ティモシー・リアリー

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ティモシー・フランシス・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、アメリカ心理学者である。集団精神療法の研究で評価され[1]ハーバード大学で教授となる。ハーバード大学では、シロシビンLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)といった幻覚剤による人格変容の研究を行った。幻覚剤によって刷り込みを誘発できると主張し、意識の自由を訴えた。しかし、マリファナ所持で投獄される。囚人生活中に宇宙移住計画の構想をまとめた。晩年は、宇宙移住をサイバースペースへの移住へと置き換え[2]、コンピューター技術に携わった。コンピュータを1990年代のLSDに見立て[3]、コンピュータを使って自分の脳を再プログラミングすることを提唱した[4]

職業
配偶者
    マリアン・ブッシュ
    (結婚 1944年、死別 1955年)
      メアリー・デラ・チョッパ
      (結婚 1956年、離婚 1957年)
        ネーナ・フォン・シュレブリューゲ
        (結婚 1964年、離婚 1965年)
          ローズマリー・ウッドラフ
          (結婚 1967年、離婚 1976年)
            バーバラ・チェイス
            (結婚 1978年、離婚 1992年)
            概要 ティモシー・リアリー, 生誕 ...
            ティモシー・リアリー
            ティモシー・リアリー(1989年)
            生誕 ティモシー・フランシス・リアリー
            1920年10月22日
            アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州スプリングフィールド
            死没 (1996-05-31) 1996年5月31日(75歳没)
            アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
            職業
            配偶者
              マリアン・ブッシュ
              (結婚 1944年、死別 1955年)
                メアリー・デラ・チョッパ
                (結婚 1956年、離婚 1957年)
                  ネーナ・フォン・シュレブリューゲ
                  (結婚 1964年、離婚 1965年)
                    ローズマリー・ウッドラフ
                    (結婚 1967年、離婚 1976年)
                      バーバラ・チェイス
                      (結婚 1978年、離婚 1992年)
                      子供 3人
                      科学者経歴
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                      生涯

                      心理学者の道へ

                      ティモシー・リアリーは、1920年10月22日にマサチューセッツ州スプリングフィールドで生まれた。1936年に入学したスプリングフィールドのクラシカル高校では生徒会長と学校新聞の編集長を務めたが、新聞で学校の全体主義を批判し校長からの大学の推薦の機会を失う[5]イエズス会系の神学校ホーリークロス大学で2年過ごした後、ウエストポイント陸軍士官学校に入り、軍隊的組織のなか上官に逆らったことが原因で組織的な無視を受け、無視の無罪を発表されるかわりに学校を去ることにした[6]。『ユリシーズ』を読み、衝撃を受ける[7]。おじに再び大学に行くよう説得され今度は共学にすると決め、アラバマ大学の心理学部に入学しディー教授のもとで学ぶが、ガールフレンドの女子寮に忍び込んだことが原因で退学になる[8]

                      1943年、徴兵命令でヴァージニア州ユスティス基地に配属され、しばらくすると心理学の課程を修了させるという軍の方針で、ジョージタウン大学で3ヶ月、オハイオ州立大学で6ヶ月学び、精神分析コンサルタントとして転属したあと、軍病院で精神科医となったディー教授に再会しペンシルベニアの軍病院に移る[9]。配属先で、後に妻になるマリアンヌに出会い同棲をはじめ、マリアンヌと一緒にワシントン州立大学で心理学の修士号をとり、リアリーはさらにバークレー大学の心理学博士の課程に入学する[10]。リアリーは患者の意図抜きで決定していく精神療法に疑問を抱いており、当時は患者同士に治療を行わせるおかしなものだと捉えられていた集団精神療法というのが提唱されてきたのを機に、言語による人間同士の相互作用が観測できると思い、この研究を開始する[11]。精神科医のハリー・スタック・サリヴァンが主張した、対人間の相互作用で人格が構築されるという理論を進展させ、また人格検査のモデルも作った[12]。研究に参加していた女性と不倫関係になり、1955年には妻マリアンヌは自殺する。カイザー基金病院の心理学研究所理事長の地位を捨て、ヨーロッパを放浪する[13]

                      この頃書いた、『人格の人間関係的診断』(IDP, Interpersonal Diagnosis of Personality )[14]は、1957年の精神療法で最高の研究と評された[1]。IDPは、患者自らが自分の性格や自分のゲームの役割を探求し、患者に自己決定させ、患者と心理学者を対等に扱い自然な環境の中でやり取りを行う、といった革新的な内容を提案した[15]。後に、エリック・バーン交流分析とゲームの理論を一般化させる[16]

                      ハーバード大学で幻覚剤研究

                      1959年イタリア、バークレー大学時代の友人で創造性の心理学の権威であるフランク・バロンがマジック・マッシュルームを食べて神秘的な体験をしたという話をしたが、リアリーはこの話についていけなかった[17]。フランク・バロンは、高度な心理学シンクタンクであるハーバード人格研究センターの所長のマクリーランドがイタリアにいるので仕事を紹介してもらえるかもしれないと教えてくれた[17]。マクリーランドに、患者をあるがままに扱う対話的な行動変容について話したところ、アブラハム・マズローカール・ロジャーズによる同じような心理学の先端研究が行われているということでハーバード大学に教職を得た[17]。すぐにリアリーの推薦でフランク・バロンもハーバード大学に教職を得る。IDPによる人間性心理学的な、診察室ではなく通常の生活の中で患者中心の平等主義的な行動変化をもたらすアプローチは興味を集め、リチャード・アルパート助教授を含めた何人かが配属された[18]。期待されたアプローチであったが、時間をかけて何度も条件づけを行う必要があった[18]

                      1960年夏、メキシコ大学の人類学者のゲルハート・ブラウンが、アステカ文明ナワトル語の文献にマジック・マッシュルームについて言及があるが、これを試さないかともちかけた[19](当時、このようなキノコはカトリック教会による徹底的な弾圧によって主要な植物学者にさえ存在が否定されていた[19])。リアリーが試したところ、まず古代文明の様々な場所を旅し、次に生物の進化の過程を辿るという幻覚体験が起こった[20]

                      行動を変化させる鍵は自己洞察であると考えていたが、キノコによって洞察を瞬時に行うことができた[21]。キノコはこれまでの自分の殻を一挙に解放してしまった[22]。リアリーは体験に衝撃を受け、意識が拡張される脳の回路とそれを起こす薬、その意義、一度つながればその感覚を再現できる意識の回路(フラッシュバックという)の研究を行うことにする[23]

