トヨペット・クラウン (初代)
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| トヨペット・クラウン(初代) RS型/RS2#/CS2#/RS3#型 | |
|---|---|
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1961年3月改良型 1900スタンダード(RS30型) | |
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| 概要 | |
| 製造国 |
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| 販売期間 | 1955年 - 1962年 |
| 設計統括 | 中村健也 |
| デザイン |
岩田大(エクステリア) 森本真佐男(インテリア) |
| ボディ | |
| 乗車定員 | 6名 |
| ボディタイプ | 4ドアセダン |
| 駆動方式 | 後輪駆動 |
| プラットフォーム | X型フレーム |
| パワートレイン | |
| エンジン | |
| 変速機 | 3速MT / 2速AT |
| サスペンション | |
| 前 |
ダブルウイッシュボーン +コイルスプリング |
| 後 |
リジッドアクスル +リーフスプリング |
| 車両寸法 | |
| ホイールベース | 2,530 mm |
| 全長 | 4,285 - 4,410 mm |
| 全幅 | 1,680 - 1,695 mm |
| 全高 | 1,525 - 1,540 mm |
| 車両重量 | 1,210 - 1,270 kg |
| その他 | |
| ブレーキ | 4輪ドラム |
| 系譜 | |
| 先代 |
トヨペット・SA型および トヨペット・スーパー |
| 後継 |
トヨペット・クラウン(S40型) トヨペット・コロナ(T20型)[注釈 1] |
初代クラウンは、トヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)が製造し、1955年から1962年までトヨペットブランドから販売された小型乗用車である。「観音開きのクラウン」(縮めて「観音クラウン」とも)という愛称でも知られている。
戦後の日本で初となる純国産設計の高級セダンとして開発され、以後70年を超える歴史の幕を開いた。
開発の経緯
1952年(昭和27年)から開発着手され、1953年(昭和28年)から発足したトヨタ独特の「主査制度」でマネージャー的立場に置かれた技術者の中村健也を主査として開発されたものである。国外メーカーとは提携せず、アメリカ車の各コンポーネントを手本としながらではあるが、エンジンを含めて全体が純国産設計で開発された[5]。
第二次世界大戦が終わって間もない頃で、挙母市にある本社工場は終戦間近に爆撃されたものの、復興需要を見込んでの復旧および民需転換を行い、しばらくは民間用トラックの生産に勤しんでいた。しかしGHQの許可を得ているとはいえ、基本的に生産するのはエンジンやサスペンション、タイヤなどを取り付けたシャシのみであった。このノウハウを活かして生産されたのがトヨペット・スーパーなどの小型乗用車であるが、多くの場合、販売店がトラックのシャシに独自の乗用車ボディを架装販売していたため、完成後の品質保証がトヨタ自動車工業自身でできないことが大きな悩みとなっていた[6]。また、独自開発のSA型セダンも道路事情に合っていない悪路走破性や非力な性能、さらに買い手がつかないことなども合わさって、失敗に終わった。
GHQによる乗用車製造が許可された当時の通産省は欧米の自動車メーカーとの技術提携を推進しており、国内の多くの自動車メーカーがこれに倣う形で製造を開始した[7]。実際に乗用車の生産制限が解除されたのが1949年10月であり、しかもそれ以前は生産がさかんではなかったこともあいまって、欧米に対して技術水準が低かった[8]。そのような状況にも関わらずトヨタ自動車工業については、以上の反省も踏まえた上で、豊田喜一郎とエンジニアたちによって国産乗用車を造るための新しい目標が掲げられた。「クラウン」という車名も開発の指示を出した喜一郎の発案によるものだが[9]、彼は開発の最中に亡くなったため、完成したクラウンの姿を見届けられなかった[10]。
