反ナチ運動
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ナチ党の権力掌握後の強制的同一化の進行は、反発する者を多く生み出した。ナチ党はそれに対して反対者の結社を禁止し、各地に強制収容所を設置することで、反対者に厳しい弾圧を加えた。多くの反対者は公然とした活動を行えず、彼らの勢力は地下活動や国外活動を余儀なくされ、またゲシュタポによる厳しい取り締まりにより、各組織が連携して活動することはできなかった。
ナチスによって最初に弾圧されたドイツ社会民主党やドイツ共産党は、亡命組織を作って抵抗しようとした。1933年にパリで運動を開始したドイツ社会民主党指導部(Sopade)はその一例である。
キリスト教界においては、ディートリヒ・ボンヘッファーらの告白教会が、ドイツ的キリスト者を代表とするナチス追随者に抵抗した。
ドイツ国防軍内では、ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスターを中心とする反ナチ派の将校が恭順後も残存していた。彼らの勢力は後にゲシュタポによって「黒いオーケストラ」と呼ばれた。さらにヴィルヘルム・カナリスをトップとする国防軍情報部(アプヴェーア)にも反ナチの人々が多く存在していた。また、突撃隊大将ヴォルフ=ハインリヒ・グラーフ・フォン・ヘルドルフや刑事警察長官で親衛隊中将のアルトゥール・ネーベなどのナチ党側の幹部にもヒトラー暗殺計画に関与するものがいた、カール・ゲルデラーら一部政治家も彼らと連携をとっていた。またヘルムート・イェームス・フォン・モルトケは、官僚など比較的地位が高い反ナチ的な人々を集めた会合を開いていた(クライザウ・グループ)。
オーストリア併合やズデーテン、チェコがドイツの支配を受けるようになると、それらの地域でもナチスに対する抵抗が始まった。
また、洗脳とも言えるナチス教育に反発し、ナチス的統制から逸脱するエーデルヴァイス海賊団のような青少年グループも存在した。
第二次世界大戦期
第二次世界大戦が勃発すると、反ナチ運動はさらに異なる動きを見せた。国防軍内のグループは戦争の早期終結をはかるため、1944年7月20日にヒトラー暗殺とクーデターの計画を実行した(7月20日事件)。しかし暗殺は失敗し、国防軍やクライザウ・グループ、ボンヘッファーなど多くの反ナチ運動家が捕らえられ、処刑された。そのほかにも国防軍内にはソビエト連邦に軍事情報を渡すグループが存在した(赤いオーケストラ)。ソビエト連邦の捕虜となったドイツ軍人の一部はドイツ将校同盟や自由ドイツ国民委員会を結成してドイツ国内への反ナチ宣伝を行った。
また戦時下の情勢ではナチスによる締め付けが厳しくなり、学生や青少年による反ナチ運動も起こった。ミュンヘンの学生であったハンス・ショル、ゾフィー・ショル兄妹らの「白いバラ」は反ナチのビラをまいたことによって処刑された。
弾圧
戦後ドイツにおける扱い
歴史学
最初の包括的研究であるハンス・ロートフェルスの「ヒトラーにたいするドイツ人の抵抗」(1949年)以降、反ナチ運動に関する研究は現在も続けられている。1968年の学生運動を経た世代である68世代の研究者が台頭すると、反ナチ運動を広くとらえる考えが広まった。端的に示されるのが、デトレフ・ポイケルトによる、反ナチ運動を四つの段階に分ける考え方である(1.非協力(個々の規則を侵す)、2.拒否(当局の命令を拒否する)、3.抗議(当局に明確に反対の声を上げる)、4.政治的抵抗(体制全体を拒否し、体制転覆を準備する))[1]。
