パンセの諸版

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ブレーズ・パスカルの遺著『パンセ』は、フランス本国でも多くの版が出ている。

主要な版と、作成されるに至った経過を解説する。

ポール=ロワイヤル版への序文から(塩川訳[1]

 パスカル氏が宗教についての著作の構想を練っていたことを周囲の人々は知っていたので、氏が亡くなった後、彼らは氏がこの主題について書き残したすべての文書を細心の注意を払って寄せ集めた。それらはすべて紐で結わえたさまざまの束にまとめられたものとして見つかったが、そこにはいかなる順序もつながりもなかった。というのも、すでに述べたように、それは氏の思索の最初の表現、それが頭に浮かぶのに応じて、小さな紙片に書きつけたものにすぎなかったからだ。そして全体はあまりにも不完全で、筆跡もひどく読みにくかったので、その解読にはこの上ない苦労があった。

 人々が最初におこなったのは、文書をそれがあるがままに、見出されたときと同じ混乱状態において筆写させることであった。しかしそれが写本となり、原本に比べて読みかつ検討するのが容易になってみると、それはあまりにも雑然として脈絡がなく、大部分の文章にはあまりに説明が欠けていたので、たいそう長い間、それを出版しようという考えはまったく出てこなかった。

この序文は匿名だが、パスカルの姉ジルベルト・ペリエの手紙から、彼女の長男エチエンヌ・ペリエ (1642-80) の執筆と判明している。

編集史

1662年パルカル、ペリエ家(姉ジルベルトの嫁ぎ先)で死去。

ジルベルト・ペリエ(1620-1687) が文書を相続。以後、ペリエ家が『パンセ』編集の中心となる。

1660年代前半自筆原稿を清書しなおした第1、第2写本完成。
1670年, 1678年ポール=ロワイヤル版出版。ポール=ロワイヤル修道院で編集。テーマ別。
1711年ジルベルトの第5子ルイ・ペリエ (1651-1713) が、肉筆原稿の散逸を防ぐため、台紙にのりづけして「自筆原稿集」を作成。サン=ジェルマン=デ=プレ教会図書館に寄託。
1842年ヴィクトル・クザン (1792-1867) が、王立図書館に移っていた自筆原稿集を検討。ポール=ロワイヤル版は編者による改竄が多いと批判。
1844年フォジェール版出版。プロスペル・フォジェールフランス語版 (1810-1887) は、王立図書館の自筆原稿集から校訂しなおした。以後原文尊重の版が多種出版される。
1897年ブランシュヴィック版出版。レオン・ブランシュヴィックは、彼が決めたテーマ別14章で編集。これが20世紀には世界で一番翻訳された。
1938年トゥルヌール版出版。ザカリー・トゥルヌールは、国立図書館に残る第1写本が、ポール=ロワイヤル版序文が言うところの直接の写本であると提唱し、それに従った順序で編集。
1947年, 1951年ラフュマ版出版。ルイ・ラフュマフランス語版は、トゥルヌールの説に賛同し、第1写本準拠で編集をより充実させた。
1976年セリエ版出版。フィリップ・セリエフランス語版は、第2写本は第1写本より善本であるとして、こちらの順序に従った。

自筆原稿集

書誌事項

国立図書館蔵 手写本部 9202号。 A-Eの付録文+498pp. 430×280mm 緑色の羊皮紙製本

パスカル自身の筆跡ではない、口述筆記の断章も含む。

  • Gallica 2012年公開分 代替文書からスキャン。奇数ページのみ1ページずつ、計283ページ収録。
  • Gallica 2014年公開分 オリジナルからスキャン。見開き2ページずつ全ページ収録。ビューワーソフトでページ数も表示される。

来歴

パスカルの死後、自筆原稿は紐を使って60余の紙束に閉じられた状態で発見された。パスカルの姉ジルベルトが嫁ぎ先ペリエ家で保存。 ジルベルト死去(1687年)後、第5子ルイ・ペリエが相続した。

パスカル死後50年の時点で、すでに1割近くの文書が散逸していたとみられる。ルイは自筆原稿を430×280mmの台紙に張り付けて、それ以上の散逸をふせいだ。 ただし、それまでも原稿断章間の順序は混乱していたようだが、この糊付け作業で、さらに順序がわからなくなった。