喜一郎に憧れて入社した中村は、元々は車体工場の次長を勤めており、設計は専門でなかった。技術部門を統括している常務であった豊田英二と斎藤尚一によって、「車両開発主査」に任命された[11]。様々な部署を一つの目的のために動かす主査制度は同社で導入したばかりであり、中村が初めて主査になった人物となる。中村はこれ以前からも企業の存続を考えて、乗用車生産の必要性を主張していたところ、それが認められる形で着任することとなった[12]。英二は単なる設計者ではなく、すべてを見渡して必要な部隊全部を動かせる指揮官のような人物が主査に相応しいと考え、中村にはそういった実力があるとして選出したと述べている[13]。
設計方針
中村は「まず、販売店やタクシー会社を歩いて回り、お客様の声を聞くところから始めた」と振り返るように、開発にあたって市場における需要を調査した[14]。それから「悪路に強く乗り心地の良い乗用車」というコンセプトを立て、純国産車としての開発をスタートした。この経験が、トヨタの乗用車づくりの基盤を形作った。
設計に関しては、当時では市場の半分を占めていたタクシー事業者の声を聞いたうえで、以下のようにまとめられた[15]。
- アメリカンスタイルとし、明るく軽快な感じを出す。
- ボディーサイズは、小型車規格一杯とし、貧弱に見えないこと。
- 乗り心地がよく、運転性能に優れた車とする。
- タクシー用として格安な車とする。
- 丈夫で、悪路に十分耐える車とする。
- 最高速度は、時速100キロメートルとする。
アメリカンスタイルのボディは様々な案との比較検討を経て、決定版では欧州車風のデザインをベースに機能美を追求したものとなっているが、これは日本の風土に合わせたデザインを目指した結果でもある[16]。小型車規格であるにも関わらずテールフィンやメッキ装飾により、貧弱に見せない工夫をしている。
後述するように観音開きのドアは、タクシーに(運転席で遠隔操作して開閉する)自動ドアが普及する以前において、運転手と助手がドアを開けるという事情を踏まえての設計だった[15]。しかしこの構造は、ドアを閉めるのを面倒くさがった一部のタクシードライバーの間で、一旦発進して急ブレーキを踏んだときに発生する風圧でドアを閉めるという危険行為に繋がった[17]。結果として、これがタクシーの自動ドアが開発されたきっかけになったと言われている。
公称最高速度はこの方針を達成し、最終的には1960年10月に登場した1900デラックスによって、140 km/hに達した。
基本構成
シャシ構成

従来のトラックなどと共通の汎用フレームに代わる乗用車専用シャシを開発した[18]。フレーム形式はX型フレームを採用し[3]、低床化による乗り降りのしやすさに貢献している。中村自身の考案によって高剛性な断面形状を持つこのフレームは、当時のアメリカ車で標準的だったアーク溶接とは異なり、スポット溶接で形成されている[15]。サスペンションは、フロントがコイルスプリングによるダブルウィッシュボーン式の独立懸架、リヤはリジッドアクスル(固定車軸)を半楕円リーフスプリングで吊る車軸懸架方式である[19]。
独立懸架の設計はシャシ設計課の守屋茂が担当した[20]。この時代の日本は道路の舗装率がわずか1%と低く[21]、また、補修も追いつかない状況であった。そのため、日本製乗用車で独立懸架の採用はほとんどなく、トヨタでも1947年(昭和22年)のSA型で採用したが不成功で、その耐久性が懸念されていた。どのようにするか中村と相談した結果、クラウンではプリムスの設計を手本にして[20]アーム類を太く、リンクを支えるピボットなどもより太く長くして頑丈なつくりとし、長期間の走行実験を通して悪路に耐えうる水準の独立懸架を実現している。また、横振れを防ぐために最前部にはトーションバー式のスタビライザーを備えた。初期型ではキングピン式スピンドルを採用していたが、マイナーチェンジの度に上下ボールジョイントに置き換えられた[22][注釈 2]。
一方、後車軸は固定車軸となったが、東京大学教授の亘理厚らによる研究成果を活かし、重ね板ばねの枚数を少なくして板間摩擦を減らすことで乗り心地を改善した「3枚ばね」とした[18]。このためショットピーニングによるばね鋼の強化処理やショックアブソーバーの併用など、以後の自動車において常識化した技術が導入されている。
4輪すべてがドラムブレーキであり、前輪側はツー・リーディング式、後輪側はリーディング・トレーリング式(1958年10月以降はデュオ・サーボ式)となっていた[22]。油圧で制御するクラッチ、ブレーキペダルはともに、ハイヒールでも容易に踏めるほどに軽い[23]。
エンジン