                      スイスのサンドス研究所のアルバート・ホフマンがキノコからシロシビンを合成していたので入手し、オルダス・ハクスリーも参加し脳に関する研究を開始する[24]。ハクスリーは、これは『聖書』にある禁断の実で、意識の管理者は研究を阻止するだろうから[25]、ゆっくり研究をすすめるように忠告した[26]。当初は35人ほどで、ハーバード・サイケデリック・リサーチ・プロジェクトを組織し、内面の探求と精神を診断し変化させる探求を行った[26]1960年12月、アレン・ギンズバーグが意識変革について学んできたので研究について知りたいといって訪ねてきて、一緒にシロシビンを服用して平和な世界をつくることを構想し、そのために脳の共感回路につなげる神経学上の革命を起こし、意識訓練センターをつくるという計画を考え、実践に移していった[27]

                      ドラッグは、感覚を遮断するアイソレーション・タンクよりも、化学的に神経に作用するため再刷り込みの作用が強いと思っていた[28]。再刷り込みの可能な状態で神経細胞を刺激した価値観を何でも刷り込むことができるので、自分のなりたい人間になるよう自分で神経を制御すべきだと主張していた[29]1961年3月から1963年にかけて、リアリーはマサチューセッツ州コンコード州立刑務所の受刑者を対象に、シロシビン投与を組み込んだ集団心理療法によって出所後の再犯率を低下させられるかを検証する「コンコード刑務所実験」を主導した[要出典]。リアリーの研究班は、出所後6~10か月の時点での再犯率が実験群で約25~32%にとどまり、同種の受刑者の基準再犯率(当時の推計で約56~64%)を大きく下回ったと報告し、これを心理療法の効果を裏づける成果として発表した[30]

                      しかし、MAPS創設者リック・ドブリンが1998年に発表した34年後の追跡調査は、当初の32名の被験者のうち追跡可能であった21名の記録を再調査し、実際には57%が何らかの形で服役を繰り返しており、これは同刑務所出身者の基準再犯率(56%)とほぼ同水準であったことを明らかにした[30]。ドブリンは、当初の報告が実験群と対照群とで追跡期間の長さを揃えずに比較していたことや、仮釈放違反と新規の犯罪行為とを区別する基準が一貫していなかったことなど、複数の方法論上の問題を指摘し、公表されていた治療効果の主張は誤りであったと結論づけた[要出典]。共同研究者であったラルフ・メツナーも同誌の応答論文で、35年を経てから自らが関わった研究に数値上の誤りと誤った結論があったことが判明したのは動揺すべき事実であるとしたうえで、統計的に見る限り当該研究が偶然の水準を上回る効果を示せていなかったことを事実上認めている[31]

                      1961年8月、応用心理学の国際会議で、人間の行動は文化に依存したゲームであり、家族ゲームや国家ゲーム、ティモシー・リアリーというゲームをプレイしているが、このゲームを断ち切る最も有効な方法は悟りを誘発するドラッグであると発表した[32]

                      1943年にアルバート・ホフマンがLSDを発見した。これは強力な幻覚作用をもたらし、1950年代頃から精神医学では意識の問題を解明する切り札として期待された。1962年春、LSDを通常量の100倍摂取し、神秘主義者になった医師のマイケル・ホリングスヘッドが訪れ、シロシビンはLSDに比べてたいしたことがないと嘲笑したので、リアリーはLSDは兵器として研究され評判が悪いと考えていたが試すことにする[33]。この体験は、すべてが自分の意識が作り出したものに過ぎないことを悟らせ、人々がアメリカに大量生産された操り人形であることに気づき、そして意識をエネルギーがダンスしているような状態に導き、生涯で最も強烈で、生き方を変えてしまうものであった[34]

                      リアリーはLSDを研究に持ち込んだが、ケルマン教授らによる反対派がLSDが危険なドラッグであると主張して反対運動が起こった[35]。衝突を避けるために、アンドリュー・メロン家の女性資産家のペギーに出資をしてもらい、メキシコのジワダネホでサマートレーニングキャンプを行うことにした[36]。ジワダネホへ出発する前、反対運動の一件で麻薬取締局から検査官が派遣され知り合いになったが、彼がアメリカ中央情報局(CIA)が2500万ドルの予算でLSDの研究を行っているという極秘情報を教えてくれた[37]。これは後に洗脳の研究であるMKウルトラ計画として知られるが、計画のためのフロント企業の一つからケルマン教授は1960年に助成金を受けていた[38]。また、このころ謎のフェミニストのメアリー・イーノ・ピンチョット・マイヤー(1921-1964)[39]が、LSDを洗脳に使おうとしている人がいるけど、平和のために使おうとしている人もいるからLSDのセッションのやり方を教えて欲しいと連絡をとってくる[40]

                      1962年夏、メキシコのサマーキャンプでは、エヴァンス・ヴェンツによる『チベット死者の書』の英訳本を幻覚版に翻訳しマニュアルとして用いた[41]。共同研究者のリチャード・アルパートは幻覚剤の体験によって、神秘主義の文献を真実であることとして理解できるようになり、なかでも『チベット死者の書』が体験を正確に描写した中心的な本であることが分かった[42]。このときは幻覚剤の代わりにアサガオリゼルグ酸アミド[43]を使い、効果は周囲の人の行動で決まるセッティング理論を検証した[44]反対派の圧力が大きいため、大学を離れて、東洋の研究家のアラン・ワッツやヒューストン・スミスらともに幻覚剤のセッションを行う機関を設立することにした[45]。「精神的自由のための国際財団」(IFIF:International Foundation for Internal Freedom) を設立し、文化によって習得した精神からの自由を訴えた[41]。『サイケデリック・レビュー』誌を出版し、国内全域に訓練センターの設置を計画し、世界最大のドラッグ研究機関、ドラッグ製造所になることが予測され、『ハーバード・レビュー』にお別れの挨拶をのせハーバードを去ることにした[46]。リアリーは、武器商人や第三次世界大戦を画策しようとする者による歴史の流れを変革しようと確信していた[41]

                      サイケデリック体験の伝道師

                      1963年ジワタネホに、リアリーにハーバードから解雇されたという知らせが届いたが、これはすでに退職していたリアリーの信頼を落とすためであった[47]。ジワタネホのリアリーの運営するホテルでは、客は週1回LSDによるセッションを行っていたが、観光ビザなので商売はできないということで退去命令がきた[48]。命令を告げに来た警官が、兄が知事のミチョアカン州のホテルでやりなさいと催促し、知事が大統領を説得するという話になったが、大統領はすでにCIAから連絡を受けていたので計画は破綻した[49]