1711年、仮綴じ状態でサン=ジェルマン=デ=プレ教会図書館に寄託。1731年以後同図書館で製本。 革命後の1795年から、王立図書館(現国立図書館)が管理 [注 1]

  • 自筆原稿および主要写本の来歴は、DescotesとProust によるWeb "Pensees de Pascal"で一覧できる。

第1・第2写本の共通点

筆写者

第1、第2写本とも主要な筆写者は同一人物で、つづりの特徴から職業筆写家とみられる。

ファイル

この両写本は、原則として、4の倍数のページ単位からなる「ファイル」の集合となっている。 一般に本を作成するとき、1回折りの折り丁で4ページできる。 1つのファイル内の記事が、ちょうど4の倍数のページ量にならなければ、1-3ページの空白ページができる。原則としてこれを境界とみてファイル群の区別ができる。

「目次」

両写本とも「目次」(内容の一覧表)を含む。第1写本では2個所、第2写本では1個所。 この「目次」にある表題をもつファイル群が27、「目次」の表題をもたないファイル群が34または35あり、塩川は前者をAファイル、後者をBファイルと呼んだ[1]。以下にはその名称を使う [注 2]

「目次」はパスカルが作成したのか?

「目次」の自筆原稿は現存しないため、この「目次」はパスカルの意図を反映しているか論争されてきた。

  • 「目次」も本文と同一の筆写家が書いている。これは元原稿があったが、失われた可能性を示唆する。
  • 第1写本に2個所、第2写本の1個所の「目次」は、「民衆の意見の健全さ」と一度書いて横線で引いて消してある事が、3つとも同じである。

そこでパスカル自身の原文がかつて存在し、それを横線をふくめて忠実に写したとみられる [注 3]

第1写本

書誌事項

フランス国立図書館所蔵 手写本部 9203号。目次を除いて本文472pp. (合計496pp.) 350×230mm 半綴じ

  • Gallica 2009年公開分 オリジナルから1ページずつスキャン。ビューワーソフトがページ数を表示。
  • Gallica 2021年公開分 代替文書から1ページずつスキャン。ビューワーソフト上でページ数は計算が必要。

来歴

ドン・タッサンフランス語版 の『Saint-Maur修道会の文学史 (1770)』(1959年にラフュマが引用)が記載している。

パスカルの姉ジルベルトは1687年死去。第3子(次女)のマルグリッド・ペリエフランス語版 (1646-1733) が相続。1715年か1723年頃、マルグリッドが、いとこでサン=ジャン=ダンジェリのベネディクト会修道院長のジャン・ゲリエ (Jean Guerrier, 1664?-1731) へ寄贈。1731年ゲリエが死に、サン=ジェルマン=デ=プレ図書館に寄託。 1795年国立図書館へ。

以下のジャン・ゲリエの記載が第1写本の冒頭にある。

私が死んだら、このノートをサン=ジェルマン=デ=プレに送って、サン=ジェルマン=デ=プレに寄託されている原本を読みやすくしてください。1723年4月1日サン・ジャン・ダンジェリ修道院で作成。ジャン・ゲリエ

構成

ファイルは、塩川の用語で、目次, A1-27, 目次その2, B1-34 の順。

制作意図・制作時期

「人々が最初におこなったのは、文書をそれがあるがままに、見出されたときと同じ混乱状態において筆者させることであった。」 というポール=ロワイヤル版序文の記録を反映する、現在に残る最初の写本。 ポール=ロワイヤル版編集に使われたので、1660年代の筆写は確実。ジャン・メナールフランス語版によれば1662-3年[2]

追記加筆

筆写家の文章以外に多数の追記加筆があり、大きく2種に分けられる[3]

  1. 自筆原稿の解読過程での加筆
  2. ポール=ロワイヤル版出版のための編集文

後者はパスカルの原文をあえて改変した文である。 筆跡から推定すると、主に下記3人で分業した [4]

  • アルノー A7,15,16,18,B2
  • ニコル A2,3,10,13,24,B16
  • エチエンヌ A9,19,26,B3,4,5,19,23,24,25,26,28,30,33

出版作業時点では各ファイルはまだばらばらだった可能性がある。

製本時期

上記のように、ポール=ロワイヤル版編集作業時点では、各ファイルは別々だったとすると、仮綴じされたのは、同版の編集作業が終了した1670年前後か、それ以後。 すでに清書写本として第2写本ができていたとすると、仮綴じを急ぐ必然性はなく、ゲリエに寄贈された時点でもばらばらだった可能性もある [注 4]

ラフュマによれば、現型に製本されたのは1731年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に寄贈された後。

ファイルの順序を決めたのは誰か?

仮綴じ時期を特定できないため、代々の所有者すべてに可能性がある。つまり長男エチエンヌ、母ジルベルト、3子マルグリッド、寄贈されたジャン・ゲリエ。ただしペリエ家の人々は、すでに第2写本を所有していたならば、あえてそれと違う順序でこちらを仮綴じしたとは、やや考えづらい。もっとも可能性があるのはジャン・ゲリエか [注 5]

第2写本

書誌事項

国立図書館所蔵 手写本部 12449号。 全920pp. (ただしパンセの第2写本に相当するのは、その前半の、目次+本文531pp.)330×232mm 牛皮製本

  • Gallica 2013年公開分 オリジナルから1ページずつスキャン。ビューワーソフトでページ数が明らか。ただしpp.201-239はスキャン欠落。
  • Gallica 2021年公開分 代替文書から2ページずつスキャン。全ページスキャンされているが、ソフト上でページ数は計算が必要。

来歴

ピエール・ゲリエ(Pierre Guerrier, 1696-1773) 神父の回想録が参考資料。

パスカルの姉ジルベルトは1687年死去。第3子マルグリッドが相続。マルグリッドは1723年頃にクレルモンのオラトリオ会図書館に寄贈。それを1936年以後にピエール・ゲリエ(ジャン・ゲリエの甥)個人が所有した。 ゲリエは1773年に死去し、1779年に王立図書館へ寄贈された。

構成

  • ファイルの順序が第1写本と異なる。目次, B1, A1-27, B35, B32-34, B23-31, B21-22, B20, B2-19 の順。
  • 第1写本にないB35ファイルをふくむ。これは単なる第1写本の写しではないことを示す。
  • 原則として各ファイルのページは別々だが、一つのページ内で、あるファイルが終了後、続けて次のファイルが始まる場合がある。p.102でA11からA12、p.129でA15からA16、p.433でB3からB4。(およびピエール・ゲリエの筆写とみられる部のpp.400,401)

第1写本との筆写関係

第1写本に原文判読の苦労のあとがある多くの場所は、第2写本できれいに書き直されている[5]。つまり第1写本(またはメナールの言うゼロ写本)から第2写本への筆写が推定される。

ただし単なる第1写本の写しではない。

  • B35ファイルがある。
  • 第1写本に「次の同一語までの見落とし」があり、第2写本ではなおっている個所がある[注 6]

これを説明するため、メナールは「ゼロ写本」から第2写本に写されたと考えた[2] [注 7] 。他に、田辺の指摘[7]のように、筆写家が自筆原稿を再読して書き直した可能性もある。

制作時期・制作意図

  • おおよそ第1写本(またはゼロ写本)の写しであるので、自筆原稿の解読校正作業が終了した時以後。
  • 第1写本内の加筆のうち、ポール=ロワイヤル版発行のための文章の改変は反映されていないので、それが行われる以前。

上記の制作時期が推定されるため、第1写本がパスカルの原文の一応の完成原稿となった時点で、清書として作られた可能性が考えられる。

追記加筆

  • 第1写本に比べて加筆は少なく、校訂者はほぼ一人で、エチエンヌ・ペリエとされる。
  • pp.399-402(および第2写本が終わったあとの、pp.539-554のB19の複写)は別人(ピエール・ゲリエとされる)の筆写となっている。

製本時期

第2写本は『パンセ』とは無関係な文書を後ろにふくめて製本されている。現在の形に製本したのはピエール・ゲリエの所有後であり、1730年代以後とみられる。

ファイルの順序を決めたのは誰か?