ガソリンエンジンは1953年(昭和28年)に先行登場したトヨペット・スーパーから流用された直列4気筒のR型を採用した[19]。すでに信頼性の高いR型は、加工精度や内部部品の摩耗などを想定して、オーバーホール時にピストンのボーリングをしても、排気量がもともとの小型車枠に収まる程度となるよう、問題ないように設計されている[6]。エンジンノイズはこの時代のものとしては比較的小さなものであったが、加速性能は1,200 kg以上の重量に対して満足はできないものであった[18][23]。1959年7月には2バレルキャブレターの採用によってパワーアップした。1960年10月には排気量を拡大した3R型を導入し、よりパワー不足問題への対処に力を注いだ。
また、ディーゼルエンジン搭載車も1959年に追加されたが、これは日本製市販乗用車で初のディーゼル車となった。戦前から国策で開発をストップし、戦後も生産・販売中止要請が行われていたものの既に開発を進めていたこともあって、これを無視する形で市場に送り出した[6]。ただし生産は少数に留まり[24]、1961年3月まで生産された。このC型ディーゼルエンジンは、昭和33年度日本機械学会賞の製品部門を受賞している[25]。
| 型式 | 販売期間 | エンジン | 排気量 (cc) | タイプ | 圧縮比 (:1) | 最高出力 (kW (PS)/rpm) | 最大トルク (Nm (kgm)/rpm) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ガソリンエンジン | |||||||
| RS | 1955年1月-1958年10月 | R型 | 1,453 | 水冷 直列4気筒 OHV | 6.8 | 35 (48) / 4,000 | 98 (10.0) / 2,400 |
| RSD | 1955年12月-1958年10月 | 7.2 | 40 (55) / 4,400 | 103 (10.5) / 2,600 | |||
| RS20 / RS21 | 1958年10月-1959年7月 | 7.5 (RS20) 8.0 (RS21) | 43 (58) / 4,400 | 108 (11.0) / 2,800 | |||
| RS20 | 1959年7月-1961年4月 | 7.5 | 44 (60) / 4,500 | 108 (11.0) / 3,000 | |||
| RS21 | 8.0 | 46 (62) / 4,500 | 110 (11.2) / 3,000 | ||||
| RS31 | 1960年10月-1962年9月 | 3R型 | 1,897 | 水冷 直列4気筒 OHV | 8.0 | 66 (90) / 5,000 | 142 (14.5) / 3,400 |
| RS30 | 1961年4月-1962年9月 | 7.7 | 59 (80) / 4,600 | 142 (14.5) / 2,600 | |||
| ディーゼルエンジン | |||||||
| CS20 | 1959年10月-1961年3月 | C型 | 1,491 | 直列4気筒 OHV 過流室式 | 19 | 29 (40) / 4,000 | 83 (8.5) / 2,400 |
変速機

コラムシフト(リモートコントロール式と称した)の3速手動変速機は、2速および3速にシンクロナイザーを装備した[19]。クラッチは油圧式である[26]。上級仕様であるクラウン・デラックスではこれにオーバードライブを追加し、さらに静粛性などを向上させた[27]。当初前進1段目にシンクロナイザーが組み込まれなかったのは、現代の変速機よりもローギアが主流で、実質発進専用となっていたためである[28]。その後の改良では全段に採用し(フルシンクロ)、性能を向上させている。他にも、変速時のクラッチ操作を不要とした西ドイツ・ザックス社開発「サキソマット」や、後述する「トヨグライド」の技術へと発展した[29]。
差動装置に組み込む傘歯車には日本車としては初のハイポイドギアを採用し、耐久性と静粛性に配慮した上で、プロペラシャフトの位置に伴う低床化を実現した[30]。最低地上高は210 mmとなり、現代のコンパクトカーと比べて高めであるが、当時の未舗装路が多い環境では利点となり、悪路走破性も十分確保できた[29]。ハイポイドギアの製造にあたって、トヨタは1953年(昭和28)年5月までにはアメリカ・グリーソン製の専用歯切り盤を輸入し、量産化の体制を整えていた[31]。
トヨグライド

初代クラウンのもう一つの特徴として、日本製の乗用車で初めて自動変速機を搭載したことが挙げられる[注釈 4]。独自開発されたトルクコンバータ式変速機は「トヨグライド」と名付けられ、ドライブ(D)とロー(L)の切り替えによる2段階の変速が可能であった[32][33]。クラッチを踏んで直接シフト操作を行う[21]その機構から、正確には「半自動変速機」に分類される。当時主流のMTはダブルクラッチでエンジンとギアの回転数を正確に合わせてからシフトチェンジを行う必要があったのに対して、トヨグライドはシンクロナイザーを内蔵した前述の変速機ベースのためずいぶん簡単に、そしてダイレクトにシフトチェンジができるようになっていた[34]。MTと同様にプラネタリー式ギアボックスを採用しており、ステアリングコラムにコントロールレバーを備えた。クリープ現象の発生など、動作は現代のAT車と変わらない[35]。
このATも純国産として開発された。しかし機構の詳細はボルグワーナーの特許に抵触する可能性があったため、初代クラウンの生産終了後の1969年にアイシン精機を含めた3社の協議で日米合弁のアイシン・ワーナー社を設立(現在は本社のアイシンに統合)してこれを回避した[32]。
このトヨグライドは、1.5 Lクラスの後継車であるコロナにも搭載されたほか、改良を重ねて国産スポーツカーのトヨタ・2000GTにも搭載される[32]。イージードライブを実現し、乗り心地の向上にも貢献する自動変速機は、後の時代で普及することを見越した先見の明によるものと考えられる[36]。
| 選択ギア | 3速MT (+R型エンジン、 C型エンジン) | 3速MT (+3R型エンジン) | 2速AT |
|---|---|---|---|
| 1速(L) | 3.647 | 3.059 | 1.820 |
| 2速(D) | 1.807 | 1.645 | 1.000 |
| 3速 | 1.000 | 1.000 | - |
| 後退 | 4.861 | 不明 | 1.820 |
| ファイナル | 5.286 4.875[注釈 5] | 4.875 | 4.375 |
ボディ
スタイリングはトヨタの社内デザインで、日本の国情に合わせたサイズ感ながらも太平洋戦争後に高級車の象徴となったアメリカ車の影響が濃厚であった[5]。スタイリングは4つの案が検討されており、1号車はカイザー・ヘンリーJ、2号車はキャデラック、3号車はナッシュ、4号車は英国のフォード・ゼファーをそれぞれ意識したモデルであった[9]。2号車はトヨタの事前調査によって、キャデラックが最も人気だったことから[37]生まれたと考えられる。工芸係所属のデザイナー、岩田大は欧州車の雰囲気をまとったデザインとナッシュ風のデザインの2つを考案した。一方で立川飛行機出身の技術者、長谷川龍雄はテールフィンがついた空気力学的な丸みを帯びたデザインを考案した。最終的には斎藤の一声に英二が乗る形で、岩田の3号車をベースとする方針が固まった[38]。
その後も1号車と2号車のデザインを修正して2次試作モデルとして仕上げられてはいるが[9]、3次試作モデルは岩田の案をベースに他のデザイナーの意見を取り入れながら、中村と長谷川が手を加えていった[39]。その姿はよりアメリカンスタイルを意識したものになっており、強度やプレス型との関係を考慮しながら洗練されていった。この間、岩田は結核で休職していたためスタイリングに直接手を入れてはいないが、その後クラウンの顔となるフロントグリルのデザイン案を提出し、採用されている[40]。最終的には計16台の試作車を通して、様々な試験を行いながらデザインを完成に近づけた[9][1]。
ボディサイズは当時の小型車規格に沿って長さ4.3 m以下、幅1.6 m以下、高さ2.0 m以下で設計された[41]。2020年代における車種と比較すれば、トヨタ・ヤリスと同程度のサイズである[42]。従来であれば手作業で板金加工をしていたが、今回においては後述の通り、トヨタ車として初めてプレス技術による量産が行われており[27]、シャシ同様に成型後に溶接する方法を採用している[1]。ボディはボックス型のサイドフレームやクロスメンバーで支えられており、ねじれに対する強度の確保や薄板を用いることによる重量軽減といった工夫がされている[35]。
後部座席の乗り降りしやすさを重視した、観音開きのドアが車体構造上の特徴である。AA型乗用車にも通ずる特徴でもあるこのドアには「ピニオン式ドアロック」が採用されており、こちらもアイシン(当時は新川工業)が開発した[36]。乗降性の基準として花嫁の衣装である文金高島田を据えており、結婚式の送迎など多様な用途を考慮している[6]。 方向指示器はドア同士の間、Bピラーに埋め込まれており、発売直後は腕木式、1958年10月以降はサイドフラッシャーランプとなっている[22]。給油口は左のテールランプ内部に隠されており、鍵を使って開けるようになっている[27]。
エクステリアは華やかなメッキモール、テールフィン風のリアフェンダーが目立つ。フロントグリルもメッキ加飾が施され、抑揚のある表情を作り出している。独特な顔を作り出すフロントグリルはイギリスのジェット旅客機、デ・ハビランド コメットの楕円形エアインテークにインスパイアされたものである。社内では「逆さブラジャー」という愛称がつけられ、社長の石田退三から好評だったことから採用された[40]。前後の曲面ガラスや逆スラントのリアピラーなど、欧州車が持つ凝縮感も垣間見える[43]。当時の流行とは真逆のスタイルで、ルーフを薄くしつつガラスの面積を広くしたことで、開放感を演出している。アメリカから輸入される分厚い鋼板で全幅が広がるのを嫌がったからでもあるが、中村のこの案を取り込んだことでクラウンの寿命を長くすることにつながったとも言われている[44]。ウィンドウガラスについては加工技術の問題で、初期モデルは前後とも分割式ガラスとしている。後に一枚ガラスに変更されるが、フロント側は「デラックス」を追加設定する1955年12月まで、リア側は初めてのマイナーチェンジが行われる1958年10月まで待つことになる[19]。
インテリアはシンプルな造形となっている。工芸係長の森本真佐男がデザインした[45]インストルメントパネルは鉄板むき出しで、内装色に合わせた色味である[43]。横長のスピードメーターを装備するなど、こちらもアメリカ車の影響が現れている[28]。その脇には小さな長方形にまとまっている油圧計、電流計、水温計、時計があり、さらにその下にチョークボタンやスイッチ類が配置された[45]。シートは2列・3人掛けとなっており、前席のスライド量を問わず後席のレッグルームを十分に確保した[23]。シートのデザインは森本と、同じく工芸係所属の藤原良治が中心となって担当し、布地の評価には紡績会社出身である石田社長も関わっている[45]。
生産
クラウンの開発中から生産開始にあたる時期は朝鮮特需により、進駐軍向けにトラックを製造・納入して得た利益で様々な設備を整えることができた[46]。設備の近代化にあたっては、常務の英二と斎藤がフォードとの技術提携契約の交渉に際してアメリカ国内の工場を見学・研修した内容から、工作機械と材料に関する問題を解決できれば良品質かつ安価なクルマを製造できると結論づけた[46]。そこでまず、トヨタ初の本格的なプレス製造による量産を行うため、当時最新鋭のアメリカ・ダンリー社製プレス機を14台導入した[47]。のちに元町工場に導入されたこの600トンプレス機は現在でもトヨタ産業技術記念館に展示されている[48]。また、古い機械については部品の交換によって自動化するような取り組みを行い、複数台の機械を一人で操るようにして作業能率を大幅に向上させた[49]。加えてフォークリフトなどを導入することで、運搬に関する時間や費用の削減も行われた[49]。この「設備近代化5カ年計画」を通して整えられた設備や制度が、クラウンの生産に大きく反映された。
当初よりクラウンは本社工場(生産開始当時は挙母工場と呼ばれていた)で生産されていたが、1959年には生産体制を整えるべく、同じ豊田市内に乗用車専用の元町工場を建設する[50]。また、元来の計画では自家用としての販売に限定して市場を拡大する狙いがあったため、東京トヨペットの乗用車部に専門部署の自家用車課が新設されるなど、販売店側にも大きな動きがあった[22]。
こうして生産準備を整えて、まずは乗用車として販売する準備もできたものの、タクシー向け営業車や商用車ではその独立懸架シャシに依然として耐久性への懸念があった。そこでトヨタでは、傘下の関東自動車工業に設計を依頼し、並行して同じセダン型の「トヨペット・マスター」が開発され、同社で生産された。こちらは前後輪ともばね枚数の多いリーフスプリングで固定軸を吊った構造とし、トラック同様の高い強度の足回りを持たせたうえで、パワートレーンなどはクラウンと共通とした。しかし、クラウンがタクシー用途に導入されると独立懸架の耐久性に問題がないことが判明し、タクシー会社からも好評であった。そのため、マスターは短期間で生産が中止され、ライトバンとピックアップトラックの「トヨペット・マスターライン」[注釈 6]として生まれ変わった。その後、マスターラインもクラウンと共通のボディへ変更された。
この理由としては神武景気の影響が大きい。三種の神器と呼ばれる電化製品(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が登場、普及も徐々に進んでいったことから経済白書では「もはや戦後ではない」と記されるほどに景気が豊かになった。その中で登場したマスターは実用的ではあるが無骨であり、一方のクラウンは高級感があり乗り心地、操縦安定性も良好であるというところで、富裕層が手にする自家用車としてはもちろん、タクシー用に最適でもあった[7]。予想外の短期間で廃止となったマスターのプレス型は、初代スタウトや初代コロナのボディに多くが流用され、損失を最小限に抑えた。
