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アルベルトゥス・マグヌス

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アルベルトゥス・マグヌスAlbertus Magnus, 1200年[1] - 1280年11月15日ケルン)は、13世紀ドイツのキリスト教司教ドミニコ会修道士神学者哲学者。大聖アルベルト(Saint Albert the Great)、ケルンのアルベルトゥスとも呼ばれる。

死没 1280年11月15日
ドイツ・ケルン
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 1622年
概要 アルベルトゥス・マグヌス, 教会博士 ...
アルベルトゥス・マグヌス
アルベルトゥス・マグヌス
教会博士
生誕 1200年
ドイツシュヴァーベン
死没 1280年11月15日
ドイツ・ケルン
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 1622年
列福決定者 グレゴリウス15世
列聖日 1932年
列聖場所 イタリア・ヴァチカン
列聖決定者 ピウス11世
記念日 11月15日
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アリストテレスの著作に関する広範な注釈や、錬金術の実践と検証の試みなど、人文学自然科学工学を含む多岐にわたる分野において業績を残した。

カトリックの聖人であり(祝日は11月15日)、幅広い学術的な功績から、普遍博士・全科博士(doctor universalis)と称される。トマス・アクィナスの師としても知られる。教会博士の称号を有し、1941年には教皇ピウス12世により自然科学の守護聖人とされた。

生涯

アルベルトゥスの生年は明らかになっていない。1280年の没年と、ルイス・デ・ヴァラドリード(1414年、パリ)による「約87年の生涯を終えた」という記述から1193年頃とする説がある。一方、1355年頃成立のハインリヒ・フォン・ヘルフォルトの年代記には、1223年頃にアルベルトゥスが「16歳の少年」として修道会に入ったと記されており、これに基づき1206年または1207年とする説もある。いずれも決定的な根拠を欠き、生年は1200年頃、あるいはそれ以前と推定されるにとどまる。

ラウインゲンにある生誕の地と推測される場所の記念名盤

ドイツのシュヴァーベン地方ラウインゲンに生まれる。出自については貴族の子弟とも騎士階級の出ともいわれるが、1222年にヴェネチアおよびパドヴァで叔父と暮らしていたという記録が最古の情報であり、1223年パドヴァ大学に進み、自由七科に加えて医学を学んだと考えられている。同年ドミニコ会に入会、ケルンのシュトルクガッセにある修道院で修養を積み、司祭に叙階された。

その後、ドミニコ会の学校で研究と講義に従事し、1236年から1238年までフライブルクの修道院学校で講師を務めた。1237年、ドミニコ会の指導者であった、ザクセンの聖ヨルダンの死去に伴う総会において、ドイツ側から後継者として推薦されたが、選出には至らなかった。

ケルン大学内にあるアルベルトゥス・マグヌスの記念碑

1243年から約5年間、パリ大学に留学。1245年に神学修士号を取得し、その後3年間にわたり教鞭を執った。この時期にアリストテレスやユダヤ・アラビア哲学の研究を行い、イタリア人学生であったトマス・アクィナスの指導を行った。1248年にケルンへ戻り、後のケルン大学の前身となる修道会総合学校の創設に関与した。

1254年から1257年にかけて、ドミニコ会テウトニカ管区長を務め、この間は教職を離れて管区内の40の修道院をほぼ徒歩だけで巡回したとされる。1260年にはレーゲンスブルク司教に選出され叙階された。当時の教区は多額の負債を抱えており、庶民のような紐靴を履いて旅をするような質素な生活を送ったことから「Bundschuh(紐靴)の司教」と呼ばれた。

1264年以降は教壇に復帰し、ヴュルツブルクストラスブール、ケルンなどで活動した。1269年頃にはケルンの聖十字架ドミニコ会修道院に移り、以後は死去まで同地で過ごした。1274年第2リヨン公会議に参加したり、1977年にパリ司教によってトマス・アクィナス(1974年に死去)の学説が異端宣告を受けた際には、徒歩でパリに赴いてこれを擁護した。

1280年11月15日、ケルンで死去。遺体はケルンの聖アンドリュー教会に葬られ、1954年以降はドミニコ会の地下聖堂に安置されている。

思想

ヨース・ファン・ワッセンホフによるアルベルトゥス・マグヌス像

アルベルトゥスの思想の特徴はアリストテレス思想の受けいれに対して積極的だったことにある。この点で、同時代のボナヴェントゥラなどのフランシスコ会学派の思想の潮流とは対照をなす。ただ、アヴェロエスなどアラブの学者の注釈の翻訳から主に学んだため、アルベルトゥスのアリストテレス理解には、プラトン思想が混入している部分がある。

アリストテレスの注解書のほか、『被造物についての大全』(Summa de creaturis)をあらわし、自然の観察に基づく自然学を推し進めた。また神学においては、アリストテレス思想に基づく思弁とともに、偽ディオニシウス・アレオパギタへの注解書を書き、ドイツ神秘主義へ影響を与えた。またアルベルトゥスの弟子たちを「アルベルトゥス学派」と呼ぶ研究者もいる。

錬金術

『鉱物書』において、マグヌス自身で錬金術をおこなったが、金・銀に似たものができるにすぎないと述べられている。

『錬金術に関する小冊子』では自分で実験したことのみを記し、金と銀の製法とできた金属についてふれている。

また1250年に著作にヒ素について言及し、その発見者とされる。

一方で、アルベルトゥスが、人語を話す人形を製造し、自らの身の回りの世話をさせていたが、それを気味悪がったトマス・アクィナスによって破壊された、真冬の屋外に初夏のような気温と果実が実った木々がしげる空間を作って来客をもてなした、というような、真偽が疑われる後世の創作と思われる逸話も多く残る。なお、チェンバーズによる百科事典サイクロペディア(1728年初版)には、アルベルトゥスが後にオートマトン(英: automaton、自動人形)と呼ばれる人造人間を作ったとされる記載がある。

顕彰

アルベルタ・マグナの花
  • ドイツ国内には、アルベルトゥス・マグヌスの名前を冠した聖堂などの教会施設や、小学校、中等学校、高校が複数存在する。
  • フライムート・ベルンゲンが発見した小惑星20006は、2001年に『アルベルトゥス・マグヌス』と名付けられた。
  • 植物学者で歴史家のエルンスト・マイヤーは、1838年に、彼が命名権を持ったアフリカ南東部にのみ生息するアカネ科の植物(俗称ナタール・フレイム・ブッシュ)の正式名を「アルベルタ・マグナ」と名付けた。
ヨーロッパ切手「重要なドイツ人シリーズ」に含まれるアルベルトゥスの切手
  • ヨーロッパ切手の1961年9月18日付の「重要なドイツ人」シリーズ、1980年5月8日に発行された「重要人物」シリーズのモデルに選ばれた。

著作

  • 『植物について』(De vegetabilibus
  • 『動物について』(De animalibus)全26巻(第19巻まではアリストテレスの注釈書)

脚注

関連項目

外部リンク

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