ティモシー・リチャード
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生涯
1845年、ウェールズのバプテスト派の家庭に生まれる[1]。教師生活を経てハーバーフォードウェストの神学校で学ぶ[1]。
1870年、山東省煙台(天津条約の条約港)にイギリス・バプテスト伝道会の宣教師として着任[1]。1875年、内地の青州府に移動[1]。1876年、飢饉(丁戊奇荒)が発生すると、米国長老教会のネヴィアスらと救済活動に従事し、清朝官僚と接触する[1]。1877年、太原に拠点を移す[1]。1884年、上海に滞在したのち一時帰国[1]。1886年、太原に戻るが、伝道方針の対立によりバプテスト派から一時追放され、北京や天津に逗留[1]。1890年、李鴻章の要請により天津で『時報』の編集長となる[1]。
1891年、上海に移りアレキサンダー・ウィリアムソンの後任として同文書会(のちの広学会)の総幹事となり、1916年まで務めた[1]。その間、李鴻章・翁同龢ら清朝官僚や、康有為ら強学会メンバーと交流した[1]。1894年から1895年、西学書『泰西新史攬要』(ロバート・マッケンジー著 The Nineteenth Century の漢訳)を刊行し、広く読まれた[3]。1895年、戊戌の変法が起こると康有為から光緒帝の顧問になるよう依頼されるが、就任前に戊戌の政変が起こったため実現しなかった[1]。光緒新政期には山西大学堂の創設と経営に携わった[1]。1903年、大学堂の教科書収集などのため、日本を訪れて近衛文麿らと面会した[1]。1907年、楊文会の協力で『大乗起信論』など仏典の英訳を刊行した[4]。1911年の辛亥革命に対しては、清朝維持の立場から否定的だった[1]。
著作(日本語訳)
- 「『泰西新史攬要』訳本序」高柳信夫 訳、『新編 原典中国近代思想史 第2巻』村田雄二郎 責任編集、岩波書店、2010年。ISBN 9784000282222。
- 『中国伝道四五年 ティモシー・リチャード回想録』蒲豊彦;倉田明子 訳、平凡社〈東洋文庫〉、2020年。ISBN 9784582809039

