バヤン・モンケ
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バヤン・モンケ・ボルフ・ジノン(モンゴル語:Баянмөнх жонон、1452年 - 1476年)は、15世紀後半のオルドス部の領主。モンゴルの第33代ハーン(在位:1480年 - 1487年)と数えられることもあるが、これを否定する説もある(後述)。
アクバルジ・ジノンの子のハルグチュク・タイジの子で、モンゴル中興の祖として著名なダヤン・ハーンの父にあたる。しかし、ボルフ・ジノンの事績や活躍年代は史料間で錯綜しており、実際にハーンに即位したかどうかを含めて、研究者の間でも見解が分かれている。
本名がバヤン・モンケ(Bayan möngke)で、「ボルフ・ジノン(Bolqu J̌inong)」が称号である。『明実録』などの漢文史料では、前者を伯顔王、後者を孛羅、孛羅忽などと漢字表記する。また、日本語書籍ではバヤン・ムンケとも表記される[1]。
生涯
出自
各種モンゴル年代記では、ボルフ・ジノン出生の過程を以下のように語っている。タイスン・ハーンとオイラトのエセン太師が対立したとき、ハーンの弟のアクバルジ・ジノンは唆されて兄を裏切り、息子のハルグチュク・タイジとともにエセン太師の側についた。このためにタイスン・ハーンは敗れて殺されたが、兄を裏切ったアクバルジ・ジノンも殺され、エセンの娘を娶っていたハルグチュク・タイジはトクモク方面(キプチャク草原)に逃れた。その後、ハルグチュク・タイジが巻狩り中にトクモクのイェクシ・モンケという者に殺されたため、妊娠7カ月のセチェク妃子は従者のイナク・ゲレとともに、父のエセン・ハーンのもとに身を寄せた[2]。3カ月後の1452年[注釈 1]、セチェク妃子は男の子(バヤン・モンケ)を生むが、ボルジギン氏の生き残りであるとして父のエセン・ハーンがその子の命を狙うため、曽祖母のサムル公主のもとに預け、そこでバヤン・モンケと名付けてソロンガスのサンガルドルの妻のハラクチン大夫人を乳母として育てさせた[2]。
しかし、それでもエセン・ハーンは命を狙ってきたので、イナク・ゲレはオイラトのオキデイ太傅という者に頼んで、ハラチンのボライ太師、サルトールのバヤンタイ・メルゲン、フンギラトのエセレイ大夫とともに3歳のバヤン・モンケをモンゴルへ脱出させた[3]。途中、ウリヤンハン[注釈 2]のオロチュ少師という者と出会い、「自分の娘(シキル)を中宮としてバヤン・モンケ太子に娶せ、生き残ったボルジギン氏に送り届けましょう」と言って来たため、4人はバヤン・モンケを彼に託した、という[3]。
一方、オルドス地方に入る前のバヤン・モンケについては漢文史料上でほとんど言及されないが、1459年(天順3年)には「伯顔(バヤン)王」なる人物の記録が『明実録』に見える[4]。更に、同じ人物が1460年(天順4年)には孛羅・モーリハイ(毛里孩)・オロチュ(斡羅出)と行動をともにしていたと記されるが[5]、ボライとオロチュは上記の通り幼年のバヤン・モンケを助けたとされる人物であり、この「伯顔王」こそが若年のバヤン・モンケと考えられている[6]。
オルドス地方への移住
エセン・ハーンの没後、モンゴル高原南部ではハラチンのボライ太師が有力となっており、オルドス地方への進出を開始した。孛羅はモーリハイ王によって殺されてしまうが、その勢力を継承してオルドス地方を支配したのが「斡羅出」なる人物で、この人物こそバヤン・モンケの後ろ盾となったオロチュ少師に他ならない[7]。
1466年(成化2年)にモーラン・ハーンがモーリハイ王に弑逆され、1468年(成化4年)にモーリハイ王も殺されると、モンゴル高原は混乱状態に陥ってハーンが不在となってしまった[8]。この情勢下で、1470年(成化6年)中に「孛羅」なる人物が「筏を作って黄河を渡り、(オロチュは孛羅の勢力を)併せて一つの勢力となった」との報告が明朝になされた[9][10][11]。「孛羅」が誰を指すかは諸説あるが[注釈 3]、1471年(成化7年)5月には明朝に使者を派遣した「孛羅太子」が登場し[12]、その同一人物が同年7月条で「孛羅忽」と表現される[13]。更に同年10月には「孛羅忽太子」との表現も見られるため[14]、孛羅太子=孛羅忽太子こそがボルフ・ジノンと考えられている[15]。
