バイエルン自由運動

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バイエルン自由運動ドイツ語: Freiheitsaktion Bayern, FAB)は、第二次世界大戦末期の南バイエルンドイツ語版において、降伏を目的として活動した反ナチ運動グループである。1945年4月27日から28日未明にかけて、ミュンヘンにて440人ほどの兵士が蜂起した。蜂起自体は失敗に終わったが、この際にラジオを通じて周辺住民への呼びかけを行った。その後、およそ990人、合計79のグループが南バイエルン各地で白旗の掲揚、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)当局者の逮捕、対戦車障害物の撤去といった行動を起こした。特にエスカレートした21件において58人が死亡した。この反乱の弾圧は、いわゆる終戦期犯罪ドイツ語版(Endphaseverbrechen)の1つと見なされている。

バイエルンの縞旗

1945年4月末の時点で、ドイツの敗戦は目前に迫っていた。ベルリンの戦いの戦いは激しさを増し、北ドイツ、クールラント、大西洋の壁、さらにはスロベニアからズデーテン地方に至る戦線の各地においても戦闘が生じていた。アメリカ軍およびフランス軍はバイエルンの残る部分の占領を目指していた。一方、ナチ当局のプロパガンダにおいては、南バイエルンおよびオーストリアにアルプス国家要塞が築かれつつあると主張されていた。こうした状況の元、ミュンヘンのザール兵舎に駐屯する第7軍管区通訳中隊長ルプレヒト・ゲルングロスドイツ語版大尉に率いられた一団は、さらなる流血を防ぐべくバイエルンの住民に降伏を訴えかけることを決めた。彼らはこの試みをバイエルン自由運動と称した。

目的

イスマニングのラジオ局を占拠した後、ゲルングロスが発表したところによれば、FABは以下の目的を掲げていた。

  1. 軍国主義および国民社会主義の終焉
  2. 福祉国家の樹立
  3. 報道の自由および集会の自由の段階的回復

また、ゲルングロスの声明以外でも同様の目的が示唆されていた。

反乱の推移

グリューンヴァルトの市庁舎にあるトーマス・マックスの記念碑

4月27日夜、ゲルングロスはザール兵舎にて部隊を集結し、総統宣誓ドイツ語版忠誠宣誓)の解除を伝達した。作戦には雉狩り(Fasanenjagd)のコードネームが与えられていた。金色の組み紐の装飾を制服に用いていたことから、党幹部は「金雉」(Goldfasane)と俗称されており、作戦名はこれに由来する。

ゲルングロスはミュンヘンおよびフライジングにてさらなる同調者を探したものの、不調に終わる。当局のプロパガンダを信じている者もいれば、当局による報復を恐れている者もいた。抵抗運動組織O7ドイツ語版は、FABに同調したグループの1つである。最終的に、ゲルングロスは中波抵抗(Widerstand auf Mittelwelle)の展開を決断した。すなわち、アメリカ軍が到達した時点でラジオ局を占拠し、降伏を呼びかける放送を行う、という計画である。放送を受けて住民が徹底抗戦の無意味さを理解し、狂信的なNSDAP支持者に対しての行動を自ら起こすであろうことが期待された。

4月28日、ゲルングロスらはイスマニングドイツ語版[1]およびミュンヘン・フライマンにてミュンヘン帝国放送の放送局2箇所を占拠した。イスマニングの放送局から、ゲルングロスは敵対行為の停止を呼びかけると共に、FABの目標の宣言を行った:「緊急、緊急!こちらはバイエルン自由運動放送[...]国民社会主義者党の幹部らを排除せよ。今夜、FABが政権を掌握した( „Achtung, Achtung! Sie hören den Sender der Freiheitsaktion Bayern […] Beseitigt die Funktionäre der Nationalsozialistischen Partei. Die FAB hat heute Nacht die Regierungsgewalt erstritten.“)」

一方、バイエルン州知事フランツ・フォン・エップは蜂起への協力を躊躇していた。

翌日、ハインリヒ・ヒムラーの後任として内相に就任した大管区指導者パウル・ギースラーは、親衛隊(SS)の支援を受けつつ、数時間でFABを鎮圧した。SSおよびゲシュタポは、極めて残虐な態度でこれにあたった。ゲルングロスらは逃亡を余儀なくされ、その過程で殺害された者もいた。ゲルングロス自身と他数名は身を隠すことに成功した。鎮圧に際して、ギースラーは名前のみ空欄にされた死刑囚用の令状で1時間以内に150件ほどの死刑判決を下し、また確定させたと言われている。ただし、そのほとんどは執行されなかった[2]

連合国軍は西からバイエルンに侵攻した。アウクスブルクにおいては、アウクスブルク自由運動ドイツ語版の成功により、4月28日に戦闘を行うことなく降伏が実現した。ダッハウではダッハウ蜂起ドイツ語版が起こった。ペンツベルクでは、社民党員の元市長ハンス・ルンマードイツ語版が鉱山爆破を阻止した上にNSDAP指導下の市長の解任、強制労働者および収容者の解放を行った。その後、国防軍部隊がペンツベルクを占領し、いわゆるペンツベルクの殺しの夜ドイツ語版事件の中で16人が殺害された。

