30人の同志

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30人の同志(30にんのどうし、ビルマ語: ရဲဘော်သုံးကျိပ်)は、ミャンマーのイギリスからの独立を目指し、海南島で軍事訓練を受けた30人のミャンマー人の民族主義者の若者たちのことである。彼らはビルマ独立義勇軍(BIA)を結成し、日本軍のビルマ侵攻作戦の一翼を担った。

ミャンマー脱出

アウンサン

独立運動を展開していたタキン党は、1938年の1300年革命の挫折を経て、1939年頃から武装闘争を画策しており、兵器の供給先候補として中国国民党中国共産党インド国民会議が挙がっていた。そして1940年8月、逮捕状が出て潜伏していたアウンサンとタキン・フラミャインを中国共産党に接触すべく、中国人苦力に変装させて、中国船ハイリー号(海利号)でミャンマーを脱出させた。8月8日、2人は厦門に到着したが、中国共産党には接触できず、資金も尽きたところで、日本の憲兵隊に捕まり、東京に連れていかれた。当時、読売新聞記者・南益世と名乗ってミャンマーで諜報活動をしていた鈴木敬司大佐が、タキン党のメンバー2人が密出国した情報を入手し、アモイの日本租界の憲兵隊に事前に連絡していたのだ[1][2]

東京でアウンサンは、先に東京に戻って羽田飛行場で出迎えた鈴木から日本軍に協力するように要請された。当時、日本陸軍は、日本がイギリスと戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定しており、日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとしていた[3]ナガニ図書クラブ英語版ビルマ語版から出版されていた『日本のスパイ』という本で、日中戦争における日本の蛮行を知っていたアウンサンは、当初日本との協力に躊躇したが[4]、結局、鈴木に説き伏せられ、両者はタキン党が日本軍のビルマ侵攻に協力する代わりに、日本がビルマの独立を約束することで合意した。しかし、「ビルマ独立」は鈴木の独断で、参謀本部の許可を得ていなかった[2]

1941年2月1日、ビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関として「南機関」が設立された。アウンサンは再び中国人に変装して海路でビルマに戻り、タキン党の幹部と会談し、有意な若者をミャンマーから脱出させ、日本軍の下で軍事訓練を受けさせる計画を練った。そして同年3月10日、アウンサンは、タキン・フラペ(ボー・レッヤ)、タキン・バジャ、タキン・エイマウン、トゥンシェイン(ボー・ヤンナイン)とともに日本の米買付船・春天丸で日本に向かった[5]。4月13日、ソールイン(ボー・ミンガウン)、ソー、タンティン、シュエ(チョーゾー)、ティンエイ、アウンテイン、トゥンシュエの7人が同じく日本の米買付船・恵昭丸で日本に向かった。第3陣、第4陣もその後に続いた[6]

海南島における軍事訓練

一行は箱根にある岩崎与八郎の別荘で束の間の休暇を取った後[注釈 1]、4月中に当時日本軍の占領下にあった海南島三亜市に移動して、そこに設けられた「三亜農民訓練所」で、(1)中隊以下の実兵の指揮、兵員の訓練などができる指揮官の養成(リーダーはチョーゾー)、(2)ゲリラ、謀略破壊活動の指揮官の養成(同ネ・ウィン)、(3)師団以下の運用ができる指揮官の養成(同アウンサン)の3班に分けられ、軍事訓練が開始された。訓練は厳しいもので、口に合わない味噌汁・たくあんの日本食、平手打ちなどミャンマー人に到底受け入れられない日本人上官のシゴキなどで両者の間に軋轢を生じることもあったが、おおむね信頼関係を築くことに成功した[7]。訓練中、特に頭角を現したのが、目立たないタキン党のメンバーだったネ・ウィンで、第2班で訓練を受けていたが、その優れたリーダーシップを買われ第3班の訓練も受けるようになった。南機関の泉谷達郎によると、「(ネ・ウィンは)理解力が異常に早く、実技と理論の両方で教官の代わりになって、他の人が理解しやすいように説明してくれた」「(日本人とミャンマー人の間で喧嘩になったときは)ネ・ウィンは仲介者となり、解決策を提供しようと努めた」と述べている。禁欲的なアウンサンと賭博や女性が好きなネ・ウィンは事あるごとによく衝突したが、終局、独立の目的達成のために皆で協力しあったのだという[8]。訓練は3~4か月で終了する予定だったが、戦況の変化により、10月まで伸びた。海南島を引き払った後、一行は休養を兼ねて台湾に移動したが、移動中の船の中でタキン・タンティン(Ⅱ)が発病し、当地で亡くなった。30人の同志最初の犠牲者だった[9][10]

