、凄まじい威容であった[22]。そこは四方を石壁で囲まれた広大な空間であり、中央には巨大な黄金のピラミッド(タート・ルアン)がそびえ立っていた。当時、この塔の頂上部には9ピクル(約540kg以上)もの金が使われていたと伝えている[22]。謁見の後には、レスリング、ボクシング、フェンシングといった競技が披露された。夜になるとランプが灯され、王の若い妻たちによる舞踏が行われ、最後には花火が打ち上げられた[22]。また、タート・ルアン祭りでは、王が主催する灯篭流しとボートレースを同時に行っていた[23]

20世紀(1975年革命前)のタート・ルアン祭り

1950年頃の様子

  • 1950年の頃はノンボーンからタート・ルアンまでは1つの道しかなかった。土の道路であった。北には小さな廃墟があり、木造の荒れた僧房があった。南側にはそこに居を構えていたカムディさんの小さな僧房が1軒あったのみであった。今のタートルアン広場の辺りには木や草が生い茂っていた。タートルアン祭りには、今のような様々な国の展示出店も無く、花火がある程度で、夜に行われる花火は、イトゥー花火、タライ花火など仏塔の角に点火された[24]

1966年頃の様子

歴史家マハー・シラ・ヴィラヴォンは革命前の1966年当時のタートルアン祭りの様子を以下のように記録している[23]

  • ラオス歴12月13日上弦の夜、王族や公務員、兵や警察、国民がシームアン寺に蝋の櫓や花などを持ち寄り蝋の櫓(ラーオ語:ຜາສາດເຜິ້ງ)のパレードを行う。これは都知事が主催する。
  • 翌14日朝、ワット・オントゥー寺で聖水を飲む儀式が行われる。王がきらびやかに勲章を着飾って主催する。聖水は上級公務員、閣僚、上級兵・警察、村長などに限られる。
  • 14日14時、村長や国民はタート・ルアンまでの蝋の櫓(ラーオ語:ຜາສາດເຜິ້ງ)のパレードを行う。15時に王が仏塔に到着。蝋の櫓(ラーオ語:ຜາສາດເຜິ້ງ)はタートルアンの回廊に集合する。軍人らは勲章で着飾る。かつてはカム族の竹の楽器演奏も行われたが、ラオ族が代わりを務めるようになっている。
  • 15日朝、タート・ルアンにて王族や閣僚らも参加して托鉢を行う。
  • 15日13時、王が再度タート・ルアンを訪れ、スポーツ競技(競馬やティキー(ラーオ語:ຕີຄີ))を観戦する。ティキーはサッカーに似た競技で公務員チームは赤い服を着る。かつては競馬や象の競技なども行われたとされる[25]
  • 15日夜は蝋の櫓(ラーオ語:ຜາສາດເຜິ້ງ)を担いでタート・ルアンを右繞(ラーオ語:ວຽນທຽນບູຊາພຣະທາດ )する。

革命後(現在)のタート・ルアン祭り

革命後の現在も、基本的に従来の伝統を維持している[23]

  • ラオス歴12月13日上弦:シームアン寺に蝋の櫓(ラーオ語:ຜາສາດເຜິ້ງ)を担いで集合し夜明けを待つ
  • ラオス歴12月14日上弦:ノンボーン寺までパレード、14時にタート・ルアンへとパレード。
  • ラオス歴12月15日上弦:
    • 朝タートルアンの広場で大規模な托鉢。2000~3000人の僧が集合。信者は数万人規模が集う。
    • 昼に伝統的なスポーツであるティキー(ラーオ語:ຕີຄີ)が行われる。ティキーは12時30分からパレードを行い、その後、20から25人を1チームとして公務員代表と国民代表の選手による団体競技(前半25分、後半25分)である。国民代表が勝利した場合は、その年は田には米が豊かに実り、池には魚が繁殖する。公務員代表が勝利した場合は町が安全で生活が向上するといわれる[25]。別の言い伝えでは、公務員が勝利した場合は旱魃となり、米や魚が取れず、犯罪が増え、疫病が流行するともいわれる[26]
    • かつては競馬や象の競技なども行われたとされる[25]
    • 夜20時から23時過ぎまで蝋の櫓(ラーオ語:ຜາສາດເຜິ້ງ)や蝋燭、花を手にタート・ルアンを右繞(時計回りに3周)(ラーオ語:ວຽນທຽນບູຊາພຣະທາດ )し、花火などが行われる。


現在は、タート・ルアン広場とLao-ITECC会場を合わせて屋台・ブース数が2,300以上に達しており、ベトナム、中国、カンボジア、タイの各都市を招いた地域的な文化交流・貿易の機会ともなっている[27]


国家の象徴としてのタート・ルアン

タート・ルアン広場

参考文献

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