パレルモの海戦
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| パレルモの海戦 | |
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戦闘で炎上したオランダ船とスペイン船。ピエール・プジェ作、1677年。 | |
| 戦争:仏蘭戦争 | |
| 年月日:1676年6月2日 | |
| 場所:シチリア王国、パレルモ沖 | |
| 結果:フランスの決定的な勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 軍艦29隻 火船9隻 ガレー船25隻[1] |
オランダ軍艦17隻 スペイン軍艦10隻 火船4隻 ガレー船19隻[1] |
| 損害 | |
| 死傷者200 | 軍艦12隻、ガレー船6隻、火船4隻 スペイン軍戦死2,000-2,500 オランダ軍戦死200 うちスペイン提督2人、オランダ提督2人 |
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パレルモの海戦(パレルモのかいせん、フランス語: Bataille de Palerme)は仏蘭戦争中の1676年6月2日、シチリア島のパレルモ沖で行われた海戦。モルトマール公爵率いるフランス艦隊に対し、オランダとスペインの連合艦隊はストロンボリとアウグスタの敗戦に加えミヒール・デ・ロイテル提督を失った痛手から立ち直れず、敗北した。勝利したフランス艦隊はこれ以降、スペイン継承戦争まで地中海西部の覇権を握った。
1673年にオランダ側に立って対仏戦争に参戦したスペインは1675年に地中海にてオランダ艦隊の増援を受け、一方フランスも艦隊を派遣してメッシーナの反乱を支持した。その後、フランス艦隊はメッシーナ(1675年1月2日)、第一次ストロンボリ(1675年2月11日)、第二次ストロンボリ(1676年1月8日)、アウグスタ(1676年4月22日)などの海戦に連勝した。直近のアウグスタの海戦ではスペイン艦隊が積極的にオランダ艦隊を支援しなかったためオランダ艦隊は手痛い損害を被り、総指揮官のミヒール・デ・ロイテルを失ってしまった。そのため、オランダとスペインの連合艦隊は1676年初夏にパレルモに逃げ込み、艦隊の修理を行った[2]。
しかし、フランスにとって地中海での終戦は連合艦隊を撃滅する瞬間である。そのため、フランス艦隊は攻勢を再開、1676年5月26日にメッシーナから出航した。フランス艦隊の指揮官はモルトマール公爵で、アブラハム・デュケーヌ(前衛)とジャン・ガバレ(後衛)が補佐した[3]。連合艦隊の方ではヤン・デン・ハーンがロイテルの後任としてオランダ艦隊を指揮、スペイン艦隊でも前の海戦で精彩を欠いたラ・セルダ提督に代わりディエゴ・デ・イバラが指揮を執った[3]。
戦闘
5月31日、軍艦29隻、火船9隻とガレー船25隻で構成されたフランス艦隊がパレルモ沖に到着した。パレルモ港にいる連合艦隊はまだ修理を終わらせておらず、ヤン・デン・ハーンはエーンドラグ艦(Eendragt)に保存されていたロイテルの遺体を処理している最中であった[2]。ガバレとトゥールヴィル伯爵はフェラッカに乗って偵察を行った[2]。連合艦隊の構成は軍艦27隻(うち17隻はオランダ艦)、ガレー船19隻と火船4隻だった。パレルモ湾には特に防御工事がなく、これらの情報を得たモルトマールは停泊中の連合艦隊に攻撃することを決めた[1]。
6月2日朝、風が北東からパレルモ港の内部へと吹いていた[3]。モルトマールはすぐに接近して火船を放った。風力を借りて進んだ火船はすぐに停泊していた連合艦隊を脅かした。連合艦隊の艦長たちは慌てて錨を切って風に任せて港のさらに奥に移動したが、その後を火船が追撃した[2]。モルトマールとデュケーヌはこの混乱に乗じて攻撃を仕掛け、砲撃を開始した。これにより連合艦隊はさらに混乱に陥り、火が船から船へと移り、多くの船が沈没したり難破した[3]。今やパレルモ市自体も火災の脅威にさらされた[3]。
スペイン艦隊の旗艦が爆発して[2]、ディエゴ・デ・イバラは溺死、ラ・セルダも戦死した。スペインのガレー船隊の旗艦も炎上した。ヤン・デン・ハーンが戦死、またファン・ミデルラント少将(Van Middelland)も戦死した。オランダ艦隊は2人のほかには大尉7人、兵士と海員250人を失った。スペイン軍の損害は2,000から2,500人だった[4]。軍艦12隻、火船4隻、ガレー船6隻、大砲700門が失われ、(戦闘で「使える」戦列艦のみ計算に入れると)艦隊のほぼ半分が失われた[5]。フランス艦隊では火船を除くと、沈没船はなしで損害は200人だけだった[2]。フランス艦隊の損害は少なかったが、連合艦隊のうち火船から逃れて守備に入った軍艦の艦側砲射撃の激しさを証明した。