6月民主抗争
1987年の韓国民主主義運動
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概要
朴鍾哲の死
1987年1月12日、全斗煥大統領は「新年国政演説」で「合意改憲がなされぬ場合は、重大決断を下す」と発言した[1]。大統領の直接選挙制を実現するための憲法改正を求める市民の声は日増しに強くなってきたが、全大統領は直接選挙制改憲に対しては拒否する姿勢を崩さなかった。
同年1月14日午前6時40分、治安本部の刑事らはソウルの新林洞にあるソウル大学校学生の朴鍾哲(パク・チョンチョル)の下宿に踏み込み、朴を連行した。午前8時に朴を乗せた車は南営洞対共分室に到着した[2]。朴鍾哲は水責めの拷問の際に窒息し、同日午前11時に死亡した[注 1]。同月15日、当時夕刊紙だった中央日報が社会面に「警察で調査を受けた大学生、ショック死」という見出しの記事を掲載し、朴鍾哲の名前と在籍校を明かした[3][4]。同月19日、東亜日報が朝刊一面に「水拷問途中に窒息死」と見出しを掲げ、死亡原因を明らかにした[5]。同日、警察は事実と認めるが、現場検証もせずに、関与した警察官のうち2人のみを逮捕し事件の沈静化を図った[6]。
4月13日、全斗煥は「今年度中の憲法改正論議の中止」と「現行憲法に基づく次期大統領の選出と政権移譲」を主旨とする所謂「4・13護憲措置」を発表した。現行憲法に規定された選挙人団選挙[注 2]による間接選挙で次期大統領を選出することを明らかにした。年初の「国政演説」に基づく「新護憲論」を現実化した[7]。これを受けて民主統一民衆運動連合(民統連)は声明を発表し、「現政権は民主化にはなんら関心がなく、民主勢力への弾圧と野党分裂工作が失敗するや否や、執権延長陰謀をあらわにした」と全を糾弾した。そのほか、大韓弁護士教会、全国牧会者正義平和実践協議会、韓国キリスト教教会協議会なども抗議声明を発表した。4月21日に光州大教区所属の神父が断食祈禱を始めたのを契機に、5月4日までに9か所で神父163人、牧師36人が断食闘争を継続した。4月22日、高麗大学校教授30名は「改憲問題に関するわれわれの見解」を発表した[7][8]。
5・3仁川事態で逮捕され、投獄中だった元東亜日報記者の李富榮(イ・ブヨン)は刑務所の中で、刑務官から、朴鍾哲の拷問致死事件における逮捕者はでっち上げによるものだとの情報を得た[9][10]。李富榮はこれを外部に知らせようとしたが、野党などはことがあまりに重大であったために発表をためらった[8]。
5月18日、「光州民主化運動7周年追悼ミサ」がソウル明洞聖堂で開かれた。追悼ミサのあと、天主教正義具現全国司祭団の金勝勲(キム・スンフン)神父は「朴鍾哲君の拷問致死事件の真犯人は別にあります」と語り始めた。直接拷問を行った刑事がほかに3人いることを明かし、これを隠蔽した治安本部の幹部4人の名前を暴露した[11][8]。
5月23日、桂勲梯、朴烔圭、宋建鎬ら民主運動家134人は「朴鍾哲拷問殺人隠蔽汎糾弾国民主大会準備委員会」を結成。6月10日に糾弾大会を開催すると宣言[12]。
5月26日、全斗煥は内閣を大幅に改造。国務総理を盧信永から李漢基に、国家安全企画部長を張世東から安武赫に、法務長官を金聖基から丁海昌に、検察総長を徐東権から李種南に挿げ替えた[12]。
「国民運動本部」結成
5月27日、野党も含む広範な反政府勢力を結集した「民主憲法争取国民運動本部」(以下、国民運動本部)が結成された。これにより4・13護憲措置撤廃、大統領の直接選挙制改憲を最大要求に掲げることで国民の支持を広げることが出来た。
5月29日、朴鍾哲殺害事件に関与した治安本部治安監の朴處源(パク・チョウォン)、劉井邦警正ら幹部3人が拘束された[12]。
6月1日、国民運動本部は「朴鍾哲拷問殺人隠蔽糾弾および護憲撤廃国民大会」を6月10日18時にソウル聖公会聖堂をはじめ大都市で同時に行うと正式発表した[12]。
李韓烈の死
6月9日、延世大学校経営学科2年生の李韓烈(イ・ハニョル、当時20歳)が戦闘警察が放った催涙弾の直撃を受けて重体となる事件が発生した。催涙弾を後頭部に受けた直後の李韓烈と李を抱きかかえるイ・ジョンチャンの姿をロイターの特派員だったチョン・テウォンがカメラに収めた。同日18時30分、ロイターは「学生一人死亡」というキャプションをつけて写真を配信した。翌10日、当時夕刊紙だった中央日報が1面に写真を掲載した。この写真は運動の起爆剤となり、また韓国の民主化闘争のシンボルともなった[13][14]。李は約1か月間死線をさまよい、7月5日に死亡した。
6・10デモ
6月10日、与党・民主正義党(民正党)の大統領候補指名大会が蚕室体育館で開かれ、盧泰愚が大統領候補に選出された[8]。
