デュースブルク市電
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デュースブルク市電(デュースブルクしでん、ドイツ語: Straßenbahn Duisburg)は、ドイツの都市・デュースブルクの路面電車。19世紀後半に開通した馬車鉄道を始祖とし、デュースブルクや近隣地域へ路線網を広げている。一部区間を高規格化したシュタットバーン(デュースブルク・シュタットバーン)を始めとした公共交通機関と共に、2026年現在はデュースブルク市が全株を有するデュースブルク公共交通会社(Duisburger Versorgungs- und Verkehrsgesellschaft、DVV)の子会社で、同社や沿線自治体が株を有するデュースブルク交通会社(Duisburger Verkehrsgesellschaft、DVG)による運営が行われている[7][3][4][10]。
系統
2026年現在、シュタットバーンの系統を除き、デュースブルク交通会社が運営する路面電車路線は以下の通りである。そのうち901号線は隣接するミュールハイム・アン・デア・ルールの路面電車(ミュールハイム市電)への直通運転を実施している[1][11]。
| 系統番号 | 起点 | 終点 | 参考・備考 |
|---|---|---|---|
| 901 | Mülheim Hbf | Obermarxloh Schleife | |
| 903 | Dinslaken Bahnhof | Mannesmann Tor 2 | |
歴史
馬車鉄道・蒸気鉄道時代
19世紀後半のデュースブルクでは急速な工業化が進み、人々の往来が盛んになった事で公共交通機関の需要が増大していた。当時、デュースブルクや各都市を結ぶ鉄道網の整備は進められていたが、近隣地域を結ぶ公共交通の整備は遅れており、これらを結ぶ定期運用を実施する乗り物が求められていた。それを受け、1873年1月からデュースブルク市内や近隣地域を結ぶ乗合馬車が営業運転を開始し、以降様々な企業が参加する形で路線網が拡大していった[12][13]。
一方、同時期にはドイツの都市・デュッセルドルフ出身の実業家により、デュースブルクと近隣地域を結ぶ馬車鉄道の提案がなされ、1877年に承認がなされたが、資金不足のためこの計画は実現しなかった。この馬車鉄道の計画が再度動き出したのは、1881年にデュースブルク市とベルリンの実業家との間に建設および50年分の営業権に関する契約が結ばれた時であり、同年9月からデュースブルクとルールオルト(Ruhrort)を結ぶ路線の建設が開始された。そして12月24日に開通式が行われ、馬車鉄道の営業運転が開始された。全長は5.2 km、軌間は1,435 mmで、途中には固定の停留場はなく、乗客はどの地点からでも乗降が可能であった[2][3][4][6]。
この馬車鉄道の評判を受け、他地域の間を結ぶ更なる鉄道網が求められるようになった。それを受け、デュースブルクとモニング(Monning)を結ぶ軌間1,435 mmの鉄道の建設が進められ、1882年7月から営業運転を開始した。この路線は途中に勾配区間があった事から、動力源として蒸気機関を用いる蒸気機関軌道となった。その後、更なる需要を満たし路線の収益性を高めるため1881年5月にはブロイヒ(Broich)への延伸が行われている[2][14][15][6]。
また、1892年7月にはルートオルトとマイデリヒを結ぶ新たな馬車鉄道が開通した。この路線は他の路線と異なり、軌間は750 mmと狭かった[15]。
路面電車網の拡大

赤線:軌間1,435 mm
青線:軌間1,000 mm
ルートオルトとマイデリヒを結ぶ馬車鉄道の成功を受け、更なる馬車鉄道の路線網拡大が計画されたが、当時この馬車鉄道を運営していた事業者が資金不足だった事から、1894年に設立されたルートオルト地区軌道(Kreis Ruhrorter Straßenbahn AG、KRS)に事業が譲渡された。また、同時期のデュースブルク - ルートオルト間やデュースブルク - ブロイヒ間の各種軌道の運営は、ドイツ各地で軌道を所有していた一般地方軌道会社(Allgemeine Lokal- und Straßenbahn AG、ALSAG)が実施していた。両社は1890年代当時最新鋭の交通機関であった路面電車の本格導入を決定し、1896年までに各種認可を取得した[4][5]。
両社共に1897年から1898年にかけて既存の路線網の電化や、ホッホフェルト(Hochfeld)方面を始めとした新規電化区間の開設を実施したが、ALSAGは既存の線路を活用し軌間1,435 mmの路線網を広げた一方、KRSは電化に際して軌間を1,000 mmに変更した。その結果、デュースブルクを中心とした地域間の路面電車網は2種類の軌間が混在する状況となった[5][6]。
