ハンス=ルドルフ・レーズィンク
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海軍(ライヒスマリーネ)での軍歴
海軍(クリークスマリーネ)での軍歴と第2次世界大戦
2年をSボート、「S-15」および「S-3」の艦長として過ごした後、レーズィンクは1933年10月に潜水艦防衛学校(U-Boot-Abwehrschule)へ転属した。最初に指揮を託されたのは1935年の9月で、艦は新造の「U 11」であった。任に就いていたのは2年間である。1937年の初め、彼は「U 35」の艦長としてポンタ・デルガダ(アゾレス諸島)への哨戒に出た。同年10月にはエッカーンフェルデ (Eckernförde) の魚雷試験場に勤務している。そこには1年間、在任した。1938年12月、第5潜水隊群司令に任じられる。後の1940年1月、第7潜水戦隊の指揮を託される1週間前は潜水艦隊司令長官 (de:Befehlshaber der Unterseeboote) 付きの担当官として勤務していた。続いて病気に罹っていたヘルベルト・シュルツェ (Herbert Schultze) 大尉に代わり、「U 48」の艦長となっている。 レーズィンクは同艦で55日間の間に2回の哨戒をこなした[3]。そして2回目の哨戒から帰還すると、騎士鉄十字章を授かった。
1940年9月から1941年2月まで、レーズィンクはドイツ海軍の連絡将校として、ボルドーに展開するイタリア海軍の潜水戦隊に勤務する。同年3月から8月にかけて、数か月にわたり潜水艦隊司令長官[4]の参謀本部に中央部の部長として赴任した後、再び第3潜水戦隊の指揮を託された。1942年7月に西部潜水艦隊司令 (Führer der U-Boote) [5]に就任し、フランス沿岸に配備された全てのUボートに責任を持つ立場となった。1944年の秋にはノルウェーに移ったものの[3]、同職に留まっている。 そしてドイツの降伏後、1年以上を連合国の捕虜として過ごした。
戦後とドイツ連邦海軍での軍歴
戦後、レーズィンクはドイツの海上戦争の経験をアメリカ合衆国の依頼でまとめあげる海軍戦史班 (Naval Historical Team) に一時的に協力した。1952年以降、ドイツ連邦共和国連邦国防省の前身組織となったブランク機関 (de:Amt Blank) に勤務した後、4年後に新設されたドイツ連邦海軍に入隊する。早くも1年後には准将 (de:Flottillenadmiral) の階級とともに北海管区司令部(Marine-Abschnittkommando Nordsee)の司令官に就任した。同職に4年以上留まった後、少将に昇進する前の1962年4月から年金を支給されて退役するまでの間、彼はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン地区司令部 (de:Territorialkommando Schleswig-Holstein) の司令としても勤務している。その軍歴を終えたのは、1965年9月のことであった。戦後の功績を報われ、レーズィンクは翌年、ドイツ連邦共和国功労勲章の大十字章を授かっている。
その他の活動
彼は多年にわたり船長として勤めていた、ドイツ海上スポーツ協会ハンザ (de:Deutscher Hochseesportverband HANSA) の最古参メンバーだった[6]。1970年代の初め、マホガニー製のスループ、「ヴァッペン・フォン・ハンブルク」をエルベ川からエルバ島にある同協会のヨットスクールに回航した後、そこで校長代理を務めた。
96歳となった2001年、ゼバスティアン・デーンハルト (de:Sebastian Dehnhardt) 監督と記者のグイド・クノップによるドキュメンタリー番組、『Der Jahrhundertkrieg: Tödliche Falle(世紀の戦争:死の罠)』に同時代の証人として協力している[7]。
レーズィンクは英語、フランス語およびイタリア語の翻訳者としてもデリウス・クラーズィンク出版社 (de:Delius Klasing Verlag) およびエディツィオーン・マリティーム出版社(Edition Maritim)で働いていた。他にも『Das kleine Buch vom Wassersport(ウォータースポーツの小冊子)』や『Kriegskunst in unserer Zeit(我らの時代の戦術)』といった著作を著している[6]。