Wikiwand AI

ティモシー・リチャード

From Wikipedia, the free encyclopedia

ティモシー・リチャード(英: Timothy Richard、中国名: 李提摩太、1845年10月10日 - 1919年4月17日[1])は、イギリスで生まれ中国で活動したプロテスタント宣教師。広学会総幹事を務め、清朝末期の変法運動に影響を与えた[1][2]。社会的福音やエキュメニカル運動の推進者でもあった[1]。

ティモシー・リチャード(24歳の写真)
晩年の写真
墓碑(ロンドン、ゴルダーズグリーン火葬場(英語版))

生涯

1845年、ウェールズのバプテスト派の家庭に生まれる[1]。教師生活を経てハーバーフォードウェスト(英語版)の神学校で学ぶ[1]。

1870年、山東省煙台(天津条約の条約港)にイギリス・バプテスト伝道会の宣教師として着任[1]。1875年、内地の青州府に移動[1]。1876年、飢饉(丁戊奇荒(中国語版))が発生すると、米国長老教会のネヴィアス(英語版)らと救済活動に従事し、清朝官僚と接触する[1]。1877年、太原に拠点を移す[1]。1884年、上海に滞在したのち一時帰国[1]。1886年、太原に戻るが、伝道方針の対立によりバプテスト派から一時追放され、北京や天津に逗留[1]。1890年、李鴻章の要請により天津で『時報(中国語版)』の編集長となる[1]。

1891年、上海に移りアレキサンダー・ウィリアムソンの後任として同文書会(のちの広学会)の総幹事となり、1916年まで務めた[1]。その間、李鴻章・翁同龢ら清朝官僚や、康有為ら強学会メンバーと交流した[1]。1894年から1895年、西学書『泰西新史攬要』(ロバート・マッケンジー著 The Nineteenth Century の漢訳)を刊行し、広く読まれた[3]。1895年、戊戌の変法が起こると康有為から光緒帝の顧問になるよう依頼されるが、就任前に戊戌の政変が起こったため実現しなかった[1]。光緒新政期には山西大学堂(中国語版)の創設と経営に携わった[1]。1903年、大学堂の教科書収集などのため、日本を訪れて近衛文麿らと面会した[1]。1907年、楊文会の協力で『大乗起信論』など仏典の英訳を刊行した[4]。1911年の辛亥革命に対しては、清朝維持の立場から否定的だった[1]。

1916年、帰国して自叙伝『中国伝道四五年』を刊行[1]。ロンドンで晩年を過ごし、1919年に没した[1]。

著作(日本語訳)

脚注

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks