盧泰愚
韓国の政治家、軍人、第13代大韓民国大統領 (1932-2021)
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盧 泰愚(ノ・テウ、ろ たいぐ、韓国語: 노태우、1932年〈昭和7年〉8月17日 - 2021年10月26日[1])は、大韓民国の軍人、政治家。第13代大統領(在任: 1988年 - 1993年)。
姜英勲(1988年12月16日 - 1990年12月26日)
盧在鳳(1991年1月23日 - 5月23日)
鄭元植(1991年7月8日 - 1992年10月7日)
玄勝鍾(1992年10月8日 - 1993年2月24日)
| 盧 泰愚 노태우 | |
大統領公式肖像(1988年撮影) | |
| 任期 | 1988年2月25日 – 1993年2月24日 |
|---|---|
| 首相 | 李賢宰(1988年3月2日 - 12月4日) 姜英勲(1988年12月16日 - 1990年12月26日) 盧在鳳(1991年1月23日 - 5月23日) 鄭元植(1991年7月8日 - 1992年10月7日) 玄勝鍾(1992年10月8日 - 1993年2月24日) |
| 任期 | 1982年4月28日 – 1983年7月6日 |
| 大統領 | 全斗煥 |
| 内閣 | 劉彰順内閣 金相浹内閣 |
| 任期 | 1982年3月20日 – 1982年4月28日 |
| 大統領 | 全斗煥 |
| 内閣 | 劉彰順内閣 |
| 任期 | 1985年4月11日 – 1987年12月20日 |
| 選挙区 | 比例区 |
| 出生 | 1932年8月17日 (現・ |
| 死去 | 2021年10月26日(89歳没) |
| 政党 | (民主正義党→) (民主自由党→) 無所属 |
| 受賞 | |
| 出身校 | 陸軍士官学校 |
| 配偶者 | 金玉淑 |
| 子女 | 盧素英 (1961年3月 - ) 盧載憲 (1965年11月 - ) |
| 宗教 | 仏教→キリスト教カトリック |
| 署名 | |
同国最後の軍人出身の大統領であり、軍での最終階級は大将。第12代国会議員[2]。軍内私組織ハナフェ[3]の一員。本貫は交河盧氏(祖籍は山東省[4])。号は「庸堂」(ヨンダン、용당)。仏教徒[2]。
概説
1932年8月17日、日本領朝鮮大邱で生まれた。朝鮮戦争勃発に伴い入隊し、陸軍士官学校で全斗煥と同期(11期)だった[5]。卒業後は第9空輸特戦旅団長・第9歩兵師団長などを歴任する。この間、全斗煥らとハナフェ(ハナ会・一心会)を結成した。
第9師団長在任中(階級は陸軍少将)の1979年12月12日に、全斗煥らハナフェのメンバーとともに粛軍クーデターを起こす。この際に米韓連合司令部の同意なしに第9師団第29連隊をソウルに展開させたことで、粛軍クーデター成功の一翼を担った。
クーデター後は解任された張泰玩陸軍少将の後任として首都警備司令官に就任した後、中将に昇進して国軍保安司令官を務めた。1981年に陸軍大将に昇進後、文民になるため退役(予備役編入)。政務第二長官を経て体育相・組織委員長としてソウルオリンピックの実務全般を取り仕切った。
1982年に当時の警察トップである内務部長官に就任した。これは同年発生した禹範坤による大量殺人事件の発生直後に当時の徐廷和内務部長官が辞職した(実際は初動対応の遅さが原因で被害を拡大させたことに絡めて就任間もない劉彰順内閣や全斗煥大統領の政権運営批判に及ぶことを恐れたことによる事実上の解任)ことに伴って急遽就任したものだった。この人事によって盧は政界への足がかりを掴むことに成功した。
1987年6月10日、与党・民主正義党(民正党)の大統領候補指名大会が蚕室体育館で開かれ、盧泰愚が大統領候補に選出された[6]。そしてこの日から、軍部独裁を糾弾し民主化を要求する市民のデモは本格化した(6月民主抗争)。6月29日、全斗煥大統領は時局収拾のために盧泰愚をして、大統領直接選挙制の導入と反体制派政治家・政治活動家の赦免・復権を骨子とする政治宣言を発表させた(6・29民主化宣言)[7][8]。
同年12月16日、1971年大韓民国大統領選挙以来16年ぶりに行われた民主的選挙で民主正義党から立候補し、文民出身候補の票が金泳三・金大中の2人に分散したため、韓国大統領に当選した。選挙の際には「普通の人」というキャッチフレーズを掲げ、親しみやすさと自身の耳の大きさ(韓国では話を聞く人は耳が大きいとされる)を前面に押し出し、朴正煕政権から続いていた軍人出身大統領と異なる印象を国民に持たせることに成功した。翌1988年2月25日に第13代大韓民国大統領に就任した[9][10]。
大統領就任後、前大統領であった全斗煥政権時代の不正容疑を徹底追及する一方で、与党・民主正義党が大統領就任直後の第13代総選挙で敗北して「与小野大」国会となると、事態を打開すべく激しく対立していた金泳三・金鍾泌を「三党合同」によって与党に取り込み民主自由党を発足させるなど国政の安定を図った。
外交面ではマルタ会談での冷戦終結を受けて「北方外交」を提唱して共産圏との関係改善に乗り出し、1990年にソビエト連邦、1992年には中華人民共和国(中韓国交正常化)と国交を樹立した。なお、中国との国交樹立により韓国は中華民国(台湾)とアジアで最後に断交した国となった。