                      ドミニカ共和国カリブ島に共同体を作った人物からの、労働党が、アメリカ企業を擁護する保守党にうんざりしている人々に向け、旅行センターをやりたがっているとの連絡を受け、リアリーは島へ向かった[50]。IFIFの会員が急増しているからメキシコでの計画をそのままやりたいたいと申し出たが、CIAと思われる人物が知事に連絡したためまた国外追放される[50]。次に送られたアンティグア・バーブーダからも国外追放と続く。

                      1963年9月、出資者のペギーは弟でアンドリュー・メロン家の跡取りのビリーにLSDを与えたことで、ニューヨーク州のミルブルックのメロン家の別荘に研究センターを置くことになり、国中にセンターを置くIFIFはを中止して、『ガラス玉演戯』からとった「カスタリア協会」を名乗り、今度はひっそりとやることにした[51]。みんなで屋敷に移り住み、意識についての論文を書き、週1回のLSDのセッションを行い、神秘思想家のゲオルギイ・グルジエフのドラッグ体験の追体験を試みていた[52]

                      こうした活動は、人々に現実はフィクションであると思わせることに成功し、画一的な価値観をもつ社会に異議を申し立て、意識の自由を求めることは、平和や反戦、人種の平等、エコロジーといった活動と絡まっていった[53]

                      この頃、メアリー・ピンチョットが権力者にセッションを行ったという連絡と、オルダス・ハクスリーが危篤状態になったという連絡があった[54]。リアリーは、ハクスリーに『チベット死者の書サイケデリック・バージョン』に基づいてLSDのセッションをしてくれと頼まれたが、死の際にハクスリーの妻にやってもらうことにした[54]

                      1963年、11月22日、ケネディ大統領暗殺事件のニュースがあり、その夜ハクスリー死亡の知らせもくる[55]。12月1日、メアリー・ピンチョットが、ジョン・F・ケネディがあまりに変化してしまったので奴らは制御できなくなったと打ちひしがれて連絡をしてくる[56]。(すぐに、新聞にケネディー大統領夫人の友人であるメアリーが射殺された記事が載る[57]。ケネディはドラッグを厚生省の管理下に置こうとしていた[58]。1975年に、ジョン・F・ケネディとメアリー・ピンチョットが情事を行っていたという記事が出る[59]

                      ケン・キージーのバス

                      1964年、双子のトミーとビリーの誕生日に催されたカーニバルで、リアリーはモデルのナネット(本名Nena von Schlebrügge)[60]と出会い、別の日には『カッコーの巣の上で』の作者でカリフォルニア州でLSDの実験を行っていたケン・キージーの一行がバスで会いに来たので、これに触発されて視野を広げるためメンバーに世界旅行を提案し、リアリーもナネットと結婚して世界旅行をすることになった[61]。インドで、『チベット死者の書-サイケデリック・バージョン』を一緒に書いた研究メンバーのラルフ・メッツナーと合流し、『チベット死者の書』の翻訳者エヴァンス・ヴェンツが建てた家にて、チベット仏教の僧であるラマ・ゴビンダと過ごすが、リアリー夫婦の仲は冷めていき離婚する[62]

                      アメリカに戻り、音と光でLSD体験を起こすというワークショップを行っていた。ある日、マリファナの所持で逮捕され、裁判で闘うことにした。また別の日には、ジョージ・ゴードン・リディによって突然逮捕されたが、証拠もないため違法とされた。マーシャル・マクルーハンにメディア戦略について助言されて、「Turn on, tune in, drop out(ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト)」というスローガンを思いつき、サンフランシスコで開催された「ヒューマン・ビーイン」などで宣言した。

                      合衆国政府は1960年代後半からLSDを麻薬と認定し違法使用を禁止する方針を打ち出した。それに対し精神を解放する媒体としてLSDを擁護し続ける。そして1968年ごろから、カウンター・カルチャーによる反戦運動が起こり、ケネディ大統領の後に戦争路線をとるリンドン・ジョンソン大統領に反対していた。リアリーもこれを支持した。4月に反戦運動を行うマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、6月には大統領選に出馬していたJ・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが銃殺される。この暴力的な世界を離れるために農場の広がる場所へ引っ越す。クリスマスに、警官に尋問され突然「逮捕する」と言ってから、警官は自分のポケットからマリファナを出した。逮捕されたが1時間で保釈され、裁判を起こすことにする。

                      中:ティモシー・リアリー、奥左:ジョン・レノン、奥右:オノ・ヨーコベッド・インで「平和を我等に」のレコーディング中。1969年。

                      最高裁でマリファナ法が違憲とされたので、様々なメディアが取材に来る。ここでリアリーはカルフォルニア知事戦に出馬すると宣言した。キャンペーンソングを作ることにする。ジミ・ヘンドリックスがベースギター、スティーブン・スティルス、ジョン・セバスチャン、バディ・マイルズが参加し『You Can Be Anyone This Time Around』として発売される。次の日、ジョン・レノンオノ・ヨーコから電話。モントリオールのクイーンエリザベス・ホテルでベッド・インというイベントを行い「平和を我等に」という曲を収録するので手伝ってほしいと頼まれる。次の日、ジョン・レノンが応援ソングを作ってくれることになり「カム・トゥゲザー」をつくった。

                      収容と亡命

                      しかし、すぐに訴訟を起こされ逮捕される。刑務所で行われた心理テストの多くは自分で設計したものだったので、温和で脱走しない人物にみられるよう答え、脱走しやすい刑務所に移った[63]。リアリーは脱獄し、亡命生活を送るが再び逮捕される。麻薬組織のボスの汚名を着せられて起訴された。ウォーターゲート事件リチャード・ニクソン大統領が失脚するとしばらくしてから保釈された。服役中にチャールズ・マンソンと隣の監房になったこともあった。1976年にやっと自由の身になる。

                      刑務所では宇宙移民の構想を練り『神経政治学』として発表された。宇宙移民(SPACE MIGRATION)、知性増大(INTELLIGENCE INCREASE)、寿命延長(LIFE EXTENSION)の頭文字をとってSMI2LEのコンセプトがあった。SMI2LEが起こるので、自分の好みにデザインした惑星である H.O.M.E.s(High Orbital Mini Earths 高軌道のミニ地球)に移住することを構想した。

