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バスティーユ襲撃

1789年にフランスのバスティーユ牢獄が襲撃された事件 From Wikipedia, the free encyclopedia

バスティーユ襲撃(バスティーユしゅうげき、仏: prise de la Bastille)とは、1789年7月14日にフランス王国パリの民衆が同市にあるバスティーユ牢獄を襲撃した事件である[1]。

「バスティーユ襲撃」(ジャン=ピエール・ウーエル(英語版)画)

この事件自体は、軍隊への恐怖からきた民衆の自衛により起きた偶発的なものであり、当時いくつも発生した騒乱のひとつだった。バスティーユ襲撃においては穀物に関係した略奪も見られ、食糧問題という一面もあり、また同時期には食糧問題に起因する騒乱および民衆蜂起がフランス各地で起きている。だが、事件に対するその後の政治的な動きによって大きな転換期となったゆえに他の騒乱とは異なる意味を持つため、フランス革命のシンボルと位置づけられる[2]。

経緯

1787年から88年にかけて行われた、専制に対する名士会および高等法院の抵抗は89年に召集された全国三部会によって本格化した。しかし、三部会の採決は議員一人につき一票でなければ改革に実質的な意味をもたらさないにもかかわらず、国王諮問会議において投票様式が決定されないまま5月5日の開催式を迎えた[3]。この式にて、ルイ16世と財務大臣ネッケルは議題を財政赤字の解消のみに限ると示したが、議員たちは革命までは考えていなかったにせよなんらかの政治改革を期待しており、両者の落差は初めから大きかった[4]。

議員一人一票の投票様式を求めていた第三身分の議員たちはこれを実現させるため抵抗し、彼らは自らを国民議会と名乗るようになる[5]。第一身分は投票の結果、僅差で国民議会への合流を決定したが議長はルイ16世の介入を求め、第二身分も妥協を拒否しつつ王の介入を要請した。親臨会議の開催を決めたルイ16世はその準備のため第三身分の議場を閉鎖させたが国民議会の議員に連絡がなされておらず、彼らはこれを国王政府の意思表示と受け取り、宮殿内の室内球技場で「自分たちは憲法が制定され、かつ堅固な基盤の上に確立されるまでは解散せず、状況に応じていかなる場所においても会合を開く」ことを宣誓した(球戯場の誓い)[6]。親臨会議においてルイ16世は自身の案を提示するとともに、これをのまない場合は三部会を解散させる旨を示唆し、第三身分の議員たちはルイ16世退席後も議会の解散・軍隊による弾圧や逮捕の可能性から不安に駆られ場に残って討論しようとした。ルイ16世はこれを排除するため近衛兵を派遣したが、自由主義貴族が近衛兵を説得し引き揚げさせている[7]。6月27日、他二身分も国民議会に合流するよう求める国王令と7月9日の国民議会あらため憲法制定国民議会の成立によって三部会内の対立は表面的には解決された。しかし一方では、6月26日の国王顧問会議にて軍隊をパリとヴェルサイユに集めることが論じられ、7月1日にルイ16世は10の連隊を新たにパリへと召集した。この時、議会の軍や解散に対する不安は解消されないままであり、パリ市民の間では軍に対する恐怖などが高まっていた[8]。

襲撃

ネッケル罷免の報を受け、パレ・ロワイヤルで「市民よ、武器をとれ!」と呼びかけるカミーユ・デムーラン(ピエール=ガブリエル・ベルトロー(フランス語版)による銅板画)

