ワット・シームアン
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言い伝えによると、1509年に都市の礎柱(ラック・ムアン)を立てるために中心部に家一軒が埋まるほどの長方形の穴を掘る儀式が行われた。当時の大臣や役人たちは、響き渡る銅鑼の音とともに村人たちに「この都の礎とならんとする尊き供養のため、誰がこの穴に身を投じ、その命を捧げるであろうか」と告げた。サイ村に住まう心優しき妊婦、シー(ラーオ語:ສີ)という女性は、穴の深さを二度、静かに見つめ三度目に、自らの身をもって、この聖なる供養に応えんと決意し、静かにその穴へと身を投じた。そしてその上に、ビエンチャンの永劫なる繁栄を象徴する礎柱が建立された[3]。
その犠牲によってヴィエンチャンの守護霊(シームアン聖女(ラーオ語:ເຈົ້າແມ່ສີເມືອງ)となったとされている[4]。
ワット・シームアンはこの町の礎柱がある場所にセータティラート王(ラーオ語:ເຈົ້າໄຊຍະເຊດຖາທິລາດ)が1563年に建立した仏教寺院である。これはランサーン王国のセタティラート王がルアンパバーンからヴィエンチャンに首都を移した際に建立されたと伝えられている[5]。ヴィエンチャンはセーターティラート王の治世下で新たな宮殿や寺院やタート・ルアン仏塔の建設など、都市建設プログラムの一環として整備された[5]。この寺院が建立された16世紀当時、精霊崇拝は王国の公式な儀式からは抑制されていたが、シームアンの聖女(ラーオ語:ເຈົ້າແມ່ສີເມືອງ)のような強力な守護霊への信仰は、民衆の間で根強く存続した[5]。
破壊と再建
ヴィエンチャンは1827年から1828年のラオ・シャム戦争の後にシャム軍によって徹底的に略奪され、都市全体が破壊された。その際、ワット・シームアンも甚大な被害を受けた。現在の寺院は1915年に再建されたものである[5]。
また、フランス植民地時代、仏教復興の取り組みの一環として修復が行われ、1930年(仏暦2473年)には、ワット・タートルアン、ワット・シーサケートと共に、ワット・シームアンの修復が実施された[6]。
住職
現在の住職は、ラムグン・スワンナサーン大師(ラーオ語:ພຣະອາຈານໃຫຍ່ ປທ ລຳເງິນ ສຸວັນນະສານ)である[7]。
本堂

本堂(ラーオ語:ສິມ)は、様々な仏像が安置されるが、本尊が無く代わりに巨大な長方形の町の礎柱が安置されている点が特徴である[8]。人々は本尊の仏像を拝むのと同じように、この石の礎柱を拝み、金箔を貼る。この礎柱は共同体の中心であり、神聖な儀式が行われる場所となっている。
町の礎柱はラテライトの直方体で、かつてはクメールの都市の境界を示す古代の標石であった可能性が指摘されている。この寺院からはホーパケオに展示される多くのクメールの遺物が発見された[8]。礎柱の周囲には複数の仏像が安置されており、特に地面に座る仏像は特別な崇拝対象とされている。というのも、本堂裏の仏塔遺跡で行われた悪霊払いの儀式の際に偶然発見されたもので、強力な守護力があると信じられているためである[9]。
信仰
人々は現在もワット・シームアンを聖なる場所として信仰しており、学問、恋愛、仕事、健康と幸運の恵みを求める場所として特に有名である。なかでも火曜日と布薩日(ラーオ語:ວັນສິນ)には、寺に寄進し、シームアンの聖女(ラーオ語:ເຈົ້າແມ່ສີເມືອງ)へ祈願する。その願いが叶った際にはお礼参りを行う習慣がある[10]。
蜜蝋の櫓のパレード
ラオス歴の12月15日上弦の日、タート・ルアン祭りの日には、蜜蝋の櫓のパレード(ラーオ語:ແຫ່ປະສານເຜິ້ງ)がタート・ルアン仏塔へ向けて行われるが、ワット・シームアンはそのスタートポイントとなる[3]。
町の柱への供養儀式
11月には町の礎柱への供養儀式(ラーオ語:ພິທີຖວາຍເຄື່ອງສັງເຫວີຍແດ່ມະເຫສັກຫຼັກເມືອງ)が行われる。都市の守護神の象徴である町の柱に対して花、線香、ロウソク、果物、お菓子、米などの供物を捧げ、加護を祈る供養儀式である。


