ダヴィト2世 (イベリア王)
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ダヴィト2世は、イベリア王アダルナセ4世の長男であり、その後継者であった。生年は史料上明確ではないが、系譜研究では894年頃と推定される場合がある[2]。
ダヴィト2世の実効支配領域は、クヴェリ要塞からジャヴァヘティ、および下タオに限定されていた。これは、ジョージアの内陸部(内カルトリ)の主要地域が、当時アブハジア王国の支配下にあったためである。
ダヴィト2世は王号を有していたものの、父アダルナセ4世とは異なり、東ローマ帝国から授与される高位称号クロパラテスを帯びなかった。この称号は、ダヴィト2世の弟であるアショト2世に与えられた。その結果、ダヴィト2世の政治的影響力と威信は、弟アショト2世の存在によって相対的に低下した。
ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世の著した『帝国統治論』によれば、ダヴィト2世が有していたビザンツ帝国の称号はマギストロスにとどまり、この称号は上タオ公グルゲン2世と共有されていた[1]。
グルゲン2世とダヴィト2世は、グルゲンの親族であるアショト・キスカシが支配していた都市アルタヌジを、ビザンツ帝国が掌握しようとしたことに対して共同して反対した。この抗争の過程で、ダヴィト2世はビザンツ帝国の全権使節であるパトリキオス・コンスタンスを拘束したとされる。コンスタンスは、グルゲン2世をマギストロスに任命し、さらにダヴィト2世の弟アショト2世をクロパラテスとして叙任するために派遣されていた[3]。
ジョージア語史料によれば、この時期にビザンツ皇帝ロマノス1世が占拠したアルタヌジ要塞は、ダヴィト2世とエリスタヴト=エリスタヴィ(大公)であるグルゲンによって、戦闘を伴わずに回復されたとされる[4]。
ダヴィト2世について、婚姻関係は史料上確認されておらず、子を残さないまま937年に死去した。その後、王位は弟のスムバト1世が継承した[5]。