                      逃亡中にスイスへ逃れたリアリーは、英国出身の作家/カウンターカルチャー人脈ブライアン・バリットと合流し、1970年代前半にかけて共同生活と共同執筆を行った。また1972年、リアリーとバリットはスイス・ベルンで西ドイツのクラウトロック・バンド、アシュ・ラ・テンペル(Ash Ra Tempel)と共同でアルバム『Seven Up』(1973年発表)を制作し、リアリーとバリットはボーカルと作詞を担当し、ギタリストのマニュエル・ゲッチングらアシュ・ラ・テンペルのメンバーが演奏した。同作はプロデューサーのロルフ=ウルリッヒ・カイザーが当初アレン・ギンズバーグとの共作を企図していたところ、ギンズバーグと連絡が取れなかったため、当時亡命中でスイス在住だったリアリーに白羽の矢が立ったものである[64]

                      また、1973年の7月から8月にかけて、銀河系内の高次生命体に接触するため4人チームでテレパシーを行い、19つの断片としてスターシードのメッセージを受信した[65]

                      同じ1970年代には、思想家ロバート・アントン・ウィルソンとの交友も始まり、ウィルソンは前述の8回路モデルを自著『コスミック・トリガー』(1977年)や『プロメテウス・ライジング』(1983年)で敷衍した(前掲「思想」節参照)。1978年、リアリーはニューヨークで開催された前衛文化の祭典「ノヴァ・コンヴェンション」に、ウィリアム・S・バロウズ、作曲家フィリップ・グラスフランク・ザッパジョン・ケージ、パフォーマンス・アーティストのローリー・アンダーソン、アレン・ギンズバーグらとともに出演した[66]

                      思想

                      対人円環モデル

                      1950年代のリアリーは、ハリー・スタック・サリヴァンの対人関係論を発展させ、人格を「支配-服従」(power)と「愛情-敵意」(love)の2軸からなる円環上に配置する「対人円環モデル」(interpersonal circumplex)を考案した。1957年の主著『人格の対人的診断』(Interpersonal Diagnosis of Personality)はこの理論の集大成であり、心理測定分野の研究者ジェリー・S・ウィギンズは1996年の論考で、この円環モデルの系譜がハリー・スタック・サリヴァンに始まり、リアリーによるサリヴァン理論の拡張を経て、今日の対人円環研究の概念的基礎を形成したと位置づけている[67]。この対人円環モデルは、のちにエリック・バーンによる『人生ゲーム(Games People Play)』などのゲーム理論的な対人行動分析にも影響を与えたとされ、リアリー自身も後年、バーンが自らの理論を一般大衆にも理解しやすい形に発展させたと述べている[68]

                      なお、1957年の主著に対しては同時代から批判もあった。British Medical Journal誌の書評でハンス・アイゼンクは、診断体系の妥当性・信頼性を示す証拠が欠落していると指摘しており、リアリーは幻覚剤研究に着手する以前から、データ収集よりも理論構築を志向する論者であったことがうかがえる[69]

                      セット・アンド・セッティング

                      ハーバード大学時代のリアリーらは、幻覚剤の体験内容が薬理作用のみによって決まるのではなく、服用者の心理状態("セット")と、服用が行われる物理的・社会的環境("セッティング")に大きく左右されると主張した。科学史研究者イド・ハルトーグゾーンは2017年の論文で、この「セット・アンド・セッティング」という概念が19世紀パリのハシシャン・クラブや1950年代の精神病様物質研究にルーツを持ちつつも、その用語自体を発明し定式化したのはリアリーであったと整理し、同概念が今日のサイケデリック研究においても基礎的な理論的枠組みとして受け継がれていると論じている[70]

                      リアリティ・トンネル

                      リアリーは、各人が自らの信念や経験によって形成された無意識の心的フィルターを通して世界を解釈しているとする「リアリティ・トンネル」(reality tunnel)という概念を提唱した。この概念は友人の作家ロバート・アントン・ウィルソンによる1977年の著書『コスミック・トリガー-イリュミナティ最後の秘密』を通じて広く知られるようになった[71]。この用語自体はウィルソンが作ったものとされることも多いが、伝記作家ジョン・ヒッグスによれば、ウィルソン本人はこの功績をリアリーに帰しているという[72]

                      意識の8回路モデル

                      収監中の1970年代、リアリーは人間の神経系が8つの「回路」から構成されるとする「意識の8回路モデル」(eight-circuit model of consciousness)を構想した。1973年の著書『Neurologic』では7回路として提示され、1977年の『Exo-Psychology』(邦題『大気圏外進化論』)で8回路に拡張された。前半の4回路は地上での生存のために発現する回路であるのに対し、後半の4回路は瞑想やヨガ、幻覚剤によって誘発されうる、人類の宇宙進出という次の進化段階に向けた"地球外的"回路であるとされた。このモデルは友人の作家ロバート・アントン・ウィルソンが『コスミック・トリガー』(1977年)や『プロメテウス・ライジング』(1983年)で敷衍したことでカウンターカルチャー圏に広く流通したが、実証的な心理学・神経科学からは支持を得られなかった[73]

                      SMI²LEとトランスヒューマニズムとの接続

                      1976年の出所後、リアリーは宇宙移民(Space migration)・知性増大(Intelligence increase)・寿命延長(Life extension)の頭文字を組み合わせた"SMI²LE"を提唱した。科学史家W・パトリック・マクレイは2016年の論考で、この構想をクライオニクスや当時の宇宙開発運動(ジェラード・オニールのスペースコロニー論、L5協会など)と結びつけて分析し、1990年代以降により活動主義的な性格を帯びるトランスヒューマニズム運動の先駆けの一つとして位置づけている[73]。ウェブメディア『ジ・アウトライン』も、1960年代のリアリーが"Turn On, Tune In, Drop Out"というLSD推進のスローガンを掲げた人物であったのに対し、1980年代の彼はSMI²LEという一語に集約される思想を掲げるようになり、この転換がのちのシリコンバレーに特徴的な、テクノリバタリアニズム的なトランスヒューマニズムのビジョンの先駆けになったと論じている[74]