ビルマ独立義勇軍(BIA)結成

その後、一行はタイのバンコクに移動した。その際、タキン・タンティン(Ⅰ)がチェンマイで病死し、2人目の犠牲者となった[注釈 2]。アウンサンらは当地の在泰ミャンマー人から100人以上の義勇兵を募り、1941年12月28日、ビルマ独立義勇軍(BIA)を結成した。その際、メンバーは過去のビルマの貴族の儀式に則り、指を切り、血を注ぎ、忠誠の誓いを立てた。30人の同志にはそれぞれに戦闘名が与えられ、独自の階級制の下、司令官9人のうち7人は南機関所属の日本人で、最高司令官には鈴木がビルマ名ボー・モージョー[注釈 3]を名乗って就任し、アウンサンは少将の地位を与えられ司令部に配属された。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された[2]。12月31日にには閲兵式が行われた[11]

そして1942年1月3日、BIAはビルマ侵攻作戦に参加し、複数のルートでミャンマーへ進軍した。BIAは、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進、一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。ビルマ攻略戦終結時にはBIAの総兵力は約2万7千人に達したとも言われる[注釈 4][12]。しかし、その任務は戦闘よりも民衆工作に置かれ、あくまで補助的な役割だった。また、進軍の途中の2月16日に、ボー・ソーアウンがバゴー地方域シュエジン英語版で銃撃されて戦死し、3人目の犠牲者となった。そして、モーラミャインにBIAが入城した際、鈴木との約束で独立宣言がなされることになっていたが、先に同市を占領していた第55師団はそれを許さず、それどころか、あらゆる政治活動、徴兵を禁止するという事態が生じた[注釈 5][13]。3月8日にはラングーンを占領し、3月25日に4500人による観兵式を行い、人々に熱狂的に歓迎されたが、やはりそこでも独立宣言はなされなかった[注釈 6][14]。南方軍総司令部および第15軍は、1941年11月20日に大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要綱」に従い、当面、ミャンマーには軍政を敷く予定だった[15]。日本軍の目的が明白となり、BIA内部では抗日の動きも出たが、アウンサンは現状勝機なしと判断し、BIAに戦闘経験を積ませるために、「北伐戦」と呼ばれた日本軍四個師団によるミャンマー中央部の英印軍掃討作戦に従事した[16][2]

結局、ミャンマーの完全独立は果たせず、南機関は解散し、鈴木も帰国した。そして8月1日、バー・モウを国家代表(Naingandaw Adipadi)兼首相とする、日本の傀儡国家・ビルマ国の樹立が宣言された。30人の同志のメンバーは、行政府やビルマ国民軍(BNA)などに吸収されていった。

その後

その後、30人の同盟の多くは政財軍界で活躍した。ただ、独立後の新生ミャンマー軍(国軍)に残ったのはネ・ウィン、チョーゾー、ボー・バラの3人だけで、しかもチョーゾーは1957年、ボー・バラは1958年に退役しているので、実質国軍に残ったのはネ・ウィンだけだった[17]

また、残りのメンバーの多くが、その後反政府武装勢力に参加している[17]

  • 人民義勇軍(PVO)…ボー・ラヤウン、ボー・ターヤー
  • ビルマ共産党(CPB)…ボー・ヤンアウン、ボー・イェトゥッ、ボー・ゼヤ、チョーゾー
  • 議会制民主主義党(PDP)…ボー・レッヤ、ボー・ヤンナイン、ボー・ムアウン、ボー・セッチャー

8888民主化運動の際には、ボー・ヤンナイン、ボー・イェトゥッ、ボー・ポウンミン、ボー・タウテイン、ボー・ソーナウン、ボー・ターヤー、ボー・ムアウン、ボー・バラ、ボー・ズィンヨーの、当時存命していた30人の同志11人のうち9人がネ・ウィンを批判する声明を出した。残りの2人はネ・ウィン自身と、CPBで総司令官を務めていたチョーゾーである[18]

南機関のとミャンマーとの交流は後年も続き、元メンバーの高橋八郎杉井満、海南島での軍事教官・川島威伸はのちに東京のミャンマー大使館で顧問として働いた。1981年1月4日には、ビルマ政府は、鈴木敬司の未亡人、高橋八郎、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄の南機関関係者7人にアウンサン勲章を授与した[19]

メンバー

脚注

参考文献

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