さらに発表される直前である1954年12月に第1次鳩山一郎内閣は、国産品愛用運動の一環として、各省庁の新規購入の自動車は、国産車とすることを閣議決定した。実は2年前にトヨタ自工の石田社長が参議院運輸委員会に対して、国産技術による乗用車開発の実現について述べ、その決意を表明していたのであるが[51]、この時期になるとクラウンにとって好都合であり、実際に発売直後には通産省から20台を一括で受注している[22]。こうした流れも輸入車が主流だった市場に対して、国産乗用車普及を進めた要因となった。
クラウン登場以前、そして1976年以降において軽自動車を除く国内市場占拠率は、トヨタ車だけで全体の30%となっている。しかしクラウンとコロナ(1957年に発表)の登場により、1956年から1958年にかけてその規模は40%を超えた[52]。発売初年である1955年の販売台数だけでも7,000台となっているが、この時点で小型乗用車に限れば占拠率は60%にも上り、同時に初めて自家用車登録がタクシーなどの営業車登録を超えた[53]。生産実績そのものを比較しても1951年から1956年の間で全体では3.26倍、うち小型乗用車の生産台数は8.16倍も増加した[54]。
なお、クラウン登場の2年後にはプリンス・スカイラインが産声を上げる。スカイラインも当初はクラウンのようにアメリカ車の影響が強く、曲面基調のスタイリングとなっていた。価格帯もほぼ同等の高級車だったが、2代目以降のスカイラインはスポーツセダンへとキャラクターを変え、高級車路線は日産・グロリアに託された[55]。
その一方でクラウンも2代目は、途中からさらに大型化して高級志向を強めたクラウン・エイトを投入し[55]、3代目へのモデルチェンジに伴ってトヨタ・センチュリーへと生まれ変わった。しかしクラウン自体も時代のニーズ合わせつつも、高品質と信頼性を大切にしながら進化していくことで、後年のハイソカーブームでも名前が挙がるような車種になるなど、日本製高級車の代表と言えるブランドへの成長を遂げた[10]。
クラウン・デラックス
発表してしばらくたった1955年(昭和30年)12月1日、クラウンをより一層華やかにしたトヨペット・クラウン・デラックス(RSD型)が追加された[56]。内外装の変化を伴い、エンジンは圧縮比などのチューニングによって出力を向上させた。
| 専用装備一覧 |
|---|
| 主要装備 |
| ディーラー/メーカーオプション |
|
車載装備とは異なるが、1958年10月のマイナーチェンジでは電気カミソリと電気掃除機もオプションで購入可能になっており、家電までも充実させていた[22]。このことからも、クラウン・デラックスをより自家用車として売り込んでいく工夫と意欲が読み取れる。
クラウン・デラックスは、タイヤとホイールがマイナーチェンジの度に変更されている。サイズとホイールのナット座ピッチ直径の変化は以下の通りとなっている。
| 型式 | RSD | RS21 | RS31 |
|---|---|---|---|
| 時期 | 1955年12月 | 1958年10月 | 1960年10月 |
| サイズ | 15インチ | 14インチ | 13インチ |
| P.C.D. | スタッドナット 6穴・139.7 mm | スタッドナット 5穴・114.3 mm | |
1956年(昭和31年)には「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」を敢行し、完走を果たした。クラウン・デラックスを駆る朝日新聞社の記者によって4月30日から12月30日まで実際の走行状況を伝える連載記事が組まれ、東京到着の前日には挙母工場にも寄った[57]。このイベントが、後述するように海外への輸出やモータースポーツへの参戦といったチャレンジにも繋がるきっかけとなる。
海外への輸出

クラウンはトヨタの対米輸出車第1号であるが、沖縄県とアメリカ本土それぞれで販売されていた。
1957年6月に、当時アメリカ領だった沖縄で小型タクシーが認可された。これを機に多くの左ハンドル仕様のクラウン・デラックスが輸入された。沖縄トヨタ自動車販売(現・沖縄トヨタ自動車)にはそれまで、トヨタ製の商用車やカイザー・ヘンリーJ、そしてクラウンもラインアップに並んでいたが、大型外国車中心のタクシー業界が小型車に切り替えたことでクラウン・デラックスの需要が拡大し、売上は前年の3.5倍と経営は軌道に乗った[58]。