ルイ16世は国民議会を武力で解散させる意図で、ヴェルサイユに[9]二万人の軍隊を集め[10]、第三身分に同情的だった財務総監ジャック・ネッケルを罷免した[9]。これを聞いたパリの民衆は国王陣営からの攻撃を恐れて不安を抱き、自衛するための武器を求めてバスティーユの襲撃を計画する[9]。さらに彼らの背景には、4ポンドだったパン一塊の値段が8スーから12スーへと、労働賃金の70%相当にまで上昇していたことや[10]、1786年頃から続いていたフランス経済の不況。そして全国三部会の開催による先行きへの希望と、それによって民衆層にもたらされる利害を阻止するであろう貴族への不安が全国三部会における特権身分の執拗な抵抗によって強化され、貴族が食糧の流通を妨害したり外国の軍隊を呼び寄せるなど民衆に危害を加えようとしていると考え、これを恐れる概念(アリストクラート(貴族)の陰謀)を生み出していたことがあった[11]。

最初はパリ周辺の徴税所で事件が発生し、7月7日から17日の間で一部の建物を除いた40棟が損傷・破壊された。抗議活動に参加した人々はパレ・ロワイヤルのカフェ・ド・フォアにて演説を行ったカミーユ・デムーランといった人物の[12]自衛のため武器をとるように呼び掛ける演説に動かされ、同日夕方には王室付きのドイツ人連隊と群衆がテュイルリー宮殿付近で衝突する。13日にはパリとヴェルサイユの間にかけられていた橋を軍隊に抑えられたためにヴェルサイユとの連絡が途絶え、パリの住民が更に精神的に追い詰められるといった事態が発生し[13]、グレーヴ広場にて政治的蜂起が開始された[12]。パリの選挙人(=ブルジョワジー)は市役所で常設委員会を設置するとともに武器の調達を求め、彼らの代表がアンヴァリッド(廃兵院)に赴くも、ここの司令官は武器の引き渡しを拒否している[13]。

廃兵院から武器を奪い去る群衆 (ジャン=バティスト・ラルマン(英語版)画)
バスティーユの全景
バスティーユ襲撃に参加したクロード・ショラ(英語版)という人物が描いた襲撃の光景

7月14日の朝、四千万から五千万の群衆が廃兵院に現れると、実力で武器の入手を試みた。この場所より数百メートル離れたシャン・ド・マルスには国王軍の数個連隊が野営しており、司令官のブザンヴァル男爵が各部隊の指揮官を集めたものの、民衆への攻撃を容認する者はいなかった[13]。銃と大砲を手に入れた群衆はさらに弾薬を調達するため[14]、武器と火薬が蓄えられ、尚且つパリ東部の居住区域を見下ろす位置に建っていた強固な要塞であるバスティーユ要塞に向かった。バスティーユ要塞は専制政治の象徴とも考えられていたが[12]、この時点では群衆にバスティーユを襲う意図はなく、目的はあくまでも軍隊への不安から自衛のために必要な弾薬を手に入れることであった[15]。要塞に到着した時には、武装したパリの民衆は八千人にのぼり、彼らはこの場所を包囲した[12]。

市役所にいた選挙人は代表を司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーに送り、弾薬の引き渡しを求め交渉していたが、バスティーユの前に集まってきた群衆と守備兵の間に起きた[13]些細な誤解から武力衝突に発展する[9]。民衆は中庭に押し入り、投降を拒否していたローネーは部下の兵士たちに発砲を命じ、これによっておよそ100人の民衆が殺害された[12]。昼頃、民衆に味方したフランス衛兵分遺隊が廃兵院で入手した大砲を持って到着したのが転機となり、午後三時ごろより始まった武力衝突は5時頃、バスティーユの守備隊が降伏することで決着した[13]。