一方、1898年にはデュースブルクと大都市・デュッセルドルフを結ぶ新規の電気鉄道であるデュッセルドルフ - デュースブルク軽便鉄道(Düsseldorf-Duisburger Kleinbahn、DDK)が設立され、既存の鉄道とは異なり多数の村々を経由する軌間1,435 mmの路線の建設が開始された。そして1899年10月にデュッセルドルフとカイザーズヴェルト(Kaiserswerth)までの区間が、1900年8月にデュースブルクまでの路線が開通した。この路線は更に延伸が行われた一方、運営組織のDDKはライン・ヴェストファーレン電力会社(RheinischWestfälische Elektrizitätswerk AG、現:RWE)を経て1908年にALSAGに買収され、同社が運営する路面電車網との接続が行われた。その後、1913年にこの路線の運営権はデュースブルク市へと移管されている[2][16][17]。
また、同年にベルリンに設立されたコンチネンタル鉄道建設・経営会社(Continentale Eisenbahn-Bau- und Betriebs-Gesellschaft、CEBBG)は1900年にノイミュール(Neumühl)からディンスラーケン(Dinslaken)を結ぶ本線と、アルデンラーデ(Aldenrade)とヴァルズム(Walsum)を結ぶ支線、2つの軌間1,000 mmの電化鉄道を開通させた。これらの路線では旅客営業に加え、沿線の工場の輸送需要を満たすため、電気機関車が牽引する貨物列車も運行された。その後、本線については1902年11月にマイデリヒまでの延伸が行われたが、この延伸区間はマイデリヒ側の決定に従い、同市から運営を委託される形となった他、貨物輸送は行われなかった[18][19]。
その後、1907年にはライン川を跨ぐ橋梁の開通に合わせ、右岸のデュースブルクと左岸のホンベルク(Homberg)やメールス(Moers)を結ぶ路面電車が営業運転を開始した。当初はルートオルト地区軌道(KRS)による運営が行われた後、1913年にメールス - ホンベルク軌道会社(Straßenbahn Moers-Homberg GmbH)が運営権を継承している。このメールス - ホンベルク軌道会社は、元々メールスとホンベルクを結んでいた蒸気鉄道に代わる路面電車を建設するために1908年に設立された企業で、同年10月から営業運転を開始した経緯を持ち、前述の運営権継承後は橋梁を経由しルートオルトへの直通運転も行われるようになった[20][21]。
これに加え、1908年にはホンベルクを始めとした各自治体からの出資を受ける形で、ライン川左岸の各地域を結ぶ路面電車網を運営するホンベルク路面電車会社(Straßenbahngesellschaft Homberg)が設立され、翌1909年に3段階に分けて軌間1,000 mmの路線の開通が行われた。その後、1925年にホンベルク路面電車会社の運営権はメールス - ホンベルク軌道会社が獲得しており、1933年に吸収合併が実施されている[22]。
1910年代以降もデュースブルクを中心とした各地域の路面電車網の拡大は続いた。そのひとつが19世紀末から急速に人口が拡大し、公共交通機関の拡充が求められていた、当時独立した「市」であったハンボルン(Hamborn)で、同市が設立した市営企業のハンボルン路面電車公社(Städtische Straßenbahnen Hamborn)によって1910年10月から営業運転を開始し、以降1912年までに5系統が運行される路線網が築かれた。一方で、交渉の結果、郊外方面の路線についてはルートオルト地区軌道(KRS)が建設・運営を実施する事となった[23][24]。
一方で、同時期には路面電車の運営組織の再編も始まっており、コンチネンタル鉄道建設・経営会社(CEBBG)が運営していたデュースブルクや周辺地域の路面電車網については1910年から1912年にルートオルト地区軌道(KRS)が買収している[23]。
第一次世界大戦、戦後情勢の影響
デュースブルクや周辺地域において積極的に行われた路面電車網の拡大は、第一次世界大戦の開戦に伴い中断を余儀なくされた他、従業員の多くが徴兵され、一部区間は運休を余儀なくされた他、人員不足を補うため女性運転士や女性車掌も見られるようになった。更に資材不足も深刻化し、車両や施設の劣化が深刻化していった。一方で増大する都市部の貨物需要を満たすため、前述した2つの路線以外の路面電車路線でも食料品や日用品、石炭などの物資を運ぶ臨時の貨物輸送が行われた[25][26]。
終戦後もこれらの路面電車網はハイパーインフレーションを始めとした経済や情勢の混乱の影響を受け、運賃が高騰した。更に同時期のデュースブルクを始めとした地域はフランス軍やベルギー軍による占領下にあり(ルール占領)、住民の抵抗運動も起因となった占領当局による交通規制により、1923年には全ての路面電車路線が営業運転を停止させられる事態も起きた[27][28]。
