デルシム (競走馬)
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| デルシム | |
|---|---|
| 原語表記 | Dersim |
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 栗毛[1] |
| 生誕 | 1978年3月9日[1] |
| 死没 | 2011年4月11日[1] |
| 父 | Calaboose |
| 母 | Saika |
| 母の父 | Floche Royale |
| 生国 |
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| 生産者 | Ahmet Cemal Kura[1] |
| 馬主 | Ahmet Cemal Kura[1] |
| 調教師 | Oktay Ergökçen[2] |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 17戦6勝[3] |
| 勝ち鞍 | ガジ賞(トルコ国内G1) |
デルシム(Dersim、1978年 - 2011年)は、トルコの競走馬。1981年のガジ杯(トルコダービー)に優勝した。同年秋の第1回ジャパンカップに招待され来日したことで日本でも名前を知られるが、日本滞在中に故障し、出走はかなわなかった[4]。
2歳時
1980年10月26日、ヴェリエフェンディ競馬場(イスタンブール)芝コースの未勝利競走でデビュー。2連敗の後、11月27日の未勝利戦で勝ち上がった。次走、シーズンの最後にハンデキャップ競走に出走したが、3着に終わった[3]。
3歳時
2歳時に目立った成績ではなかったデルシムは、3歳時に本格化した。
3か月の休み明け、イズミル開催のダートコースに転戦して重賞、ハンデキャップ競走、条件競走で6戦3勝、2着3回の好成績でイスタンブール開催に復帰。ハンデキャップ競走を制した後、1981年4月26日にG1エルケック・タイ・デネメ(トルコ2000ギニー、ヴェリエフェンディ競馬場芝1600メートル)に出走して2着に入った[3]。
以後は長距離路線に進み、6月6日のG3サイト・アクソン賞(ヴェリエフェンディ競馬場芝2200メートル)を制した後、6月29日のG1ガジ賞(トルコダービー、ヴェリエフェンディ競馬場芝2400メートル)に出走した。
| 映像外部リンク | |
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1000メートル地点で後方15番手に付けていたデルシムは、800メートルで先頭集団に取り付くとペースを上げ、1着でゴールインした。タイムは2分28秒9、賞金は150万トルコリラであった[5]。
夏の重賞の2着2回を経て、秋の3歳古馬混合G1トルコジョッキークラブ賞(ヴェリエフェンディ競馬場芝2400メートル)に出走したが、前々年のガジ賞勝利馬ドクターセフェロフ(Doktor Seferof)の2着に敗れた[6]。
第1回ジャパンカップへの招待と故障
1981年に第1回ジャパンカップを開催することを決定した日本中央競馬会(JRA)は、トルコに招待枠1頭を割り当てた。当初は1980年のガジ賞勝利馬レヴァノ(Levano)が出走を予定していたが、故障引退により招待を辞退した。このため1981年のガジ賞勝利馬であるデルシムが次点で選出され、招待を受諾した[7]。
トルコ生産馬にとってジャパンカップ出走は歴史的挑戦となるはずだったが、デルシムの海外遠征はトラブル続きの困難なものとなった。10月24日に飛行機で出国することになったが、出発直前にエンジンが故障してしまい、2度の延期を経て1週間後の10月30日にようやく飛び立った[8]。
日本に着いたデルシムは、馬事公苑白井分苑の国際厩舎に入厩した[9]。日本のマスコミには「トルコのヒカルイマイ」のキャッチフレーズで紹介されるなどオウンオピニオン(「インドのシンザン」)同様「当地のスターホース」扱いを受け[要出典]、国際厩舎で10日間の検疫を受けながら11月22日のジャパンカップに向けて調整されていたが、検疫期間中に屈腱炎を発症した[10]。デルシムはジャパンカップの出走を辞退し帰国、そのまま復帰はかなわず引退した[8]。