エンケ (オイラト)
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オイラト三王鼎立期
1410年代、ドルベン・オイラトには順寧王マフムード(チョロースの長)・賢義王太平(トルグートの長)・安楽王バト・ボロト(ホイトの長)という三人の有力者が並び立っており、エンケは安楽王の弟であったと伝えられている。エンケが初めて史料上に登場するのは永楽16年(1418年)3月のことで、「賢義王タイピン(太平)・安楽王バト・ボロト(把禿孛羅)および弟のエンケ(昂克)並びに順寧王マフムード(馬哈木)の子のトゴン(脱歓)らが各々使者を派遣した」とされ[1]、また同年4月にこれらの者達に下賜がなされたとの記録がある[2][3]。これより先、永楽13年(1415年)末にはアルクタイ率いるモンゴル軍とオイラト軍の間に大規模な戦闘が起こり、大敗を喫したオイラト軍では順寧王マフムードとダルバク・ハーンが殺されるに至っていた[3]。これによって順寧王家が一時衰退する中で、安楽王家が相対的に存在感を増し、エンケも表舞台に立つようになったものと考えられている[3]。
この時期、オイラトで最も有力であったのは賢義王太平(エセク)であり、永楽17年(1419年)正月[4]や永楽19年(1421年)2月[5]にはエセクや兄のバト・ボロトと共同でエセクも明朝に使者を派遣したとの記録がある[6]。しかし、永楽22年(1424年)にはマフムードの息子で順寧王位を継いだトゴンが賢義王太平を殺害するという事件が起こり、安楽王バト・ボロトはオイラト内で最年長の有力者となった[6]。この情勢下で、洪熙元年(1425年)正月には安楽王バト・ボロトが主体となり、「子の亦剌恩および酋長ネレグ(乃剌忽)・エンケ(昂克)・トゴン(脱歓)・アラク(哈剌)・八丁」らとともに明朝に使者を派遣している[7]。ここでは、エンケが賢義王家(乃剌忽)・順寧王家(脱歓)の当主に匹敵する地位であるが、安楽王バト・ボロトの息子の亦剌恩よりは低い地位にあったことが窺える[6]。
トゴン太師の時代
しかし詳細は不明であるが安楽王バト・ボロトも宣徳年間の初めに没落し、1430年代にはトゴンを最高実力者とするオイラトの体制が確立した。宣徳5年(1430年)5月の貢使では「瓦剌順寧王脱歓属」として「エンケ(演克)・アラク(阿剌)等」登場するが[8]、恐らくはこれ以前にトゴンが安楽王バト・ボロトを打倒する際、これを見限ってトゴンの配下に入ったものと考えられる[9]。
さらに正統3年(1438年)正月にはトゴンが「太師」を称するようになり、ほぼ同時期にエンケも「丞相」を称した[10]。また正統4年(1439年)条では「左丞相」とも表記されており[11]、恐らく正統2年(1437年)ころよりエンケは「左丞相」を称するようになり、名実ともに「太師」トゴンに次ぐ地位を得ていたとみられる[12]。
エセン太師の時代
しかし正統5年(1440年)にトゴンが死去した後、その息子のエセンが「太師」の地位を継承し、正統6年(1441年)5月には「太師淮王エセン(也先)・エセンの弟の大同王・イェケンボロト(也勤孛羅)」の三名が中心となって明朝に使者を派遣している[13]。これ以後も、かつてエンケと名を連ねていたアラク・テムルが明朝への使者派遣で言及されるにも関わらず、正統年間を通じてエンケはほとんど名を挙げられなくなってしまう[14]。正統5年(1440年)には賢義王太平の息子のネレグがエセンと対立した末に殺されるという事件が起こっており、安楽王家の勢力を受け継いだエンケも、ネレグとよく似た立場の危険人物としてエセンに警戒され、遠ざけられたのではないかと考えられている[15]。後述するモンゴル年代記の記述からも、エンケがエセンより重用されなかったことが窺える[16]。
しかし正統14年(1449年)に土木の変が起こると、捕虜となった明の英宗のために多くの人物が明朝からモンゴリアに派遣されるようになり、これによってエンケも漢文史料上で言及されるようになる[17]。景泰元年(1450年)7月には明朝から派遣された楊善がエセンの下に至り、問答の中で近くに控えていたエンケより「汝は皇帝を迎えるに当たり、何の礼物を持ってきたのか?」と尋ねられたとの記録がある[18][17]。同年8月には英宗を送還することとなり、英宗の世話をしていたバヤン・テムルが護送する途中、平章エンケが狩猟で射た獲物を献上したという[19][20][21]。英宗が帰還した後、捕虜であった頃にエンケが馬匹・人口を進上したことに感謝して、同年11月に紵絲・表裏が下賜されている[22][21]。以上の記録より、このころのエンケがバヤン・テムルの属下にあったことが窺える[21]。
東部モンゴリアへの移住
その後、エセンはタイスン・ハーンを弑逆して自らハーン位に就くに至ったが、配下のアラク知院の反乱を受けて景泰5年(1454年)8月に殺されてしまった。これを受けて、エセンによって併合された東部モンゴリアはマルコルギス・ハーンを推戴して自立を果し、景泰6年(1455年)4月に明朝に使者を派遣した。この時使者を派遣したモンゴルの有力者たちは「スルタン(鎖魯檀)・平章エンケ(昂克)・モーノハイ(卯那孩)・ボライ(孛羅)」らであり、本来はオイラトの首領であるエンケが名を連ねている[23][24]。恐らくはかねてよりエセンの冷遇に不満を抱いていたエンケは、エセンの死をきっかけとしてモンゴル側に投じたものとみられる[25]。この使者が帰還する際にモンゴルの領侯に賞腸を行っているが、その筆頭は「王子マルコルギス(麻児可児)および平章エンケ(昂克)」で[26]、当時のエンケの高い地位が窺える[27]。
しかしこれが漢文史料上でのエンケの最後の記事であり、以後エンケの動向は史料上にみられなくなる [27]。エンケは既に40年近く活動しており、かなりの高齢であったと推定されることから、李志遠は自然死であろう、と指摘する[28]。東モンゴリアにおけるエンケの勢力は恐らくボライに奪われてしまったが、西モンゴリア(オイラト)に残留したホイト部は存続し、アルタン・ハーンによって討伐されたウチレイ太師はエンケらの末裔と推定される[28]。