なお、チンギス・カンの祭祀を行う「八白室」は現在のオルドス市エジンホロ旗に位置するが、八白室がこの地方に移ったのもこの時期であると考えられている。この事は考古学的研究からも裏付けられ、元朝にチンギス・カン祭祀が行われていたケルレン河流域のアウラガ遺跡では、おおよそ15世紀中ごろを最後として祭祀の形跡がなくなり、入れ替わるようにしてオルドス地方に八白室が建設される[16]。よって、この時期にボルフ・ジノンとともにオルドス地方に移住した「チンギス・カン祭祀を担う集団」こそが、オルドス部の前身であると考えられている[17]。
三者鼎立
ボルフ・ジノンがオルドス地方に入ったのとほぼ同時期、西方の天山山脈よりベグ・アルスランもこの地方に移住してきていた。ベグ・アルスランとオロチュは成化8年(1472年)正月よりオルドス地方の支配を巡って抗争を始め、同年12月には「ボルフがオロチュによって殺された」との報告が明朝になされた[18][7]。ボルフがこの時殺されたというのは明らかに誤伝であるが、これ以後オロチュは史料上に現れなくなり、ボルフはベグ・アルスランと協力関係を築き始める[7]。さらに、1473年(成化9年)5月には始めて「満都魯太子」という人物が明朝の記録に現れるが[19]、この人物こそがモンゴル年代記上の「マンドゥールン・ハーン」に相当する[7]。
こうして、オルドス地方にはボルフ・ジノン、マンドゥールン、ベグ・アルスランという三人の有力者が鼎立し、混乱状態にあったモンゴル高原はこの三者によって再統合されていった[7]。1473年9月には「マンドゥールン(満都魯)・ボルフ(孛羅忽)・ベグアルスラン(癿加思蘭)三酋」が始めて共に明朝に侵攻したとの記録があり[20][21]、10月には三者が韋州に侵攻したものの撃退されたとの記録がある[22][7]。モンゴル年代記に「(ボルフ・ジノンとマンドゥールンは)兄弟の間柄となってボロボロになった6つの万人隊(トゥメン)を収拾していった」とあるのは[23]、まさにこのころの活動を指すものと考えられている。
マンドゥールンの治世
漢文史料・モンゴル年代記は一致して1475年(成化11年)[注釈 4]にマンドゥールンがハーン位に就いたことを伝えている[24]。マンドゥールン即位の背景について、『明実録』によると「ベグ・アルスランは当初ボルフ太子に自らの娘を娶らせ、ハーン位につけようとしたが、ボルフ・ジノンがこれを譲ったため、マンドゥールンがハーン位に就いた」とされる[25]。
一方モンゴル年代記によると、オロチュ少師がバヤン・モンケ太子とシキル妃子をハーンのもとに会わせて、マンドゥールン・ハーンがバヤン・モンケにボルフ・ジノンの称号を与えたとされる[23]。しかし、上記のようにマンドゥールン即位の何年も前から「孛羅忽(ボルフ)太子」の名前は漢文史料上で見えており、「即位後のマンドゥールンがジノン号を与えた」というのは疑問視されている。
いずれにせよ、ボルフ・ジノンはハーン即位の資格を持った有力者として認められていたことは確かであり、マンドゥールンからすれば自らの地位を脅かす人物と警戒されていたのではないかとみられる。
ボルフ・ジノンの殺害
ボルフ・ジノンが殺されるに至った経緯について、モンゴル年代記は以下のように伝えている。ある時、ボルフ・ジノンのハリューチンのホンホラという者が、マンドゥールン・ハーンに「あなたの弟はイェケ・ハバルト中宮を娶ろうとしています」と讒言したため、ハーンは信じず、ボルフ・ジノンに真意を確かめた上で、ホンホラの口を断って殺した[26]。
その後、ヨンシエブのイスマイル太師がマンドゥールン・ハーンに「ホンホラの言うことは本当だったのに…」と言い、一方でボルフ・ジノンにも「ハーンはホンホラの言葉を信じてあなたに悪意を抱いています」と言い、2人の離間を謀った[23]。やがて2人はイスマイル太師の言うことを信じ始め、マンドゥールン・ハーンは遂にイスマイル太師に命じてボルフ・ジノンを討たせた。ボルフ・ジノンは先に逃れて無事であったが、彼の国人と家畜はことごとく奪われ、妻のシキル太后はイスマイル太師の妻となってしまう[27]。