                      サイバーパンクなどの前衛芸術との関わり

                      リアリーの前衛芸術との関わりは、1960年代のニューヨーク・アンダーグラウンド映画の文脈にまで遡る。1965年夏、実験映画作家ジョナス・メカスはニューヨーク州ミルブルックのヒッチコック邸(リアリーとリチャード・アルパートが共同生活を営んでいた)を訪れ、その様子を短編映画『From a Visit to Timothy Leary, Millbrook』(1965年)として記録した[75]。リアリーはこの折にメカスへLSD体験の同行を申し出たが、メカスは自身にとって最も深遠な「ドラッグ体験」はアルチュール・ランボーの詩であったとして辞退したと伝えられる[75]。メカスはフルクサスの芸術家そのものではないが、ジョージ・マチューナスオノ・ヨーコジョージ・ブレクトらによるフルクサス・フィルム・ループの実質的な保管者・配給者であり、その一部は現在アイオワ大学特別コレクションに所蔵されている[76]。また、前衛映画の保存・上映拠点となったアンソロジー・フィルム・アーカイブスの共同設立者でもあった[77]。この訪問と映像記録は、リアリーの心理学研究サークルと、フルクサスを含むニューヨークの前衛芸術シーンとが交錯した数少ない具体的な接点の一つである。この経緯は、リアリー・アーカイブの資料を基にした2018年の書籍『The Timothy Leary Project: Inside the Great Counterculture Experiment』(Abrams社)でも取り上げられている[78]

                      同時代には、幻覚剤とニューヨーク前衛芸術との接点はほかにも見られた。美術評論家ケン・ジョンソンは2011年の著書『Are You Experienced?: How Psychedelic Consciousness Transformed Modern Art』(Prestel社)のなかで、草間彌生が1967年に発表したパフォーマンス作品『Self-Obliteration』が、自我の消失を目指すリアリーの思想に直接的な影響を受けていたと論じている[75]。同作を扱った批評でも、鏡張りの部屋で反復されるドットのモチーフが、宇宙との合一を目指すリアリーの自我喪失礼賛と軌を一にするものと評されている[79]。ただし、草間自身はフルクサスの一員とは通常みなされておらず、リアリーとの接点も直接の交流というより思想的な影響関係として語られている点には留意が必要である。同様に、詩人アレン・ギンズバーグがリアリーの依頼を受け、ウィレム・デ・クーニングフランツ・クラインといった抽象表現主義の画家たちに幻覚剤の試用を働きかけた書簡が現存するが、これらの画家もフルクサスとは無関係である[75]

                      1980年代以降のサイバーパンク文化との関わりと合わせて考えると、リアリーの前衛芸術との関係は、特定の芸術運動への参加や共同制作というより、幻覚剤による意識拡張という主題を介して、時代ごとに異なる前衛的芸術家や文化人との接点を持ち続けた点に特徴があるといえる。

                      1990年代:サイバーカルチャーとシリコンバレー

                      1980年代から1990年代にかけて、リアリーは自らを再発明し、パーソナルコンピュータ、仮想現実、インターネット、サイバネティックス、そして「デジタル・アイデンティティ」といった主題に強い関心を寄せるようになった。彼は「パーソナル・コンピュータは1990年代のLSDである」と述べ、かつて幻覚剤に見出した意識拡張の可能性をデジタル技術に読み替えたTimothy Leary Turns 100: America's LSD Messiah, Remembered By Those Who Knew Him (英語). Vice (2020年10月23日). 2026年7月14日閲覧。</ref>。この時期のリアリーは、作家ジョン・ペリー・バーロウホール・アース・カタログ編集者のスチュワート・ブランドロータス1-2-3開発者でElectronic Frontier Foundation共同創設者のミッチ・ケイポア、仮想現実技術の先駆者ジャロン・ラニアーブレンダ・ローレルらと交友を結んだ[80]

                      サイバーデリック思想

                      1980年代以降のリアリーは「パーソナル・コンピュータは1990年代のLSDである」と述べ、幻覚剤によって目指した意識の拡張と自己再プログラミングの可能性をデジタル技術に見出した“Timothy Leary Turns 100: America's LSD Messiah, Remembered By Those Who Knew Him”. Vice (英語). 2020年10月23日. 2026年7月14日閲覧.</ref>。

                      1982年、リアリーはかつて自身の家宅捜索に関わった元ウォーターゲート事件工作員のG・ゴードン・リディと全米討論ツアーを行った。左派の立場から発言するリアリーと右派の立場から発言するリディという対比が話題を呼び、その様子と長年温めていた自伝『フラッシュバックス』の刊行は1983年のドキュメンタリー映画『Return Engagement』に記録されている[要出典]。1980年代のリアリーは講演活動によって家族の生活を支え、ロバート・アントン・ウィルソンアレン・ギンズバーグのほか、SF作家のウィリアム・ギブスンノーマン・スピンラッド、ミュージシャンのデヴィッド・バーンらと交友を持った[要出典]。また、書籍商及びアーキビストのマイケル・ホロウィッツの娘であり、のちに女優となるウィノナ・ライダーの名付け親を務めたことでも知られる[要出典]

                      1983年に設立したFutique社では、エレクトロニック・アーツから1985年に発売された性格診断ソフト「マインド・ミラー」に加え、ウィリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』を題材にしたコンピュータゲームの企画にも携わった。

                      サイバーパンク

                      晩年は幻覚剤ではなく、もっぱらコンピュータの可能性について語っていた[4]。しかし、1960年代から一貫して語ろうとしていたことは、LSDやコンピュータといったものによって創造的に生きるための力を強めることや[81]、自分自身で考えるということである[4][82]

                      かつてリアリーは、IBMのようなコンピュータ会社をCIAのような情報局で脅威だと思っていたが、ヒッピーがApple Computerを設立し使いやすいパーソナルコンピュータを作り出した[82]

                      1983年、フューテック社(FUTEQUE)を創立する。自己診断と意思決定を行うための「マインド・ミラー」というソフトウェアを発表する。リアリーの熱意はR・U・シリアスたちにサイバーパンクやテクノロジーを取り扱う『モンド2000』誌という雑誌を始めさせ、さらにこれは『WIRED』誌へと発展した[83]。また、SF作家ウィリアム・ギブスンもサイバーパンクのライターへと転向させた[83]

                      コンピューターは創造性を高めたり[82]、意識を拡張すると考えていた[84]。コンピュータはサイケデリック体験を表示するのに適している[22]。幻覚剤のような精神探索は行えないが、他者とのコミュニケーションのための新しい手段として用いることで人々の意識を深める手助けができると考えていた[4]

                      中:晩年のリアリー、左:アレン・ギンズバーグ、右:ジョン・C・リリー、1991年

                      友人であるジョン・C・リリーによる、脳はバイオ・コンピュータであって、国家や社会の枠にはめられた価値観を再度プログラムしなおすことができるという理論を重要であると考え、コンピュータによって価値観を再プログラミングさせようとしていた[4]。従来、テレビのように一方的に情報が流されていたスクリーンの中を操作することで、自分独自に脳をプログラムするということである[85]。テクノロジーによって、個人の意思で情報が伝達できるようになり、距離も消去されることになる[86]。本当の民主主義モデムを通して行われるというモデムクラシーを提唱していた[87]