路面電車網の統合、近代化
ルール地方の占領が終結した後の1924年、デュースブルクや周辺地域で路面電車網を運営していた一般地方軌道会社(ALSAG)は、ホッホフェルト方面の路面電車の建設に際してデュースブルク市と結んだ25年の運営権の期限を迎えていた。これを受け、ALSAGと市は共同でデュースブルク路面電車会社(Duisburger Straßenbahnen GmbH)を官民混合の所有会社として1925年に設立し、ALSAGの運営権を移管した[28]。
一方、デュッセルドルフ方面の路面電車を運営していたデュッセルドルフ - デュースブルク軽便鉄道(DDK)については、1924年に締結された、高規格の都市間鉄道に転換する計画のもとでデュッセルドルフ市や一般地方軌道会社(ALSAG)改め一般地方鉄道・発電会社(Allgemeine Lokalbahn- und Kraftwerke-AG、ALOKA)の参入を経て、1938年に全株をデュースブルク路面電車会社へ売却し、同社に吸収合併されている。この新たな都市間鉄道の建設は1925年から行われた後、1926年から営業運転を開始しており、以降長期に渡って「D線」という系統名で運行される事となった。また、この路線はデュースブルク路面電車と、デュッセルドルフで路面電車や都市間鉄道を運営するライン川鉄道会社(Rheinische Bahngesellschaft AG、現:ラインバーン)と共同運営された[17][29]。
また、ハンボルンの路面電車網については、1929年に周辺地域を含めてデュースブルクへと編入された事を受け[注釈 1]、翌1930年に全路線の運営権がルートオルト地区軌道(KRS)へ移管された。ここまで上げた事例以外のデュースブルクや周辺地域の路面電車の統合はこの時点ではそれ以上進まなかったものの、各事業者間での運賃の統一や共通乗車券の導入と言った施策は進められた[24][30]。
同時期には路線の拡張も進められ、1930年にはデュースブルクの路面電車網は最大規模に達した。それに先立つ1925年にはクレーフェルトの路面電車との接続も開始された他、1934年にはデュースブルク中央駅の再編に合わせ、D線向けの半地下駅が開通した。車両についても1926年に、当時先進的だった連接台車を備えた2車体連接車「ハーコートワーゲン(Harkortwagen)」が営業運転に投入された[2][21][31][32]。
- 動態保存が行われていた頃の「ハーコートワーゲン」(2005年撮影)
そして、デュースブルク市議会で国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が第一党を占め、デュースブルク路面電車会社やデュースブルク市長の辞任が強要される事態も起きる情勢下で路面電車事業者の統合が再開され、1938年にデュースドルフ路面電車会社とルートオルト地区軌道(KRS)の商業部門・法務部門が統合された。そして、一般地方鉄道・発電会社(ALOKA)も含めた公共交通機関全体の統合に関する会合が進められ、1940年にデュースブルク交通会社(DVG)が設立され、多くの事業者の路面電車網が同社のもとに統一された[注釈 2]。ただし、この時点でデュースブルクに統合されていなかった、ホンベルクやメールスで路面電車を運行していたメールス - ホンベルク軌道会社はそのまま維持された[2][31][33][34]。
第二次世界大戦の影響
第二次世界大戦の勃発により、再びデュースブルクや周辺地域の路面電車は資材不足による車両や施設の劣化、乗務員の徴兵による人員不足やそれを補うための女性車掌や運転士などの登用などの事態が起きた。更に、1940年以降デュースブルクは空爆に見舞われ、特に1943年以降は幾度かの大規模爆撃により、市内と共に路面電車網は甚大な被害を受けた。特に車庫や車両への被害は大きく、マイデリヒやヴァルズムの車庫は完全に破壊された他、在籍車両の多くが破壊、もしくは深刻な損傷を受けた。そして1944年10月の空爆の後、経営部門や営業部門の職員は現在のテューリンゲン州に位置するズンナ(Sünna)へ疎開し、残された路面電車網も連合国軍による砲撃が始まって以降の1945年3月に、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の管理指導部や市長の命令により運行が停止した。これらの運用が順次再開されたのは、ドイツの降伏により連合国軍による統治が始まった同年5月以降となった[35][36]。
戦後の復旧、近代化

赤線:軌間1,435 mm
青線:軌間1,000 mm
