クロード・ピカソ
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1947年5月15日
(結婚 1969年、離婚 1972年)
(結婚 1979年、離婚 2000年)
クロード・ピカソ | |
|---|---|
| Claude Picasso | |
| 生誕 |
Claude Ruiz Gilot 1947年5月15日 |
| 死没 |
2023年8月24日(76歳没) |
| 国籍 |
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| 配偶者 |
Sara Lavner
(結婚 1969年、離婚 1972年) Sydney Russel
(結婚 1979年、離婚 2000年) |
| 親 |
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| 親戚 |
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クロード・ルイズ・ピカソ(Claude Ruiz Picasso、1947年5月15日 - 2023年8月24日)は、フランスの写真家、撮影監督、映画監督、ビジュアルアーティスト、グラフィックデザイナー、実業家である。芸術家パブロ・ピカソの3番目の子供である。
ピカソは、フランス・ブローニュ=ビヤンクールで1947年5月15日に生まれた。父はパブロ・ピカソ、母はフランソワーズ・ジローで、いずれも芸術家だった[1]。父にとっては3人目、母にとっては初めての子供である。父は自分と同じPablo(パブロ)という名前をつけようとしたが、長男の名前がPabloと同語源のPaulo(パウロ)であったため断念し、母が17世紀の画家クロード・ジローにちなんでクロードと名付けた。クロード・ジローはロココ様式の画家で、同時代のアントワーヌ・ヴァトーの師匠だった[2]。両親は結婚しておらず、クロードは出生時から母の姓ジローを名乗っていたが、12歳のときに父の姓ピカソに変更した[3][4]。同母妹にパロマ・ピカソがいる。
母フランソワーズ・ジローは2人の子供を連れて1953年にパブロ・ピカソの元を去った。その11年後の1964年、母フランソワーズ・ジローは、パブロ・ピカソと同棲していた時期の回顧録『ピカソとの日々』を刊行した。それ以降、クロードは父パブロ・ピカソと疎遠になり、父はクロード、パロマとの面会を拒むようになった[5]。1970年、クロードは妹パロマとともに、父の法定相続人として認められるようフランスで訴訟を起こした。1974年、裁判所はピカソ兄妹の主張を認める判決を下した[6]。
ピカソは1967年から1974年までニューヨークに住んでいた。写真家リチャード・アヴェドンのアシスタントとして約1年働き、俳優養成所アクターズ・スタジオで映画とミザンセーヌを学んだ。その後、『エスクァイア』、『タイム』、『ライフ』、『ヴォーグ』、『サタデー・レビュー』など様々な出版物のフォトジャーナリストを務めた[7][8][9]。
ピカソは、1973年に死去した父の遺産や著作権などを管理するための組織、ピカソ財団(Picasso Administration)[注釈 1]を設立した[10]。1989年から死去の直前の2023年7月まで、ピカソは裁判所から任命された遺産管理人として、父の他の子孫と協力してパブロ・ピカソの遺産を管理した[11]。1999年、クロード・ピカソはPSA・プジョーシトロエンにパブロ・ピカソの名前と署名のデザインの使用権を売却し、同社はピカソの名を冠した自動車(シトロエン・C4ピカソ)を発表した。パブロの孫(クロードの姪)のマリーナ・ピカソは、偉大な画家パブロ・ピカソを不敬に扱ったとしてクロードを提訴した。クロードの弁護士は『ガーディアン』紙のインタビューに対し、「クロード・ピカソは、存命の5人の相続人のうちの大多数から、ピカソのブランドを使用する完全な権利を認められている」と述べた[11][9]。
ピカソはビンテージカーを多数所有し、レースにも参加していた[12]。
2023年8月24日、スイスで亡くなった。76歳だった。母フランソワーズ・ジローの死から約3か月後のことだった[9][13]。