                      晩年は、年間30~40校と大学で積極的に講義をした[82]

                      TVゲームにも肯定的で、ポケモンの原作者である田尻智によれば、来日時に会った印象を「気のいい人だった」と語っている[88]

                      日本との関わり

                      1990年夏、リアリーは来日した際、京都在住の友人デヴィッド・キュビアックを通じて「仮想現実に詳しい日本の若者」を探しており、これをきっかけにコンピュータグラフィックスやゲーム、東京のクラブ/レイヴ・シーンに通じていた伊藤穰一(Joi Ito、当時東京でナイトクラブを経営)と知り合った [89]。伊藤はその晩、リアリーを東京のクラブ・シーンめぐりに連れ出しており、以後リアリーは伊藤を、親しい友人の子弟に対して自ら定義した非血縁的な"ゴッドサン(god son)"の一人とみなすようになったという[90]

                      両者はその後、伊藤が制作に携わった日本のテレビ番組『The New Breed』(リアリーとの対話を基にした企画)や、共同での書籍企画に取り組んだ[91]。伊藤自身のブログには、1995年3月に坂本氏、谷崎氏、太田氏らとともにリアリーの自宅を訪れ、『The New Breed』の撮影とインタビューを行った記録が残されている[92]。伊藤は1996年、リアリーが死去する前夜も傍らに付き添っており、後年ティモシー・リアリー・アーカイブスにも名を連ねた[93]

                      1993年、リアリーは来日し、その際に自著『チベット死者の書 サイケデリック・バージョン』(リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパート共著、菅靖彦訳、平凡社)の朗読CD『バルド・ソドル』の録音を行った。同書は2025年に平凡社ライブラリーの1000巻目として復刊されており、同書付録として当時の朗読の全訳が収録されている[94]。楽曲制作を手掛けた放送作家の谷崎テトラや、書籍の発行元である八幡書店社主の武田崇元は、のちにこの来日時のリアリーについて回顧している[94]。(なお、ポケモンの原作者・田尻智による来日時の証言は既存の脚注に記載済み)

                      サイバーパンク文化との関係

                      リアリーとサイケデリック文化人脈は、1989年に創刊された雑誌『Mondo 2000』(前身は『Reality Hackers』/『High Frontiers』)の形成に深く関与した。同誌はR・U・シリアスと編集発行人クイーン・ムーによって、カリフォルニア州バークレーの通称"モンド・ハウス"を拠点に運営され、ジャロン・ラニアー、ブレンダ・ローレル、ウィリアム・ギブスン、ルーディ・ラッカーらSF作家・VR技術者を巻き込んだ、サイケデリックとテクノロジーの交差点として機能した[95]

                      1989年、リアリーは『モンド2000』創刊号のために、映画化が計画されていたウィリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』を題材にしたコンピュータゲーム構想をめぐり、ギブスン本人と対談を行った[96]。1990年制作のドキュメンタリー映画『Cyberpunk』は、ギブスンとリアリーの双方を取り上げ、「サイバーパンク」という語とその文化を一般に紹介する内容となった[97]。なお、こうしたリアリーとサイバーパンク・シーンとの関わりについては懐疑的な見方もあり、モンド2000界隈の一部の関係者は後年になって当時のリアリーへの傾倒を批判的に振り返っている[98]

                      リチャード・アルパート(ラム・ダス)との関係史

                      リアリーとリチャード・アルパートは、1959年にハーバード大学で隣り合う研究室を得たことをきっかけに交流を始め、1960年に共同でハーバード・サイロシビン計画を立ち上げた[99]。1963年、両名は共にハーバードを解雇されたが、理由は異なっており、リアリーは授業の欠席、アルパートは学生への学外でのシロシビン提供が理由とされる[100]

                      その後アルパートは1967年にインドに渡り、グルのニーム・カロリ・ババのもとでヒンドゥー教の修行を積んで「ラム・ダス」と改名し、1971年の著書『Be Here Now』によって東洋思想を欧米に広める精神指導者として知られるようになった[100]。2人の関係は、ラム・ダス自身が「深い友情と深い反目の両方」と評したように、生涯を通じて疎遠と和解を繰り返すものであった[101](1974年のFBI協力疑惑をめぐる対立については後述「評価と批判」節を参照)。1995年、末期がんの告知を受けたリアリーがラム・ダスに連絡を取ったことをきっかけに二人は再会し、死を目前にした対話を重ねた。この様子は2014年制作のドキュメンタリー映画『Dying to Know: Ram Dass & Timothy Leary』(ロバート・レッドフォード製作総指揮)に記録されている[102]

                      病と「デザインされた死」

                      1995年1月、リアリーは手術不能の前立腺癌と診断された[103]。彼は死を隠すのではなく公然と演出する道を選び、これを自ら「デザイナー・ダイイング」(designer dying)と呼んだ。自身のウェブサイトで日々の心境や服用薬物を公開し、死へ向かうプロセス自体をメディア上のパフォーマンスへと転換したことは、ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事でも特筆されている[104]。1996年5月31日、ビバリーヒルズの自宅で75歳で死去した[104]

                      死の構想

                      1995年1月、リアリーは手術不可能な前立腺がんの宣告を受ける。 リアリーはラム・ダスやほかの古い友人らにそれを告げ、同時に"方向ある死のプロセス"をスタートした。 リアリーはその構想を「designer dying」と呼んだ。当時は病状を公表しなかったが、同年の8月にジェリー・ガルシアが亡くなったあと、世間に事実を告げることとなった。 生前の1996年5月にラム・ダスと再会している様子は、ドキュメンタリーフィルム「Dying to Know: Ram Dass & Timothy Leary」が捉えている。 彼の最後の著作となった「Chaos and Cyber Culture」は1994年に出版され、そのなかでリアリーは、”死の過程に対処するための個人的責任について陽気に語り、生意気なジョークを言う時がやってきた”と述べている。 彼の遺作として発表された「Design for Dying」では、「死」についての新たな見方を示し、「死は”生命の過程すべてと溶け合うことである”」と自身の信念について綴っている。

                      死後

                      リアリーは1996年5月31日、75歳でその生涯に幕を閉じた。 後世のためにと、彼の要望で残されたビデオのなかでは、リアリーの最後の言葉が残されている。映像はリアリーのアーカイヴスの管財人であるDenis Berryと、後年のリアリーを撮影したJoey Cavellaによって作られた。