終戦直後のデュースブルクの路面電車網は戦災からの復旧が進められ、1946年にはデュッセルドルフへ向かう「D線」も運行を再開した。そして1948年にはほとんどの路線や施設が修復され、1950年にはライン川を渡る橋梁が復旧した事で、デュースブルクと対岸都市への運転も再度行われるようになった。車両についても深刻化していた輸送力不足を補うため、1948年に6両の新造車両が導入された。これは第二次世界大戦後のドイツにおいて初めて完全新規で製造された路面電車車両となった[36]。
その後、費用面や経済面からの検討の末、長らく混在していた2つの軌間(1,000 mm、1,435 mm)を1,435 mmに統一する事が決定し、1952年以降順次軌間1,000 mmの路線網の改軌が行われた他、1959年には一部区間がバスに置き換えられた。デュースブルクを始めとした地域の路面電車網から軌間1,000 mmの路線が営業運転を停止したのは1966年4月30日である。また、ライン川左岸のホンベルクやメールスに残存していたメールス - ホンベルク軌道会社の路線については、ライン川を渡る新たな橋梁の建設に合わせ、1952年から1954年にかけてトロリーバス(メールス・トロリーバス)に置き換えられ廃止された[注釈 3]。他にも軌間1,435 mmの路線についても一部廃止が行われている[36][8]。
車両については1950年代以降大型のボギー車の導入が始まり、後年には効率化を目的とした連節車の導入が継続的に行われた。また、車両基地における車両の改造による輸送力増強も積極的に行われており、戦後導入されたボギー車についても連節車への改造が実施された。一方、同時期の1960年には、戦時中を除いて当時の西ドイツにおいて初めてとなる女性運転士が登場している他、1962年には西ドイツ国外出身の運転士の登用も行われている。ただし、車掌業務については信用乗車方式への転換が行われた事から、1971年までにほぼ廃止され、以降は臨時で配置されるのみとなった[37][38][39][40][32]。
また、1949年以降、デュッセルドルフ方面へ向かう「D線」で食堂車を連結した列車が運行されるようになった。この運用は新型電車への置き換えや、後述する「D線」のシュタットバーン化を経て、1998年まで営業運転が続いた。また、1965年から1966年までの短い期間、フッキンゲン(Huckingen)とディンスラーケンを結ぶ系統にも食堂車が導入された事がある[41]。
- 1970年代のデュースブルク市電(1970年撮影)
デュースブルク市内の地下化

第二次世界大戦後の1950年代以降、西ドイツ各都市では急速な経済成長に合わせた急速な自動車の普及(モータリーゼーション)により、これらの動きを見据えた都市計画の転換を余儀なくされた。デュースブルクも例外ではなく、モータリーゼーションによる公共交通機関への影響が指摘されたが、運行場や経済的な理由から路面電車を全廃するという選択肢は取られず、専用軌道化による道路からの分離、優先信号機の設置といった施策が検討されるようになった他、将来的な地下化も想定され始めた[2][42]。
この高規格化計画は、既に1969年に交通渋滞緩和策として「D線」の一部を高架化・地下化する形が動き出していたが、1970年代にノルトライン=ヴェストファーレン州が主導する形で始まった、ライン・ルール大都市圏における路面電車を高規格化した「シュタットバーン」を用いる鉄道網計画の一環として本格化し、1975年に南部区間の新駅や高架区間が開通した。更に、1974年からは中心部の再開発や路線の高規格化を目的にデュースブルク市内の地下トンネルの建設が進められ、1992年7月11日から従来の地上区間を置き換える形で営業運転を開始した。これに合わせ、トンネル内でLZB(連続列車制御装置)を用いた、運転士が搭乗する形での自動運転が行われる事から、デュースブルク市電ではD線(→79号線)改めシュタットバーンの「U79号線」も含め、車両の全面刷新が行われた[2][43][44][45]。
- 地下化に合わせて投入された「GT 8 NC-DU形」(1992年撮影)
1990年代以降の動き
1995年、ルール川を渡るアーカーフェール橋が老朽化により通行が禁止される事態となり、経由する路面電車の系統も運休した。この事態を受け、同年内に単線の仮設橋が建設された後、新たなアーカーフェール橋が敷設されるまで使用が続いた。その後、1993年から建設が始まったマイデリヒ方面の地下区間が2000年9月に完成した事から、この橋の上を通る区間は廃止されている[2][46]。
車両については、全面刷新が行われて以降、試験的に導入された超低床電車(バリオバーン)を除いて車両の増備は行われなかったが、2010年代に入ると老朽化が進行した事で運用の離脱が相次ぎ、一時は列車本数の削減や代行バスの運行が実施される事態となった。これらについては、置き換え用の新型超低床電車の導入に伴い徐々に解消されている[47][43][32]。