ドラゴスラヴ・ミトリノヴィッチ
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ドラゴスラヴ・ミトリノヴィッチ | |
|---|---|
| Драгослав Митриновић | |
| 生誕 |
1908年6月23日 セルビア王国、スメデレヴォ |
| 死没 |
1995年4月2日(86歳没) セルビア、ベオグラード |
| 研究分野 | 数学 |
| 研究機関 | |
| 出身校 | ベオグラード大学 |
| 博士課程指導教員 | ミハイロ・ペトロヴィッチ |
| 博士課程指導学生 | |
| プロジェクト:人物伝 | |
ドラゴスラヴ・ミトリノヴィッチ(セルビア語: Dragoslav Mitrinović, Драгослав Митриновић、1908年6月23日 – 1995年4月2日 )は、セルビアの数学者である。微分方程式、関数方程式、不等式の研究で知られる。約300本の科学論文、12本以上の書籍を著した[1]。
スメデレヴォに生まれ、プリシュティナとヴラニェで学んだ。1932年にベオグラード大学哲学部を卒業し[1]、1933年にミハイロ・ペトロヴィッチのもとでPh.D.を取得した[2]。
その後しばらく中等学校で働き、1946年からパリ大学に滞在した。次にマケドニアのスコピエ大学の学部で教鞭を執り、また2つの学術雑誌を創刊した。更に、マケドニア科学芸術アカデミーの会員に選出された[1]。1951年から1978年までベオグラード大学電気工学部で働いた。その間の1953年、数学科長に任命された。またベオグラードで関数方程式、微分方程式・不等式の学派を開設した。1965年から1975年まで、ニシュ大学数学科長を務めた[1]。
ミトリノヴィッチはアメリカ数学会とフランス数学会と提携した。セルビア科学会、セルビア数学者・物理学者会創立者の一人であった。また、マケドニア数学者・物理学者会会長、連邦の科学研究調整評議会の数学委員会委員長を務めた[1]。
研究
微分方程式
微分方程式の研究においてミトリノヴィッチはペトロヴィッチ・アラスから大いに影響を受けた[3]。Jovan Kečkić はこの分野におけるミトリノヴィッチの貢献をリッカチ方程式、不定微分方程式など5つに分類した[4]。Kečkić の分類の1つに微分方程式 の研究がある。ミトリノヴィッチは式を標準形から元の式 に変形し、解くことのできる条件を調べた。
関数方程式
関数方程式におけるミトリノヴィッチの最初の論文はダンジョワの提出により、1953年に Comptes rendus hebdomadaires des séances de l'Académie des sciences 誌に掲載された[5]。また、1960年に発表した書籍『Zbornik matematickih problema』はベオグラードの関数方程式学派の発展に貢献した。1964年、上述の雑誌に発表された論文において2項関数に関する次の関数方程式を研究した[3][6]。 aは複素数、L:S → Sは周期n (> p)の作用素(Sは空でない集合)で、pは自然数とする。ミトリノヴィッチはこの方程式の一般解が であることを発見した。ただし、an/d = 1かつgcd(n, p) = dである。この条件が満たされないならば、方程式は自明な解しか持たない。
不等式
ミトリノヴィッチは不等式について
Nema jednakosti, čak ni u ljudskom životu. Postoje samo nejednakosti!
と述べている。扱った不等式は幾何学、解析学、平均、極値に関わるものなど多岐に渡る。モノグラフ Analytic Inequalities [7]は今日最も引用されている数学書の一つで、中国語にも翻訳された[3]。ミトリノヴィッチの発見した不等式には次のようなものがある[8]。三角形の3つの内角A, B, Cについて、 ミトリノヴィッチ=アダモヴィッチ不等式[9]は、D.D. アダモヴィッチ[10]とミトリノヴィッチの名を冠する不等式である[11][12]。x ∈ (0, π/2)において