白青の縞旗(バイエルン州旗)や白旗を自宅あるいは教会に掲げた市民や聖職者は、SS隊員に加えて熱狂的なNSDAP党員らによって追求され、銃殺されたり、見せしめとして目立つ場所で絞首台に掛けられるなどした。バイエルンを進軍するアメリカ兵らは、多くの集落に白旗ではなく州旗が掲げられていることに驚いたという。

SSを始めとする当局者は、戦争遂行の妨害または義務怠慢について人々を追求した。40人以上の抵抗者がFABの呼びかけに同調し、解放のわずか数時間前に殺害されたことが知られている。例えば、ブルクハウゼンではヴァッカー工業ドイツ語版の労働者3人がSS隊員によって射殺された。後に工場の敷地内にこの3人のための追悼碑が設置された。

2011年に発表された論文は、広範な資料調査に基づき、FABに様々な形で関わった人々がおよそ1,400人いたと推定した。そのうち440人ほどがミュンヘンおよび周辺地域での中心的な行動に関与し、1,000人ほどがラジオ放送に促されて独立した行動を起こしたとされる。ミュンヘンおよびその周辺地域、ダッハウ。アルトエッティング、ペンツベルクでは、FAB構成員のうち58人が銃殺または絞首刑に処されたことが確認されている。FABの行動はその後の戦争の展開に一切の影響を及ぼさなかった[3]

記念

農務省中庭の記念碑

1947年、ファイリッツシュ広場(1933年以降はダンツィガー・フライハイトドイツ語版)は、抵抗運動を称えてミュンヘナー・フライハイトドイツ語版と改称された。

バイエルン州農務省ドイツ語版の中庭には、抵抗を理由にこの場所で処刑されたFABメンバーを称える記念碑が設置されている。1981年6月29日、マックスヴォルシュタット大学地区委員会から記念碑の設置が要請(申請番号2238)され、1982年4月28日にヨアヒム・シュモルケドイツ語版が州議会にて質問を行った。要請にあったルートヴィヒ通りに面したファサードへの設置という要件は農務相ハンス・アイゼンマンドイツ語版によって拒否された。1984年4月28日、いわゆる「飾りの中庭」に記念碑が設置された。

ただし、以下のFABメンバーについては、「飾りの中庭」ではなく、農務省から北にある農場で銃殺された。また、ハラルト・ドールンおよびハンス・クヴェッケはペルラッハの森で殺害された可能性がある[4][5]。または、農場で殺害された後、ペルラッハの森に遺棄された可能性もある:

ドルンとクヴェッケの墓
ブルクハウゼンの記念碑の一部

記念碑設置以降、農務省の受付時間中は中庭が追悼場所として一般公開されている[6]

バート・ヴィーゼーにあるハラルト・ドールンおよびハンス・クヴェッケの追悼十字架

ブルクハウゼンのヴァッカー工業の敷地内には、SSに銃殺された抵抗運動メンバー、ヤコブ・シャイベル(Jakob Scheipel)、ルートヴィヒ・シェーンドイツ語版ヨゼフ・シュテークマイヤードイツ語版の追悼碑が1946年から設置されている[7]。ブルクハウゼン市には、彼らにちなんで命名された通りがある。2013年11月には、ブルクハウゼンのドイツ統一公園に記念碑が設置された[7][8]。この記念碑には抵抗運動メンバーらの写真と1945年4月27日から28日にかけての出来事の説明が示されている。

ブルクハウゼンのヴァッカー工場敷地内には、1946年以来、SSによって銃殺されたレジスタンス運動指導者、ヤコブ・シャイペル、ルートヴィヒ・シェーン、ヨーゼフ・シュテークマイアーを追悼する記念碑が設置されている[7]。ブルクハウゼン市では、彼らの名にちなんで通りが名付けられている。2013年11月には、ブルクハウゼンのドイツ統一公園に記念碑が建立され[7][8]、レジスタンス運動の戦士たちの写真と1945年4月27日と28日の出来事の年表が展示されている。

カール・フリードリヒ・シャイトドイツ語版の名はミュンヘンのシャイト広場ドイツ語版に残るほか、バート・ヴィーゼードイツ語版にも記念碑がある[9]

グリュンヴァルトドイツ語版には、トーマス・マックス(Thomas Max)の追悼碑が彼の名を冠した通りに設置されている。彼は画家コロンボ・マックスドイツ語版の養子である。1945年4月28日、FABの蜂起に加わった際、地元の国民突撃隊指導者フリードリヒ・エーリヒャードイツ語版によって路上で射殺された[10][11]

1963年、ゲルングロスは中国でジャンク船を発注し、FABを記念して「マウ・イー ミュンヘナー・フライハイト」(Mau Yee – Münchner Freiheit)と命名した[12]

1975年、ZDFは映画『暗号名:雉狩り ミュンヘン1945』(Kennwort: Fasanenjagd München 1945)を放送した。カールハインツ・ビーバードイツ語版が監督を務め、カール=ミヒャエル・フォーグラードイツ語版がゲルングロスを、ヴェルナー・クラインドルドイツ語版がギースラーを演じた。

テレビドラマ『Löwengrube』のエピソード『Fasanenjagd』(1991年初放送)では、FABの活動が題材として取り上げられた。

2025年4月28日、バイエルン放送主催の記念行事の一環として、イスマニング送信塔で記念碑の除幕式が行われた[13]

参考文献

外部リンク

脚注

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