筆写終了後まもなく、正式な製本はされなくとも、仮綴じはされたはずである。 ポール=ロワイヤル版編集の分業体制から、B群ファイルを一番読み込んでいたとみられるのはエチエンヌ・ペリエである。かつ清書写本をペリエ家に保存することを企図する人物としても、彼は有力候補である [注 8]

両写本のファイルとページ数

両写本の各ファイルのページ数を示す。 以下のAファイルの題は「目次」の題(塩川訳[1])。Bファイルの題は塩川による仮題。

ファイル第1写本第2写本
目次00
A1 順序1-313-15
A2 むなしさ5-1417-32
A3 みじめさ15-2333-42
A4 倦怠2745
A5 民衆の意見の健全さ 現象の理由31-3647-56
A6 偉大さ37-4157-61
A7 矛盾45-5265-74
A8 気晴らし53-6075-84
A9 哲学者61-6285-87
A10 最高善65-6691-93
A11 A・P・R69-7595-102
A12 始まり77-80102-105
A13 理性の服従と使用81-84107-111
A14 優越85-86111-113
A15 移行89-101115-129
自然は損なわれている (これは対応ファイルなし)
A16 他宗教の誤り105-110129-136
A17 愛すべき宗教113139
A18 基礎117-122143-149
A19 表徴としての律法125-140151-168
A20 ラビの教え141-144171-174
A21 永続性145-149175-179
A22 モーセの証拠153-154183-185
A23 イエス・キリストの証拠157-164187-194
A24 預言165-172197-206
A25 表徴173207
A26 キリスト教の道徳177-182209-215
A27 結論185-187217-219
目次その2189
B1 総覧191-1991-10
B2 護教論的論説 1 賭201-208411-418
B3 護教論的論説 2 宗教的無関心の反駁209-220419-433
B4 護教論的論説 2の2221-222433-435
B5 護教論的論説 3 堕落と贖い225-232437-445
B6 ユダヤ人の状態 1233-234447-449
B7 ユダヤ人の状態 2237451
B8 ユダヤ人の状態 3241-244455-459
B9 ユダヤ人の状態 4245-246461-463
B10 ユダヤ人の状態 5249465
B11 堕落253-258469-475
B12 預言 1259-265477-484
B13 預言 2267-268485-486
B14 預言 3271-277489-497
B15 預言 4279-283499-504
B16 預言 5285-286507-509, 400
B17 預言 6289-297511-520
B18 預言、ユダヤ人の状態など301-303523-525
B19 表徴305-309527-531
B20 権威と信仰など313-314405-407
B21 幾何学の精神と繊細の精神 1317-318401
B22 幾何学の精神と繊細の精神 2321-323401-404
B23 雑纂325-346275-300
B24 雑纂 2349-361303-318
B25 雑纂 3365-384321-344
B26 雑纂 4385-398347-373
B27 雑纂 5401-408375-383
B28 雑纂 6409-413385-390
B29 雑纂 7417-423391-398
B30 雑纂 8425-428399
B31 雑纂 9429-430400-401
B32 奇跡 1 バルコスへの質問状435-437229-232
B33 奇跡 2439-454235-253
B34 奇跡 3455-472254-273
B35 エズラの作り話221-228

どちらの写本のファイル順序がパスカルの意図に近いのか?

どちらの順序がパスカルの意図に近いか、決定する事はできない[2]。内容としてはどちらでも不自然ではない [注 9]

その他の写本

ペリエ写本

パスカルの姉ジルベルトの第5子、ルイ・ペリエが作成。 第1・第2写本作成時に、個人的な性質が強いとして除外された自筆原稿を集成。 この写本自体は失われたが、その写しを1944年にラフュマが入手、『パスカルの未刊の三断章』として発表。

  • ラフュマ913-948(セリエ742-769)分は自筆原稿あり。
  • ラフュマ978-982(セリエ743-782)分は自筆原稿なし。

ゲリエ写本

マルグリッド・ペリエが所蔵していた文書などは1723年頃、クレルモンのオラトリオ会図書館に寄贈された。 同会士のピエール・ゲリエが作成した写本。 そのうち一つの写し(テメリクール嬢写本)は国立図書館蔵 手写本部 12988号。

  • ラフュマ983-993(セリエ804-812) (パスカルの自筆原稿はない)

ジョリ・ド・フルーリー草稿

ジョリ・ド・フルーリーフランス語版 (1675-1756) の蔵書のうち、国立図書館 手写本部 2466号 内の記事。 「印刷刊行されるべきパンセ」の表題あり。ポール=ロワイヤル1678年版に採用計画があったらしい。 メナールが発見し、1962年に『未刊のパスカルの作品』として発表。

  • ラフュマ III-XV(セリエ772-785) (パスカルの自筆原稿はない)

主要刊本

各版断章の対照表

脚注

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