一方のアメリカ本土では1957年(昭和32年)8月、当時のトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の共同出資により設立された現地法人、米国トヨタ自動車(現在のToyota Motor Sales, U.S.A., Inc., TMS)からサンプル輸出が行われ、販売店へのお披露目を兼ねてクラウンとクラウンデラックスの2台の試験走行を行った[59]。さらにこの法人を輸入業務専門と位置付けた上で1958年(昭和33年)2月に、卸売業務を担当するトヨタ・モーター・ディストリビューター社、小売業務の習得を目的としたハリウッド・トヨタ社を設立した。クラウンが国内で好評かつ「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」を成功した体験から、トヨタは自信を持ってアメリカ市場への参入を目論んでいた[59]。同年6月にクラウン・デラックスを30台輸出しているが、当時の法人があったカリフォルニア州の認証取得においてはヘッドライトの照度基準が日本と異なっていたため、到着後に現地で適合したヘッドライトを装着するという手順を取った。
搭載エンジンは当初の1.5 Lでは出力不足が著しく、普及しつつあった州間ハイウェイのランプの上り坂をまともに登れないほどだった。後にエンジンは1.9 Lに変更されたものの、連続高速運転でのオーバーヒートは収まらず、フリーウェイを時速80マイルで走行中に、突然エンジン音が騒々しくなって出力が低下する現象が報告されていた[59][60]。加えてユーザーから「冬の朝はバッテリーが上がり始動できない」と苦情が殺到するなど電装系の信頼性も低かった。他にも剛性不足による振動と騒音、足まわりの強度不足、ブレーキの耐久性不足、操縦安定性も危険なレベルと評価されるなどシャシの品質問題が発生していた。この弱点は同時期に輸出されていたティアラも同様だった[61]。当時の日本車はアメリカ車との技術的な格差が大きく、TOYOPET(トヨペット)ならぬTOYPET(トーイペット・おもちゃのペット)と揶揄されたほどである。
さらに、この時期はアメリカでもコンパクトカーが多数登場した。シボレー・コルヴェア、フォード・ファルコン、クライスラー・バリアントなど、欧州車も含めた輸入小型車に対抗するように相次いで発売した[61]。価格面でも、ビッグ3のフルサイズ大衆車の6気筒ベースグレード車や、コンパクトカーだがクラウンよりも大きいAMCランブラーの上級車種と競合し、この面でも競争力を欠いた。
以上の事情によって、1960年(昭和35年)に対米輸出をいったん中止している[30][注釈 7]。肝心の商品がなくなってしまったディーラーは、改良後のクラウンと新型コロナで輸出を再開するまでの間、ランドクルーザーのみで販売の道を繋ぐことを余儀なくされた[61]。
また、1960年8月にはメキシコのプランタ・レオ・デ・メヒコ社と提携し、トヨタ車のノックダウン生産が行われることになった。クラウンもその中に含まれており、トヨタ自販による金融面の支援もありながら現地資本による事業として計画された。しかし現地の経営者がメキシコ政府の政争に巻き込まれ、同社は政府に接収されてしまった。結局、1964年3月にはメキシコから撤退したために、この後すぐに発表された自動車国産化計画に参加できなかった[62]。
モータースポーツ
1957年
トヨタは1957年(昭和32年)、クラウン・デラックスとともに日本車で初めて海外のラリー選手権に出場した。第5回豪州一周ラリー(ラウンド・オーストラリア・トライアル、メインスポンサーからモービル・ガス・トライアルとも呼ばれる)への参戦および完走が、トヨタにおけるモータースポーツの歴史の始まりである[18]。
19日間、オーストラリアの荒れた道やトラックを一周する17,000 kmを駆け抜けるこのレースを通して、オーストラリアでのプロモーションにつなげることも目的としていた。1957年、在オーストラリア日本領事館は業界にラリーへの出場を要請し、トヨタが立ち上がった形となる[63]。実際に反日感情の強かった風潮の中での日豪親善民間外交の一端も担っていた側面もあり、トヨタ自動車販売(現:トヨタ自動車)の社長であった神谷正太郎は日本での壮行会で、フェアプレーの上で勝敗よりも完走を目指すような言葉を送ってプロジェクトを全面的に励ましたのに対し、トヨタチームは他のチームと全力で戦うことを意識していた[64]。