同日、国民運動本部は「朴鍾哲君拷問殺害の捏造・隠蔽糾弾と護憲撤廃国民大会」を開催した。政府側は6万名余りの武装警察官を動員して会場を封鎖、国民運動本部の幹部を自宅軟禁にするなどして妨害したが、全国18都市でデモが発生、ソウル市中心部の明洞では警察に追われたデモ隊が明洞聖堂に籠城(15日まで)し、大学生やサラリーマンによる支援デモが聖堂の外で繰り広げられた。催涙弾の乱射に対する抗議デモが全国各都市に拡大すると、国民運動本部は18日を「催涙弾追放の日」として大々的に運動を展開し、全国14都市で24万名がデモに参加、ソウル市では戦闘警察の一部が武装解除され、釜山でも市中心部の幹線道路が約4キロ余りにわたってデモ隊に占拠された。そして翌19日には全国79大学でデモが発生、20日夜には光州で20万人以上が参加するなど、デモは全国各都市に拡大した。
「6・26デモ」と「6・29宣言」

民主化要求デモが空前の盛り上がりを見せる中、(政権による)戒厳令の布告と軍出動の噂が飛び交った。その最中の6月20日、国民運動本部は声明を発表し、
- 4・13護憲措置の撤廃
- 6・10大会拘束者と良心囚(政治・思想犯)の釈放
- 集会・デモ・言論の自由保障
- 催涙弾使用の中止
などを求めた。そして、これらの要求が受け入れられない場合は、「国民平和大行進」を決行することも明らかにした。同月24日、全斗煥大統領と金泳三統一民主党総裁による会談が行われたものの具体的な成果がなかったことを受け、国民運動本部は26日、平和大行進を敢行した。官憲による実力阻止が行われたにもかかわらず、全国33都市と4郡で少なく見積もっても20万名以上(警察発表は5万8千名、国民運動本部の推算では180万名)が参加し、デモが行われた。この日の行われたデモでは、全国で3,467名が連行、警察署2箇所と派出所29箇所、民正党地区党舎4箇所、市庁舎4箇所、警察車両20台が火焔瓶で燃やされたり、破損するなどの被害を受けた。
6月29日朝、全斗煥政権は、民正党大統領候補の盧泰愚をして時局収拾案、いわゆる「6・29宣言」を発表させた[15][16]。起草作業に当たったのは安全企画部の部長特別補佐官の朴哲彦(パク・チョルオン)だった[17]。この宣言において、大統領の直接選挙制会見を行うことと、金大中の赦免・復権など民主化措置を実行することを表明するに至った。7月1日に全斗煥が盧泰愚の収拾案を受諾するという形がとられ、大統領直接選挙制を軸とする民主化が実現される運びとなった[18][17]。
7月6日、政府は「6・10デモ」以後の拘束者201人中、177人を釈放した。同月8日、刑が確定して服役中だった政治犯443人中、357人を仮釈放もしくは刑執行停止で釈放した。同月9日、金大中ら2335人の赦免・復権を発表した[19][20][15]。8日に仮釈放された文益煥は翌9日に行われた「故李韓烈烈士民主国民葬」に出席し、民主化闘争で犠牲になった25人の烈士の名を一人一人読み上げた[21][22]。
金泳三を中心とする統一民主党と与党の民正党は7月末から9月中旬にかけて共同して憲法改正案を策定した[15]。大統領直接選挙制導入を軸とする改憲案は10月12日に国会を通過、同月27日に行われた国民投票で9割以上の賛成を得て、確定し29日に第六共和国憲法が公布された[15]。
「6月抗争」成功の背景
6月民主抗争の結果、政権与党側の「6・29宣言」を引き出すことに成功し民主化が実現された大きな理由は、学生運動圏と在野勢力人士、野党圏が民主大連合という大きな枠組みの下、一致結束して民主化運動を戦ったことにある。従来、学生運動圏と野党勢力は、方針を巡って対立や葛藤することもあったが、6月抗争では運動の司令塔的存在である国民運動本部に学生が歩調を合わせたことで組織的な運動を大規模に展開することが可能になった。同時に、この6月抗争ではそれまで学生や在野の知識人が主体となっていたデモにサラリーマンや商店主など各界各層の一般市民が多数参加しており、民主化要求が幅広い国民の要求となっていることを示すのに大きな効果があったといえる。
一方の全斗煥政権も翌年にソウルオリンピックを控え、強硬措置を執ることが困難になっていた上、政権の後ろ盾となっていたアメリカもレーガン大統領が親書を送って戒厳令宣布に反対すると共に民主化を促進するよう促したことも、大きな影響を与えた。加えて政権の主要支持基盤の一つでもある軍内部でも強硬措置に反対する意見も出ていた。当時軍の主流派は全斗煥などが軍時代に結成した秘密組織「ハナフェ」のメンバーが占めていたが、ハナフェのメンバーである陸軍特殊戦司令官の閔丙敦中将は「光州事件のようなことがソウルで起きれば国が破滅する」として、同じくハナフェメンバーで国軍保安司令官の高明昇中将と共に戒厳令布告・強硬鎮圧に反対すると共に、もし政権側が強硬措置撤回を拒否した場合に備えて大統領官邸を制圧するクーデター計画を立案していた[注 3]。
加えて、政権与党側が反政府勢力側に譲歩する形で「6・29宣言」を発表したことで、1960年の4月革命の時とは異なり「新軍部」勢力が民主化後も政治勢力(政党)の一員として参加することが可能となっただけでなく、権威主義政権から民主主義体制へのスムーズな進展を可能としたことも指摘できる[要出典]。