トマス・パーシー
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Thomas Percy | |
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パーシーの肖像画 | |
| 生誕 | 1560年 |
| 死没 |
1605年11月8日(44-45歳) |
| 死因 | 戦闘死 |
| 職業 | アニック・カースルの役人 |
| 刑罰 | 遺体に対する斬首 |
| 配偶者 | Martha Wright |
| 親 |
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トマス・パーシー(Thomas Percy、1560年 - 1605年11月8日)は、イングランド史において、プロテスタントのイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件の主要メンバーの一人。
その前半生は不明な部分が多いが、パーシー家はノーサンバランド伯爵家の分家筋であり、当代で、後に仕えることになる第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは当時の有力貴族で宮廷でも著名な人物であった。いつからパーシーが熱心なカトリック教徒になったかは不明だが1589年には教皇派であった可能性もある。ケンブリッジ大学のピーターハウスを卒業し、1591年には後の火薬陰謀事件の同志となるライト兄弟の妹であるマーサ・ライトと結婚した。その後、ノーサンバランド伯に重用されて同家の北部領地の代官に任命され、1600年から1601年にかけてはイングランドによるオランダ独立戦争(八十年戦争)の支援のため、伯爵と共に低地地方(ネーデルラント)にも派遣された。さらにはスコットランド王時代のジェームズ1世(ジェームズ6世)との密使も担っており、ジェームズがイングランド王に即位すればカトリックに寛容的な政策をとってくれると周りに吹聴していた。火薬陰謀事件のメンバーたちが、1601年のエセックス伯の反乱に加担していたり、熱心なカトリック教徒として当局から警戒されていたのと対照的に、パーシーの社会的地位と信用は高かった。
1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人である過激派のロバート・ケイツビーは貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。 パーシーはケイツビーの友人であり、同様にジェームズに失望したことを彼に明かしていたために計画に誘われた。1604年5月の最初の打ち合わせに参加するなど、初期から関わっていた5人の主要メンバーの一人となった。 当初荒唐無稽な計画は暗礁に乗り上げていたが、1604年6月にノーサンバランド伯の命令でパーシーが国王の親衛隊の一員になったことで計画は一気に動き出した。まったく疑われぬ理由でウェストミンスター宮殿近くに拠点を構え、さらにガイ・フォークスを自らの使用人「ジョン・ジョンソン」として偽装し、貴族院地下に大量の火薬を運び入れていった。
しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。 ロンドンにいたパーシーは、フォークスがパーシーの使用人を名乗っていたことですぐに当局の手が回るも、逮捕のニュースを聞いて即座に街を脱出していたことで難を逃れた。その後、ミッドランズに向かっていたケイツビーらに合流し、同地で最後の抵抗を試みようとした仲間たちと行動を共にした。 11月8日の早朝に、滞在していたスタッフォードシャーのホルベッチ・ハウスを、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でパーシーはケイツビーらと共に射殺された。 その遺体は一度は埋葬されるが、後にケイツビーの遺体と共に掘り起こされ、大逆罪の罪人として斬首されて、議会の外に晒し首にされた。また、ノーサンバランド伯は計画への関与を疑われたが、パーシーの死によって身の潔白を証明することも、あるいは当局が犯罪を立証する手段も失われたため、ロンドン塔に長期収監されることとなった。
トマス・パーシーはビバリーのエドワード・パーシーとその妻エリザベス(旧姓ウォータートン)との間に生まれた2人兄弟の弟である[2]。父エドワードは第4代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーの息子ジョセリン(1532年没)の息子であり、すなわち、トマスは第4代ノーサンバーランド伯の曾孫にあたり[3]、当時の当主・第9代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーの遠縁であった[4][5]。