この当時に入手可能または適切だった車両として、「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」を達成したクラウン・デラックスに白羽の矢が立った。日本で販売されていた仕様をベースとしており、レースに必要となる装備を含めて車両総重量は1,700 kgにもなった。運転に関する専門家は採用されず、代わりにトヨタ自販サービス部の従業員であった神之村邦男と近藤幸次郎が指名された。コ・ドライバーはリンゼイ・ヘドリーが担当した[64]。現地情報の収集はもちろん、整備も彼ら自身で行い、毎日1,000 km近くを走行した。過酷な道を走りながらも、他チームの車を助けるような動きもあった[65]。
第二次世界大戦の終結からわずか10年余りの参加にも関わらず、日本人を含む現地の人々の応援に応えるように完走を果たした。総合47位、外国賞3位の成績を残したが、これが様々な日本車による海外ラリーへの参戦を促すきっかけになり、日本車に対する自信を高めることにもなった。外国賞1位を獲得したポルシェチームも、日本人チームが友情を示してくれなかったら栄光を掴めなかったとスピーチで語ったように、日本に対するポジティブな印象の拡大にもつながった[65]。このレースにおける様子は、トヨタ自販の異例な多さの連日プレスリリースや雑誌、週刊詩、ドキュメンタリーなどによる報道によって日本中にも活躍が知れ渡った。
1958年

1958年(昭和33年)には神奈川トヨタ自動車(現:トヨタモビリティ神奈川)主催の三浦半島一周ラリーに持ち込まれた。プロモーションの一環としてのイベントであり、オーナーズクラブ「神奈川クラウン会」のメンバーに加え、当時の人気女性歌手や豪州一周ラリーのドライバーもゲスト出場し、話題を呼んだ[66]。
同じ時期に、日本国内4,500 kmを駆け巡る「日本一周ラリー」にもクラウンが参加した。読売新聞社の主催で全国を一周するような内容ではあるものの、当時の未舗装路が多い環境を、主催者が設定した指示速度をなるべく維持しながら走破するという過酷なものであった。このレースでは神奈川県の東郷行泰・美作子夫妻が優勝し、豪州一周ラリーへの出場権を獲得した[67]。なお、このレースでは完走車34台のうち、クラウンおよびマスターが26台を占めていた[68]。
来る8月20日からは、第6回豪州一周ラリーが開催され、シドニーからスタートした。今回は販売店から神之村邦男・小西明組、清水信雄・西本博之組に加えて、先のラリーで優勝した東郷夫妻が読売新聞社の派遣として出場した。また、今回のラリーには日産自動車も参加し、技術水準の実験、および将来の輸出計画の参考のためにダットサン・210を送り出した。ところが未曾有の豪雨やマレー川の氾濫などといった悪天候の影響により、惜しくもトヨタチームは全車リタイアとなった。一方で、ダットサンは完走を果たしAクラス優勝、外国賞3位と4位を獲得した[69]。
年表
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1958年(昭和33年)10月 - マイナーチェンジ。型式がRS型とRSD型からRS20型とRS21型にそれぞれ変更され、エクステリアの意匠変更に伴うクラウン初の大規模なフェイスリフトが実施されたほか、オーバードライブ機構が採用されるなどの改良が行われた。同時期、第5回全日本自動車ショウに、クラウン・デラックスを展示(10日から20日まで)[76]。クラウンは少なくとも5台が展示され、そのうち1台のディーゼルエンジン搭載試作車がお披露目された。
- 1959年(昭和34年)10月19日 - C型ディーゼルエンジン搭載車(CS20型)が追加された[22]。主要装備、およびタイヤ・ホイールを含めた足回り等に関しては既存のクラウン(スタンダード仕様、RS20型)に準拠している。
- 1960年(昭和35年)10月20日 - マイナーチェンジ。小型車規格の変更・拡大[注釈 9]に伴い、デラックスに3R型1.9 Lエンジンを搭載した1900デラックス(RS31型)が登場[19]。同時に「トヨグライド」搭載車を追加[5]。また、この時期にステアリングのホーンリングがウィンカー操作兼用の設計となっている[28]。
- 1961年(昭和36年)4月1日 - クラウン1900(スタンダード仕様、RS30型)を追加[22]。これに伴い、ディーゼル車を含む1500シリーズを全廃。事実上、同時期に追加され、R型1.5 Lエンジンを搭載した2代目コロナの1500シリーズがクラウン1500シリーズの代替車種となる。
初代クラウンの生産終了前月までの新車登録台数は15万3528台[77]。