対日関係では1990年に民主化後の大統領として初めて来日し、当時の平成の天皇や海部俊樹首相と会談した。但しこの際の共同声明の内容に対し、自民党内から批判の声が上がった(詳細は小沢一郎を参照)。また従軍慰安婦問題を対日遡上に乗せた初の大統領である。翌年海部が訪韓し盧泰愚と会談。その席で、懸案であった在日韓国人の指紋押捺廃止を要求し、後に実施された。
朝鮮統一問題では、1991年9月17日には朝鮮民主主義人民共和国との国際連合南北同時加盟を実現し、同1991年12月13日に南北基本合意書を締結している。
1993年2月24日の大統領退任後、1995年に政治資金隠匿が発覚し拘束された。一審で無期懲役の判決を受け1995年11月16日にソウル拘置所に収監された[11][12]。
1995年12月21日、盧泰愚は軍刑法上反乱首謀などの容疑で起訴された。その後粛軍クーデター・光州事件でも再捜査を求める世論が起こり、金泳三大統領は後粛軍クーデターと光州事件の再捜査を指示。盧泰愚は光州事件(5・18内乱事件)について1996年1月3日に追起訴された。裁判はその後、秘密資金事件の公判を含めて1996年8月1日まで計33回開かれ、同年8月26日、1審裁判部は盧泰愚に対し懲役22年6カ月と追徴金2838億9600万ウォンを言い渡した[13]。
1997年4月17日、最高裁判所は懲役17年、追徴金2688億ウォンを宣告[14][15]。1997年12月22日、金泳三大統領によって特別赦免された[13][16][17]。
2012年6月、大統領在任中に作った秘密政治資金の一部を、長男の妻の父親に預けたとして、検察に捜査を依頼した[18]。
2012年12月12日、不正蓄財や追徴金未納などに不満を抱いた男(2007年に三田渡碑に落書きをした男と同一人物。2016年には朴正煕元大統領の生家にも放火し逮捕されている[19])によって大邱市内の生家が放火された。シンナー2リットルを撒いてライターで火を付けられたが、床やテレビ、ドアの一部を焼いただけで直ぐに鎮火した。後に逮捕された男には懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決が言い渡された。
2013年9月、未納となっていた追徴金230億ウォンについて、親族が代納すると発表した。この後、同じく追徴金の未納があった全斗煥元大統領側も、完済を発表した。
2000年代に入ってからは健康状態が悪化しており(2000年代半ば時点で、外部活動には滅多に姿を現さなかった)、2002年に前立腺がんの手術を受け、小脳萎縮症も患うなど、晩年期は闘病生活になっていた。2010年代の時点ではほぼ入院生活で、加えて言葉もきちんと話すことが出来ないなど健康状態が悪化した。また外部活動に出る事はなかったが、息子を通じ光州事件に対する謝罪を表明し、毎年光州墓地を代理参拝させた。
2021年10月26日、入院先のソウル特別市内の病院にて88歳で死去[20][21][22][23][24]。遺言で「在任中の出来事で責任や過ちがあったなら、寛大な許しを願う。歴史の悪い面は全て背負っていく」と述べていたという。このような反省の姿勢を考慮したのか、10月27日、韓国文在寅政権は葬儀を国家葬として営むと決めた[25]。一方で、光州事件への関与を巡って世論の評価は分かれており、光州広域市など一部自治体は、弔旗掲揚を拒否した。
なお、全斗煥元大統領も1ヶ月後に死去するが、こちらは結局反省の姿勢をきちんと示さなかったことが影響し、大統領経験者としては初めて国葬が見送られた他、葬儀への政府レベルでの支援は行われず、政治家と一般市民の弔文も非常に少なかった。国立墓地への埋葬も見送られている。
2021年10月30日、国葬に当たる国家葬がソウル市・松坡区のオリンピック公園の平和の広場で行われた[26]。告別式終了後にソウル追悼公園で火葬され、臨時安置された後に京畿道坡州市炭縣面にある統一東山[27]内の「同和敬慕公園」に埋葬された。
来歴

- 大邱にて出生。
- 大邱公立工業学校に入学後、4年時に慶北高校に転校[28]。
- 陸軍士官学校入学(11期)
- 1956年 - 歩兵小隊長
- 1960年 - 軍事情報大学 英語翻訳将校
- 1961年 - 防諜部隊 情報将校
- 1967年 - 歩兵大隊長、ベトナム戦争へ派遣され武功勲章を受ける
- 1971年 - 第8歩兵師団第21連隊長[29]
- 1974年 - 空輸特戦旅団長
- 1978年 - 大統領警護室 作戦次長補
- 1979年 - 首都警備司令官
- 1979年 - 第9師団長
- 1980年 - 陸軍中将、保安司令官
- 1981年 - 予備役編入(大将)、政務第2長官
- 1982年 - 初代体育部 長官、南北韓高位会談 首席代表、内務長官
- 1983年 - ソウルオリンピック組織委員会 (SLOOC) 委員長、ソウルアジア競技大会組織委員会 (SAGOC) 委員長
- 1984年 - 大韓体育会長 兼 大韓オリンピック委員会 委員長
- 1985年 - 第12代 国会議員(全国区、民正党)、民正党 代表委員
- 1987年 - 民正党 大統領候補、民正党 総裁、1987年大韓民国大統領選挙に勝利
- 1988年 - 第13代大統領就任
- 1990年 - 大韓航空機爆破事件実行犯の金賢姫死刑囚に対し、特赦の決定を下す
- 1993年 - 第13代大統領退任
- 1995年 - 大統領在任中の不正蓄財とかつての粛軍クーデター・光州事件の追及を受け懲役刑
- 1997年 - 特赦を受ける
- 2021年 - 88歳にて死去
