チッタゴン丘陵地帯和平協定
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| Chittagong Hill Tracts Treaty 1997 পার্বত্য চট্টগ্রাম শান্তি চুক্তি | |
|---|---|
| 種類 | 平和条約 |
| 署名 | 1997年12月2日 |
| 署名場所 | 首相府 |
| 調停者 | チッタゴン丘陵地帯問題国家委員会 |
| 交渉参加者 |
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| 当初の署名国 |
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| 書面 | Chittagong Hill Tracts Accord |
| 言語 | 英語、ベンガル語 |
チッタゴン丘陵地帯和平協定(チッタゴンきゅうりょうちたいわへいきょうてい、ベンガル語:পার্বত্য চট্টগ্রাম শান্তি চুক্তি)は、1997年12月2日にバングラデシュ政府と、武装組織シャンティ・バヒニを指揮していた政治組織チッタゴン丘陵人民連帯協会との間で締結された和平協定である。本協定により、チッタゴン丘陵地帯の人々や諸部族の権利が承認され、シャンティ・バヒニと政府軍との数十年にわたる武力衝突に終止符が打たれた[1][2][3][4][5]。
紛争
こうした状況の下、1973年にマナベンドラ・ナラヤン・ラルマらは、すべての先住民族および部族を結集する統一的な政治組織として、チッタゴン丘陵人民連帯協会 (PCJSS)を設立した。PCJSSの武装部門であるシャンティ・バヒニは、政府の政策に抵抗するために組織された[7][9]。 シャンティ・バヒニの反政府武装勢力は、隣接するインドのトリプラ州に潜伏し、そこで訓練を受け武装を整えた。1977年には、バングラデシュ陸軍の車列に対して初の攻撃を開始した[7][9][10]。シャンティ・バヒニは作戦地域を複数のゾーンに分割し、正式な訓練を受けた先住民族から部隊を編成した。シャンティ・バヒニは、ベンガル人の警察官や兵士、政府機関およびその職員、さらに同地域に入植したベンガル人入植者を攻撃した。また、同組織に反対し、政府を支持しているとみなした先住民族に対しても攻撃を行った。武装紛争の過程で、シャンティ・バヒニ、バングラデシュ軍、警察、そしてベンガル人入植者の集団はいずれも、人権侵害や民族浄化を行ったとして非難された[11][12]。
解決に向けた試み
バングラデシュ大統領のジアウル・ラフマンは、同地域の社会経済的ニーズに対処するため、軍将官の指揮下にチッタゴン丘陵地帯開発委員会を設置した。しかし、この組織は不評で、先住民族の間に政府に対する反感や不信感を生む要因となった。政府はまた、1962年のカプタイ・ダム建設によって推定約10万人が立ち退きを余儀なくされたという、長年にわたる住民の移動問題に対処できなかった。1980年代半ばには、政府が同地域へのベンガル人の入植を開始し、その結果、多くの先住民族が立ち退かされ、人口構成が大きく変化した。1974年には地域人口のわずか11.6%に過ぎなかったベンガル人の割合は、1991年には48.5%にまで増加した。1989年、当時の大統領フセイン・モハンマド・エルシャド政権は、先住民族の代表に権限と責任を委譲する目的で、3層の地方自治評議会を設置することを定めた地区評議会法(District Council Act)を成立させた。しかし、これらの評議会はPCJSSによって拒否・反対された[4]。
和平協定
1991年に民主主義体制が回復した後、和平交渉が開始された[13]。1996年には、シェイク・ムジブル・ラフマンの娘であり、アワミ連盟の新首相に就任したシェイク・ハシナの下で、新たな交渉ラウンドが開始された[13]。和平協定は1997年12月2日に最終化され、正式に署名された[5]。
この合意により、チッタゴン丘陵地帯の部族および先住民族に固有の民族性と特別な地位を認めるとともに、丘陵地帯の3地域の地方自治評議会から構成される地域評議会(Regional Council)が設置された[4]。評議会は、チャクマ族、マルマ族、トリプラ族、ムルン族、タンチャンギャ族の各部族から選出された男女によって構成され、その代表者は丘陵地帯の各地区評議会によって選出されることとされた[4]。5年の任期で選出され、評議会は治安維持、社会正義および部族法の運用、一般行政の監督、災害救援・管理の調整、重工業に関する許認可の発行、ならびにその他の開発事業の監督について、権限と責任を有するとされた[4]。バングラデシュ中央政府は、チッタゴン丘陵地帯に関するすべての事項について、地域評議会と協議することが義務づけられた[4]。
この合意ではさらに、丘陵地帯に関する事務を管轄するため、部族出身者が長を務める部族問題省を設置することも定められた[4]。また、立ち退きを強いられた先住民族への土地返還と、チッタゴン丘陵地帯において詳細な土地調査を実施する計画が示された[4]。
評価
協定が署名された後、PCJSSは主流政党として台頭した。シャンティ・バヒニの反政府武装勢力は正式に武装解除を行い、金銭的補償を受けた[2]。5万人を超える、立ち退きを強いられていた先住民族たちは故郷への帰還を果たすことができた[2][3][13]。協定に対するバングラデシュ国内の反応は賛否が分かれた。暴力の終結と平和・開発の促進を望む多くの人々からは評価された一方で、この協定はチッタゴン丘陵地帯がバングラデシュの不可分の一部であるという主張を弱め、同国の領土的一体性を損なうものだとして、問題視する見方もあった[1]。また、協定の交渉過程が秘密裏に進められたことが、当時の野党であったバングラデシュ民族主義党(BNP)による批判の対象ともなった。BNPは、協定においてベンガル人入植者の要求が考慮されておらず、過度な譲歩がなされたと主張した[1][2][4]。しかし、BNPは2001年の選挙で勝利した後、この協定を実施すると約束した。