                      最後の姿は、息子のZacharyによって伝えられている。リアリーは拳を固く握りしめ、「Why?」と言い、それからその拳を緩め「Why not?」と言った。同じフレーズを、異なるイントネーションで繰り返し、そのあとすぐに息を引き取ったという。 Zacharyによれば、最後の言葉は「美しい」だった。

                      1997年4月21日、リアリーの遺灰の7グラムはロケットに乗せられ、宇宙葬となった。遺灰は、それから大気で燃えあがるまでの6年間、軌道上にとどまった。 共に打ち上げられた他の23人の中には、スタートレックを生んだ映画プロデューサー、ジーン・ロッデンベリーなどがいる。また、遺灰は家族や親しい友人にも残された。 2015年9月6日、スーザン・サランドンはその一部を、バーニングマンフェスティバルのアートインスタレーションと共に燃やした。

                      映画「Timothy Leary's Dead (1996)」では、人体冷凍保存を目的とした身体機能の停止をリアリーが認めている。彼の頭部は切断され、氷の上に置かれる。しかし映画の最後で、それは人工の頭部であることが示されている。

                      影響

                      アメリカでは特に、既存のハイカルチャーに対抗するカウンター・カルチャーの流れでサイケデリック革命の父としてヒッピードラッグを使う若者文化・芸術家の支持を集め、精神文化を謳う後のニューエイジ運動にも強い影響力を持っている。また、サイバーカルチャーにも影響を与えた。

                      伝記の映画化

                      2007年には、俳優のレオナルド・ディカプリオが主演でティモシー・リアリーを演じる映画の製作が試みられていると報道されたことがあった[105]

                      評価と批判

                      評価の分裂

                      リアリーへの評価は生前から死後まで一貫して二極化してきた。詩人アレン・ギンズバーグは彼を「アメリカ的意識の英雄」と呼び、作家トム・ロビンズは「勇敢なニューロノート」と評した。ニューヨーク・タイムズ書評欄で伝記作家ロバート・グリーンフィールドの評伝を紹介したルーシー・サンテは、リアリーを「賢者、詐欺師、予言者、いかさま師、危険人物、聖人、犯罪者」などと形容され続けてきた人物と評している[106]

                      歴史家による評価:「普及者」としてのリアリー

                      LSD史・カウンターカルチャー史を扱う歴史家の多くは、リアリーを独創的な思想家というよりも、既存の諸観念を大衆向けに編集し、爆発的な文化的インパクトを持つ形に仕立て上げた、卓越した「伝達者」(communicator)として位置づける傾向がある。ジャーナリスト・歴史家のジェイ・スティーヴンズは、LSDとアメリカ文化を扱った1987年の著書『Storming Heaven: LSD and the American Dream』のなかで、リアリーがいなくてもサイケデリック運動が起きていたかどうかは議論の余地があるとしつつも、リアリーがパンフレットや書籍、レコードを通じてこの運動の公的なスタイルそのものを決定づけたことには疑いの余地がないと評している[107]

                      この「編集者/伝達者」としての性格は、リアリーが同時代の複数の知的源泉 - オルダス・ハクスリー(幻覚剤による神秘体験の可能性)、リチャード・アルパート(ラム・ダス)やチベット死者の書に代表される東洋思想、マーシャル・マクルーハンのメディア論、そしてサイバネティックス - を組み合わせ、扇動的で文化的に爆発力のあるパッケージへと再構成した点に典型的に表れているとされる。とりわけマクルーハンとの関係は象徴的であり、1966年にニューヨークで会食した際、マクルーハンはリアリーに対し、LSDを広告のように"商品として"売り込むべきだと助言し、ペプシのCMソングをもじった替え歌から、のちの標語「turn on, tune in, drop out」の原型を口ずさんで見せたと伝えられている[108]。法学者ティム・ウーは2016年の著書『The Attention Merchants』のなかで、この標語が広告業界のブランディング技法を応用することで初めて広範囲に浸透しえたと分析しており、リアリーの功績を思想の独創性よりもコミュニケーション戦略の巧みさに求める歴史学的評価の一例となっている[109]

                      同様に、「対人円環モデル」はハリー・スタック・サリヴァンの対人関係論の発展形であり(前掲「思想」節参照)、幻覚剤の宗教的解釈は共著者リチャード・アルパートやアルド・ハクスリーとの対話に、8回路モデルやSMI²LE構想はサイバネティックスや当時の宇宙開発思想に、それぞれ多くを負っている。こうした点から、リアリーの歴史的重要性は、これらの観念そのものを生み出したことにあるのではなく、それらを一つの魅力的な物語として統合し、既存の学術的議論の枠を超えて社会に広く伝播させた点にあるとする評価が、伝記文献及び文化史研究において共有されている[73]

                      コンコード刑務所実験をめぐる検証

                      前掲「コンコード刑務所実験の記述修正」節を参照。科学者としての評価は分裂しており、1950年代の対人関係研究は今日も心理学分野で参照され続ける一方、ハーバード以降の幻覚剤研究、とりわけコンコード刑務所実験については、リック・ドブリンによる追跡調査で当初の治療効果の主張が誤りであったことが判明している[30]

                      サイケデリック・ルネサンスにおける再評価

                      2010年代以降、シロシビンやMDMAを用いた精神疾患治療の臨床試験が各国で本格化し、こうした潮流はしばしば「サイケデリック・ルネサンス」と呼ばれる。Journal of the American Academy of Psychiatry and the Law誌に掲載された分析は、コンコード刑務所実験を再犯抑止に関する初期の実証的試みとして位置づけつつ、その手法上の限界を詳細に検討している[110]。ジャーナリストのドン・ラティンは、ハーバード大学図書館紀要への寄稿で、リアリーが1960年代に切り開いた領域と、今日のFDAによるMDMAやシロシビンの再分類を目指す臨床試験との間には歴史的な連続性があると論じている[111]