襲撃の参加者

占領者のひとりスタニスラス=マリー・マイヤールが編集した生存者リストには、662人の名前がある。その内、20名が製造業者や承認を含むブルジョワジー、76名が兵士。残りは典型的な下層民たち(行商人・職人など様々な職種の賃金労働者)で、更に分けると49名が建具屋、38名が家具職人、41名が錠前師、28名が靴直し、11名がワイン商人、10名が美容師や鬘職人だったという[16]。年齢的には8歳の少年から70歳の老人[17]、職業は海軍士官(当時はほとんどが貴族であった)から肉体労働者まで、また外国人も39人(イタリア人13人、ドイツ人、ベルギー人各12人、オランダ人、スイス人各1人)含まれるなど[18]、広範囲にわたる年齢、身分、職業、さらには国籍の人々がパリの各地区から集まっていたが、大多数はバスティーユに隣接するフォーブール・サン=タントワーヌ地区およびその近隣地区の住民であり、中でも小規模な工房を営む親方や職人といった手工業者が全体の約3分の2を占めている。これらの人々を含む約600人の一般市民のうち、7人中6人までが当時パリの治安維持の中核を担い、登録にあたっては財産など一定の資格制限があった民兵隊のメンバーであったことから、この襲撃事件が革命に否定的な人々によって従来非難もしくは嘲笑されてきたような、単なる貧民の暴発とは言い難いものであったことがG.リューデによって指摘されている[19]。

G.リューデによればこのリストは氏名の重複や記載漏れが多くみられるなど不完全なものであり、各リスト間のこのような記載の不備を整理すると、実際の襲撃参加者は約800〜900人前後であったと見積もっている[20]。この中から98人の死亡者、73人の負傷者が出たが[21]、死亡者のうち即死した者が83人、重傷を負って後に死亡した者は15人であり、負傷者のうち13人は戦闘によって手足を失う重傷を負ったという[22]。

一方、守備隊側の兵力は数日前にスイス人連隊から派遣されていた増援32人を含めて約110人前後であったが、敗北後に司令官を含む6〜7人が虐殺され、また士官4人、兵士15人がのちに死刑となったのを除くと戦闘中の死者1人、負傷者3人であった[23]。

報復

市庁舎前で狙撃されるフレッセル(ジャン=バティスト・ラルマン画)

守備隊は民衆が市役所に連行したものの[13]、混乱の中でローネーとその部下6名は虐殺され、首を切られた[24]。さらに前日には武器の所在についてあいまいな発言を行った市長のジャック・ド・フレッセルも、民衆の武装を遅らせたことが原因で射殺された[25]。

彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群衆は、市庁舎前の広場を練り歩き、これはバスティーユにおける死者約100名をもたらした者たちへの報復と見做される一方で、以上の顛末は政府が行ってきた見世物としての刑罰に慣れてしまった結果の行動と考える人々や、これは野蛮な行為であり革命の目指すものとは正反対のものと認識する者など多様な反応を招いた。その後7月22日に、ネッケル罷免の後に大臣職についていた[24]国務諮問会議のメンバージョセフ・フーロン・ド・ドゥエ(英語版)と、その女婿でパリ知事のベルチエ・ド・ソーヴィニー(英語版)もパリの食糧危機を軽視したという理由で義父と同じ日に群衆に虐殺され、ともに槍首にして引き回された[25]。この時フーロンは、貧民たちが飢えているなら藁でも食えばいい、と述べたとされる[26]。

撤退

シャン・ド・マルスで待機していた国王軍は一連の事態に介入できないまま、14日の夜に国王の了承のもとパリから撤退した。ヴェルサイユに帰還する途中、14日から翌15日にかけての深夜に国王軍はパリ近郊のサン=クルーからセーヴルにかけての民家に分散して宿泊したが、スイス人連隊の一つであるサリス・サマド連隊(フランス語版)[注釈 1]の日誌によればセーヴルに宿泊した同連隊所属のスイス人兵士のうち75人が住民と意気投合して軍を離脱、軍服を捨てて武器を持ったままパリに逆戻りしたという[27]。