トマスの生い立ちについてはほとんど知られていない。彼は1560年頃に生まれ、1579年にケンブリッジ大学のピーターハウスに入学した。カトリック教会に正式に加入する前から教皇派(ペイピスト、papist)であった可能性があり[6][7]、1589年には第3代カンバーランド伯爵ジョージ・クリフォードと一緒に航海している[8]。 1591年には無神論者アーシュラ・ライトの娘マーサと結婚した。マーサの2人の兄、クリストファーとジョンのライト兄弟とは後の火薬陰謀事件で関わることとなる[9]。 ただ、夫婦仲は悪く、少なくとも結婚後に別居状態となっており、この理由としてトマスがウォリックシャーの正体不明の女のために「卑しく貧しい」妻を捨てたという逸話があるが、この説に反対する者もいる[注釈 1]。マーサとその娘は1605年には、カトリック教徒であった第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーから年金を支給され、暮らしていた[10][4]。 トマスとマーサの息子ロバートは1615年10月22日にサマセットのウィベリスクームでエマ・ミードと結婚した[6]。
近親者ではないにもかかわらず、1595年に第9代ノーサンバーランド伯から北部領地の地代徴収を行う代官に任命され、翌年にはアルンウィック城(Alnwick Castle)の城守にも任命された[4][11]。トマスの職権行使には、特に彼の後任者からの批判があり[12]、伯爵領の借地人との取引に関する当時の報告書には、管理ミスや贈収賄の告発が含まれていた[注釈 2]。 国境での小競り合いの際には、スコットランド人のジェームズ・バーンを殺害した罪で、ロンドンの監獄に投獄されるも、第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーの計らいで釈放されている。その後、トマスはエセックス伯に協力して、スコットランドとの境界地の監視官に対する陰謀に加担したが[6]、一方で後の火薬陰謀事件の同志たちの多くが関わった1601年のエセックス伯の反乱には関与しなかった。
パーシーの人物像について、彼は背が高く、身体つきから印象的な男であり、「顔つきは生真面目だが、立ち振る舞いは魅力的であった」という。彼は好戦的でエキセントリックな性格であり、「野性的なエネルギーに溢れるが、やがて無気力に陥る」と様々に表現されている[14]。 イエズス会のジョン・ジェラード神父は、彼の若い頃について「普通の人より気が荒く、よく喧嘩に明け暮れていた」と書き[15]、オズワルド・テシモンド神父は「荒くれて奔放な生活を送っていたというよりは、剣と個人的な勇気に頼ることが多かった」とみていた[16]。 そして両神父は、パーシーがカトリックに改宗したことで心を落ち着かせることができたと記すが、伝記作家のマーク・ニコルズは、これは部分的にしか当てはまらず、パーシーを「喧嘩っ早い性格」と評している[6]。
1600年から1601年にかけてノーサンバーランド伯が低地地方で軍事の指揮を執ると、パーシーも合流し、200ポンドの報酬を得た。また1603年には伯爵からカンバーランドとノーサンバーランドにおける地代の集金人に任命されている[6][12]。 ノーサンバーランド伯はカトリックの支援者と考えられており、1603年以前にも何度かエリザベス女王の命が長くないと踏んで、次期王位継承者と目されるスコットランド王ジェームズ6世(後のイングランド国王ジェームズ1世)と秘密裏に連絡を取り合い、その密使にパーシーを任せていた。伯爵の叔父(第7代ノーサンバランド伯爵トマス・パーシー)は、かつてジェームズの母であるスコットランド女王メアリーを担ごうとした「北部諸侯の乱」に関与して処刑された過去があった。伯爵は予めジェームズとの強い関係を築くことで、かつての一族の不名誉を挽回すると同時に、メアリーの死に責任があるとジェームズが信じていた(と噂されていた)ウィリアム・セシルの息子である国王秘書長官ロバート・セシルの影響力に対抗したい思惑もあった[17][18]。
このような経緯でイングランド王即位前のジェームズと直接やり取りできたパーシーは、未来の王とカトリック政策の見直しを約束したと仲間内に吹聴していた。この保証の内容は正確にはわからない。テシモンドは、ジェームズが「カトリック教徒を積極的に優遇するという非常に寛大な約束」をし、「あらゆる種類の名誉の授与や役職の任命を認めるだろう」と記したが[16]、この約束が書面ではなく口約束であったことは歴史家の間で広く共有され定説となっている。フレイザーは、スコットランド王はおそらく、カトリック教徒が個人的にミサを行うことは認めるつもりだったのではないかと推測しているが、これが正しいとすると、パーシーがカトリックの仲間たちに「王は我らの宗教を守る約束をした」と明かしたレベルよりも、遥かに後退している。ジェームズが話す英語の「古風さ(quaintness)」によって双方にいくつかの誤解が生まれた可能性がある[19]。 現在に残る、ジェームズとノーサンバランド伯との書簡の中では「静かな」カトリック教徒の邪魔しないように、また「良き奉仕を行い」顕彰すべきカトリック教徒を見落とさないようにする、とだけ書いてある。このやり取りの齟齬は後々まで影響をもたらすことになった[20][21]。