                      もっとも、MAPSが公開した記事は、現代の研究者たちが「先人たちの行き過ぎ」からサイケデリック研究を切り離そうとしていると評し、伝記作家グリーンフィールドの評伝に記された、来客とともに大量のシロシビンを摂取していた際に13歳の娘の友人が同じ屋内にいたという逸話を引きつつ、リアリー自身の実践に伴う危険性にも言及している[112]。同記事は、現在のシロシビン臨床試験が重度の患者に限り、既存治療で効果がなかった場合の最終手段として慎重に設計されていることを紹介し、リアリーのような教祖的人物が幻覚剤の効能を大仰に喧伝する時代とは異なり、ハーバード出身の公共政策学者リック・ドブリンのような、より地に足のついた人物が研究の制度化を主導していると評している[112]。ジャーナリストのマイケル・ポーランは著書『幻覚剤は役に立つのか』(宮﨑真紀訳、亜紀書房、2020年)のなかで、現代の研究者の一部がリアリーを「幻覚剤研究を数十年後退させた人物」とみなしていることを紹介している[113]

                      影響とその後の受容

                      サイバーカルチャーとシリコンバレーへの影響

                      1980年代から1990年代にかけて、リアリーは自らを再発明し、パーソナルコンピュータ、仮想現実、インターネット、サイバネティックス、そして「デジタル・アイデンティティ」といった主題に強い関心を寄せるようになった。彼は「パーソナル・コンピュータは1990年代のLSDである」と述べ、かつて幻覚剤に見出した意識拡張の可能性をデジタル技術に読み替えた。こうした転向は、1994年の著書『Chaos and Cyber Culture』にまとめられている[114]

                      この時期のリアリーは、デジタル文化の初期を担った人物たちと交友を結んだ。作家ジョン・ペリー・バーロウとは、バーロウがウェズリアン大学在学中にリアリーのもとを訪ねたことをきっかけに知り合い、その後も親交を続けた。1996年、死の直前のリアリーに対し、バーロウが痛み止めとして亜酸化窒素の入った風船を渡す様子が写真に記録されている[115]。このほか、ホール・アース・カタログ編集者のスチュワート・ブランドや、ロータス1-2-3開発者でElectronic Frontier Foundation共同創設者のミッチ・ケイポア、仮想現実技術の先駆者ジャロン・ラニアーやブレンダ・ローレルらともサンフランシスコ・ベイエリアのWELLなどのネットワーク文化圏を通じて交流したことが伝えられている[116]

                      雑誌『モンド2000』の周辺では、同誌がリアリーを「サイバーデリックの導師」(cyberdelic guru)、「20世紀のMVP(最も価値ある哲学者)」と呼ぶ一方、リアリー自身も同誌を「実に注目すべき」存在と評するなど、両者は事実上の相互称賛関係にあったと報じられている[117]。メディア理論家リチャード・バーブルックとアンディ・キャメロンは、1996年に学術誌Science as Cultureに発表した論文「The Californian Ideology」のなかで、1990年代のシリコンバレーにおけるハイテク産業と1960~80年代のカウンターカルチャー的多幸症とが奇妙に融合した思想潮流を批判的に分析しており、この論文を引きつつ、リアリーが1980年代に「サイバーデリック」的カウンターカルチャーのスポークスマンとして再浮上したとする分析も存在する[118]

                      こうした経歴は今日、賛否両論のかたちで回顧されている。1980年代のリアリーとの交流を長年助けたR・U・シリアスは、リアリーの死後に刊行された共著『Design for Dying』(1998年)のなかで、リアリーが8回路モデルで示した将来のテクノロジー・文化に関する予測の多くが現実になったと論じている。また評論家ニック・ギレスピーは、1977年のリバタリアン党大会でリアリーがのちのインターネットを彷彿とさせる世界規模のコンピュータ・ネットワーク構想を語り、これが既存の秩序に対する薬物文化以上の変革をもたらすと予言していたとする関係者の回想を紹介している[119]。もっとも、こうした「先見性」の評価は本人および支持者・関係者による回顧的な語りに依拠する部分が大きく、学術的な検証を経たものではない点には留意が必要である。

                      リアリーの情熱は、R・U・シリアスらによる雑誌『モンド2000』の創刊を後押しし、これはのちに『WIRED』誌の誕生へとつながったとされる。また、SF作家ウィリアム・ギブスンをサイバーパンクの書き手へと導いたともいわれる[120]

                      音楽や大衆文化における言及

                      『ザ・サイケデリック・エクスペリエンス』(1964年)はジョン・レノンの楽曲「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」(ザ・ビートルズリボルバー』収録)の着想源となったとされる[106]。1969年のカリフォルニア州知事選出馬に際し、レノンがリアリーの選挙運動用に書き下ろした楽曲は、のちに「カム・トゥゲザー」として発表された[121]ムーディー・ブルースは1968年のアルバム『失われたコードを求めて』収録の楽曲「Legend of a Mind」で「ティモシー・リアリーは死んだ」というフレーズを繰り返し、1972年のアルバム『セブンス・ソジャーン』にも彼に言及した楽曲を収めている[122]

                      死後のアーカイブ

                      2011年、ニューヨーク公共図書館はリアリーの個人アーカイブ(書簡、映像、写真等)を取得したことを発表した。同アーカイブには、アレン・ギンズバーグ、オルダス・ハクスリー、ウィリアム・バロウズ、ジャック・ケルアック、ケン・キージー、アーサー・ケストラー、G・ゴードン・リディら同時代の文化的人物との往復書簡も含まれている[123]。このコレクションは2013年9月に公開された[124]

                      著書

                      • ティモシー・リアリー、リチャード・アルパート、ラルフ・メツナー(1994年)『チベットの死者の書-サイケデリック・バージョン』菅靖彦(訳)、八幡書店ISBN 978-4-89350-319-0The Psychedelic Experience, 1964.
                      • ティモシー・リアリー(1989年)『神経政治学』山形浩生(訳)、トレヴィルISBN 978-4-8457-0322-7neuropolitics, new edition, 1ed 1977, new ed 1988.
                      • ティモシー・リアリー(1995a年)『大気圏外進化論』菅靖彦(訳)、リブロポートISBN 978-4-8457-1035-5info-psychology, 1987.
                      • ティモシー・リアリー(1995b年)『フラッシュバックス-ティモシー・リアリー自伝』山形浩生、久霧亜子明石綾子森本正史松原永子(訳)、トレヴィル。ISBN 978-4-8457-0903-8FLASHBACKS, 2nd edition, 1ed:1983, 2ed:1990.
                      • ティモシー・リアリー、R・U・シリアス(2005年)『死をデザインする』栩木玲子(訳)、河出書房新社ISBN 978-4-309-90659-1design for dying, 1997.

                      映画

                      • 『ティモシー・リアリー』ナウオンメディア、2005年。

                      CD

                      • ティモシー・リアリー 『バルド・ソドル』 菅靖彦・監修

                      出典

                      参考文献

                      関連項目

                      外部リンク

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