ヴェルサイユに戻ったブザンヴァルは一連の事態の責任を問われてただちに拘禁された。結果的に国王軍に見捨てられたも同然の形になったバスティーユ守備隊の幹部で虐殺を免れたド・ピュジェは、その後まもなく復職したネッケルがブザンヴァルの釈放に尽力したことから「ブザンヴァルは同じスイス人であるネッケルと通じており、(ネッケルを解任した)宮廷を面倒な立場に置くためにパリ市民の反乱を工作していた」とブザンヴァルを非難しているが[28]、国王軍を率いながらパリ市民の蜂起に対処できなかったブザンヴァルはその後も王党派から「革命に同情的な裏切り者」とスケープゴート的な非難を受け続けることになる[29]。

結果

パリ市庁舎でバイイとラファイエットに迎えられるルイ16世 (ジャン=ポール・ローランス画)
「さらばバスティーユ!」破壊されたバスティーユを背景に、ライオンを連れた第三身分がバグパイプを吹きながらゲーム盤を踏み鳴らすと、盤上につながれた貴族と聖職者が右往左往する。バスティーユの陥落と特権身分の権威の失墜を描いた当時のカリカチュア

一連の事件は民衆蜂起によって専制のシンボルが打倒されたと見られた[注釈 2]。これによって王からの譲歩を得た国民議会も民衆の暴力性を前にして不安を抱いたが[9]、国王軍による武力行使をもって議会を解散させられるという危機がひとまず回避できたため完全に暴力を否定するわけにもいかなかった[15][30]。

バスティーユ襲撃事件を知ったルイ16世は国民議会にて、議員たちからパリとヴェルサイユにいる軍の撤退とネッケルの呼び戻しを[31]助言され、その内容を決定した。翌17日には32名の議員と共に民衆が国王万歳ではなく国民万歳を叫ぶ中[31]パリの市庁舎に迎えられ[32]、憲法制定議会の議員でありフレッセルの後釜として新市長に選出されたバイイ[注釈 3][33]から蜂起民にとって共通のシンボルであった三色徽章を贈呈されている。このブルボン王家の色である白をパリの色である赤と青ではさんだものを自分の帽子に添えることで、ルイ16世は王と民衆の一体性を主張した[24]。また、パリ市の民兵団(後の国民衛兵)の設置とラファイエットの国民衛兵司令官任命、およびバイイの市長着任を事後承認し、これと三色徽章の贈呈を受け入れることによって事件の内容を不問とした[31]。

一方、同日には王弟アルトワ伯が亡命しているが、彼は兄ルイ16世にも亡命を勧めたもののこれを拒否された[15]。遡ること一世紀半前、ピューリタン革命においてチャールズ一世が首都ロンドンから亡命した結果、これが内乱を呼び彼自身も処刑されたことを意識していたと言われている[34]。

アリストクラートの陰謀にもとづき貴族に反撃されるのを恐れた農民は不安定な精神状態に陥り、武器を持った貴族が馬で移動しているのを目撃したといった噂に自分たちが襲撃される恐怖が加わったため[35]、7月下旬から8月初めにかけて6か所、フランス各地でパニックが発生し、住民が周辺の村に逃げ出しそれを見た村の人々にも恐怖と不安が伝染するという事態に発展した。発生したパニックの連鎖は数十キロから数百キロの長さに及び、この現象は大恐怖と呼ばれる[36]。

大恐怖は新しい農民騒擾の原因というよりこれまで積み重ねられてきた騒擾の結果であったと言えるものだが、これはルイ16世と議会の間で新たな政治的意味合いが付加され、封建制の廃止へと繋がっていく[36]。地方行政の中心となっていた地方長官や地方長官補佐はフーロンやベルチエと同じ運命を辿ることを恐れて亡命し、軍事担当の地方総督や司法担当の高等法院は事件に対応できる力を持っていなかった。国王政府の地方行政が実質的に機能しなくなったため、バスティーユ襲撃によって国王に対し相対的に優位に立っていた議会は、大恐怖に関する報告が寄せられる中、これらに対応するため行動すべきことを自覚する。当時の状況において政治を主導できる正統な政治機関は、良くも悪くも国民議会しか存在しなかった[37]。

ギャラリー

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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