漢文史料の『明実録』では1476年(成化12年)10月に「マンドゥールンとベグ・アルスランがボルフとマンドゥ知院・モンケら三人を殺害した」との記録があり[28]、1478年(成化14年)7月にも「ボルフは既にベグ・アルスランに殺された」と報告されている[29][30]。後述するようにボルフ・ジノンがハーンに即位したことを認めない立場からは、この時既にボルフ・ジノンは殺されてしまったとする。
一方モンゴル年代記によると、1479年(成化15年)[注釈 5]にマンドゥールン・ハーンが42歳で亡くなると、翌年(1480年)[注釈 6]、バヤン・モンケ・ボルフ・ジノンが即位してハーンとなったとされる[31]。しかし31歳の庚寅の年(1482年)[注釈 7]、バヤン・モンケ・ボルフ・ハーンはヨンシエブのケリュー、チャガーン、テムル、モンケ、ハラ・バダイの5人によって殺されたという[31]。
しかし、漢文史料の伝える1476年(成化12年)死去ではボルフ・ジノンが「マンドゥールン没後にハーン位に就く」ことは不可能なため、ボルフの没年について研究者の見解は分かれている(後述)。
ボルフ・ジノンのハーン即位の是非
上述の通り、ボルフ・ジノンの晩年については漢文史料とモンゴル年代記で異なる経緯を伝えており、研究者の見解が分かれている。研究者の中では大きく分けて1.「『明実録』の記述が誤報で、モンゴル年代記の記す通りボルフ・ジノンはマンドゥールンの後にハーンに即位している」という説と、2.「モンゴル年代記の記述が後世の創作で、ボルフ・ジノンはマンドゥールンの在世中に殺されている」という説が存在する。
ハーン即位を認める説
20世紀までは主に日本人研究者による研究によって前者の説が有力であり、例えば岡田英弘は1481年(辛丑/成化17年)に初見し、1487年(丁未/成化23年)に死去したと明側に伝えられる「小王子」をボルフ・ジノンとみなし、次のように考証している[32]。『アルタン・トプチ』はボルフ・ジノンが「大位に4年あった時…寅年に崩じた」とあり、マンドゥールンが死去した1479年(己亥/成化15年)から4年後の1482年(壬寅/成化18年)が没年と推定される[33]。しかしこれでは『明実録』の伝える1487年(丁未/成化23年)の「小王子」の死亡年と合致しないため、岡田は年代記の編者が他の事件(ダヤン・ハーンの婚姻年)と混同してしまったと考え、やはりボルフ・ジノンは1487年に死去したと結論付ける[34]。
ハーン即位を認めない説
しかし岡田説の発表後、中国内モンゴルにて『アルタン・ハーン伝』という新出史料が発見され、本書にある「ついに赤い丑年に44歳で、ダヤン・ハーンは無常のことわりによってお亡くなりになったのであった」という記述が注目されるようになった[35]。この記述に基づくとダヤン・ハーンを1474年(甲午/成化10年)出生、1480年(庚子/成化16年)即位、1517年(丁丑/正徳12年)死去となり、『アルタン・トプチ』の1473年(成化9年/癸巳)出生、1479年(成化15年/己亥)即位、1516年(正徳11年/丙子)死去、とも1年違いでよく合致する。『アルタン・ハーン伝』『アルタン・トプチ』はモンゴル年代記の中でも成立が早いということもあり、以後『アルタン・ハーン伝』もしくは『アルタン・トプチ』に基づく解釈が主流となった[35]。
例えば宝音徳力根は『アルタン・トプチ』に「ボルフ・ジノンが亥年に大位に就いた(yeke oru saγuba)」というのは「ジノン位に就いた」という事であると解釈し、亥年は1467年(丁亥/成化3年)のことであると論じた[36]。そして、1467年がモーラン・ハーン死去の翌年であることに注目し、『アルタン・トプチ』が「大位に就いた」と表現するのは、ハーン位が一時的に空位となったことを糊塗するためであったと指摘する[36]。さらに、前述のとおり『明憲宗実録』成化十二年十月条に基づいて1476年=成化12年がボルフ・ジノンの没年であると仮定し、『蒙古源流』の「ボルフ・ジノンが死去した時点でダヤン・ハーンは4歳であった」との記録をあわせると、ダヤン・ハーンは1473年(成化9年/巳年)生・1479年(成化15年/亥年)即位・1516年(正徳11年/子年)卒となり、『アルタン・トプチ』の記述と合致する。よって、Buyandelgerは「1476年=成化12年、ダヤン・ハーンが4歳の時、ボルフ・ジノンはハーン位に就くことなく殺された」という説を支持している[37]。