チョーゾー

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チョーゾー
ကျော်ဇော
渾名 タキン・シュエ
生誕 1919年12月3日
英領ビルマバゴー地方域ターヤーワディ郡区
死没 2012年10月12日
中華人民共和国雲南省昆明
所属組織 ミャンマー軍
配偶者 タンセイン(Than Sein)
子女 フラチョーゾー(Hla Kyaw Zaw)
サンチョーゾー(San Kyaw Zaw)
アウンチョーゾー(Aung Kyaw Zaw)
チョーゾーウー(Kyaw Zaw Oo)
トゥンエイチョーゾー(Tun Aye Kyaw Zaw)
除隊後 人民解放軍(PLA)司令官
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チョーゾービルマ語: ‌ကျော်ဇော英語: Kyaw Zaw1919年12月3日 - 2012年10月12日 )は、ミャンマー独立の英雄である30人の同志の1人であり、ミャンマー軍(国軍)の司令官である。また、ビルマ共産党(CPB)の軍事組織である人民解放軍(PLA)の司令官も務めた。

1919年12月3日、バゴー地方域ターヤーワディ郡区サイス村(Hsaisu village)生まれ。本名はシュエ[1]

僧院で学んだ後、ヤンゴンの高校に進学。そこでタキン党の教師たちに感化され、タキン党の武装組織・ドバマー・イェタッ(ビルマ語: တို့ဗမာရဲတပ်)に入隊する。英語が苦手だったため、入試に英語が必須な大学へは進学せず、高等教員養成学校に進学した[2]

1938年12月20日、1300年革命の一環としてヤンゴンで行われた学生デモに参加。その際、アウンチョーという学生が騎馬警察隊に殴られて死亡する現場を目撃し、本人も負傷した(cf.ボー・アウンチョーの日[3]

30人の同志

デモの後、チョーゾーはタキン党に入党し、タキン・シュエとなった。地元に戻って結婚し、教師をしながら独立闘争のために地元の民兵組織に関与していたが、英語を学び直すために、1941年にヤンゴンに戻った[2]

しかし、そこで日本軍と協力してミャンマー独立を目指す30人の同志の1人に選ばれ、1941年4月13日、渡日した。その後、仲間とともに海南島で軍事訓練を受けた後、バンコクに渡り、ビルマ独立義勇軍(BIA)の結成に加わった。チョーゾーはその時に与えられた戦闘名である[2]

1945年3月27日、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日武装蜂起した際には、タウングー南部、ハンタワディの第4軍区司令官を務めた[4]

ミャンマー軍司令官

1948年にミャンマーが独立した際には、ネ・ウィン、ボー・バラ(1958年に退役)とともに新生ミャンマー軍(国軍)に参加した30人の同志の3人のうちの1人だった[5]。チョーゾーは優秀な現場司令官として独立当初の反乱鎮圧に活躍し、1949年2月1日にネ・ウィンが国軍総司令官に就任した際は、当時南北の2つしかなかった地方司令部のうち、北部司令部の司令官に30歳の若さで就任した[6]

1950年に中国国民党軍(KMT、〈泰緬孤軍〉)が侵入して以降は、KMT掃討作戦に従事し、1954年までにその大半を泰緬国境に放逐した。また、KMTから鹵獲したアヘンについても、他の司令官たちが横流しして私腹を肥やすなか、チョーゾーは躊躇なく焼却処分したと伝えられる[7]

しかし1956年、国軍が占領したミャンマー北部のビルマ共産党(CPB)の拠点から、チョーゾーとCPBとの関連を示す文書が発見されたと報じられる。チョーゾーは機密漏洩の罪で告発され、翌1957年2月13日に中佐に降格され、6月7日には解雇された[8]

チョーゾーはネ・ウィンと並ぶ人気将軍であり、その人気に嫉妬したネ・ウィンによる謀略説も流れたが、後年のインタビューで、チョーゾーは1944年にCPBに入党し、翌1945年には中央委員会委員にも選出されていたことを告白している[9]

人民解放軍最高司令官

退役後、チョーゾーはわずかな年金で暮らしていた。1960年には総選挙に出馬したが落選した。1963年に革命評議会が各武装勢力との和平交渉に臨んだ際には、タキン・コウドオ・フマイン英語版とともに和平運動を参画した[2]

しかし、1976年3月、オーチョーミン英語版陸軍大尉ら若手陸軍将校によるネ・ウィン暗殺計画が発覚。その際、暗殺が成功した場合の新しい革命評議会のメンバーにチョーゾーの名前があったことから、暗殺計画への関与が疑われた。チョーゾーは、逮捕直前の8月8日にヤンゴンを脱出し、8月10日にシャン州にあるCPBの北東軍区に到着。CPBの軍事組織である人民解放軍(PLA)の最高司令官に就任し、CPBのラジオ局・ビルマ人民の声(PVOB)を通じて、国民に一斉蜂起を呼びかけたが、呼応する者はいなかった[10]

中国へ亡命

1988年にCPBが崩壊した後、チョーゾーは中国に亡命した[3]

1998年にはエーヤワディ紙の電話インタビューに応え、軍事政権と国民民主連盟(NLD)との和解を呼びかけた[11]

2007年には、タイの出版社から『My Memoirs: From Hsai Su to Meng Hai』と題した回顧録を出版した[3]

死去

脚注

参考文献

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