フィリップス製の五極真空管 EF86
物理学研究所ができた当時、一般的な真空管の構造であった三極真空管には2つ大きな問題点があった。1つは、電流源として動作しないことであった。もう1つはアノード(陽極)とグリッドの間に強い容量結合があることで、高周波特性が悪い点があった。1915年、制御グリッドとアノードの間にスクリーングリッドを挿入し、陽極を一定の高電位に保った四極真空管 が発明された。しかし四極真空管は、スクリーングリッドが高電位になり、加速した電子がアノードに衝突して二次電子が放出され、これがまたスクリーングリッドに向けて加速され、逆電流を発生させた。
テレゲンは、四極真空管の問題を研究し、スクリーングリッドとアノードの間にもう1つグリッドを挿入した。これは、ブレーキグリッド またはサプレッサーグリッド と呼ばれ、アノードから放出される二次電子をアノードに押し戻す役目を果たした。テレゲンとホルストは、この真空管を五極真空管 と命名し、1926年 に特許出願した。
1927年に、フィリップスは世界初の五極真空管B443 を発売した。五極真空管は、三極真空管と四極真空管の問題を一挙に解決し、高い増幅率を持ち、比較的低い電圧で高出力を供給できた。五極真空管は民生用ラジオ受信機や、第二次世界大戦 で連合軍側のレーダー に幅広く使われた。1932年 にはフィリップスの累計の真空管製造数が1億個に達した。この発明はフィリップスをヨーロッパ最大のラジオ真空管メーカーに成長させた。
物理学研究所内のスタジオで演説するウィルヘルミナ女王 とユリアナ王女
フィリップスは真空管を中心にラジオ用の部品を販売していたが、1927年 に完成品ラジオPhilips 2501 を発売した。同時期の他社のラジオ受信機は4本以上の真空管を必要としたが、Philips 2501 は五極真空管3本で済んだ[ 注釈 3] 。
ラジオの普及を後押しするため、バルタザール・ファン・デル・ポール などが主導して、フィリップス物理学研究所内に独自の送信機を設置し、短波放送 の送信実験を始めた。この放送局はコールサイン からPCJJ (後にPCJ)と呼ばれた。1927年 3月11日 、オランダで最初の短波放送 が、物理学研究所の送信機からオランダ領東インド 、オランダ領ギアナ(スリナム )、西インド諸島 のオランダ領アンティル に向けた試験放送を行った。6月1日 、物理学研究所に特別に用意されたスタジオでウィルヘルミナ女王 とユリアナ王女 が、オランダの海外領土に向けて演説を行った。
1927年7月にPCJは、ラジオ局PHOHI (Philips Omroep Holland-Indië )として独立した。
フィリップスのX線管(写真左)による撮像装置を使った結核検査の様子、1947年 撮影
1895年 、ヴィルヘルム・レントゲン によりクルックス管 からX線 が放射されていることが発見される。1913年 、ウィリアム・クーリッジ(w:William D. Coolidge )によって、タングステン・フィラメントを用いた熱陰極を持つクーリッジ管が発明された。
フィリップス物理学研究所では、ジル・ホルスト とアルバート・ボウワーズ(w:Albert Bouwers )がX線管 の研究を行った。
1924年 、ボウワーズはMetalix と名前が付けられたX線管が発明された。Metalixは、X線管のガラスをさらに金属管で覆い照射口だけ開けることで、不必要にX線が照射することを防いだ。またクーリッジ管の特許を回避するため、高真空ではなくヘリウム 充填とした。
Metalixの欠点としてアノード(陽極)の発熱により寿命が短いということがあった。1929年 、ボウワーズによってRotalix が物理学研究所で発明された。これはアノード電極を回転させることで、熱が特定箇所に集中することを防いで寿命を伸ばし、また電圧を上げることができるようになったことでX線の出力をあげることができた。
フィリップスは1933年頃に年間約7,000本のX線管を生産した。しかし、売上高4,771,000ギルダー に対して損失991,000ギルダーであった。第二次世界大戦まで累積赤字は増加していったが、X線管の生産は続けられた。フィリップスのX線撮影機器が利益をもたらすようになったのは、第二次世界大戦後であった。
フィリップスにとって磁性体は、幅広い製品において重要な構成要素であった。例えば、電動機 、スピーカー 、テレビ用ブラウン管 の磁気シールド、磁気テープなどの磁気記録媒体と読み書きヘッドなどがある。
物理学研究所では1930年代から磁石や磁性体の研究が続けられ、1930年代は、鉄 にアルミニウム 、ニッケル 、コバルト を主として加えたアルニコ磁石 の開発で成果がでていた。
1930年代から1940年代にかけて、物理学研究所のヤコブ・ルイス・スヌーク(Jakob Louis Snoek)を中心として、フェライト磁石の特性と、フェライトに使用する材料と特性の関係を研究していた[ 注釈 4] 。
これらのフェライト磁石 は物理学研究所で重要な研究テーマとなった。フェライト磁石は、電気抵抗率が高いため、電機を通しにくく、コイルのコア材料などに適していた。また磁気テープの素材としても最適でフィリップスの製品にとって重要な要素技術であった。これらの研究は、1970年代に水素吸蔵合金 の発見へとつながった。
フィリップスがライセンスしたシンプレックス社の電動自転車、1932年
1930年頃から物理学研究所で電動自転車 の研究が行われていた。1932年 に、フィリップスが選定した5つの企業に製造権が付与された。
物理学研究所で開発された電動自転車の主な仕様は以下の通りである。
交換可能な12Vの蓄電池 を搭載
蓄電池は付属の整流器により空状態からフル充電まで12時間
1回のフル充電で約80kmの走行が可能
最高時速は約21km/h
ペダルによる走行も可能
ハンドルレバーにあるスイッチにより切り替え可能
蓄電池、電動機など電気系の搭載による重量増加は約30kg
当時、電動自転車はバイクと同等とみなされ、使用には運転免許が必要で、課税対象にもなったため、販売は低迷した。電動自転車はガソリンによる内燃機関エンジンに対抗できないとして、1936年 に電動自転車の研究は中止された。
透過型電子顕微鏡 Philips EM75、所蔵:ブールハーヴェ博物館
1931年、ドイツ のマックス・クノール とエルンスト・ルスカ によって透過型電子顕微鏡 (TEM)が開発された。これを受けて、1930年代から物理学研究所でも電子顕微鏡と、重要要素技術である高電圧発生装置の研究が始まった。
デルフト工科大学 のレ・プール(nl:Jan Bart Le Poole )が、透過型電子顕微鏡の開発を行っていた。1937年 、物理学研究所に高電圧発生装置の作成を依頼し、これをもとに加速電圧40kVの透過型電子顕微鏡を1941年に開発した。次にレ・プールと物理学研究所は共同で400kVの透過型電子顕微鏡を開発したが、これは商用化しなかった。その後、物理学研究所とレ・プールの共同研究によって開発された倍率が1000倍から80000倍まで連続的に変化できる透過型電子顕微鏡を1947年に完成させた。経営陣は商用化を決定し、フィリップス初の透過型電子顕微鏡EM100 として販売された。
さらにレ・プールと物理学研究所の共同研究で、焦点距離0.8mmの小型透過型電子顕微鏡が開発された。この電子顕微鏡はEM75 と命名され1953年から1967年まで生産された。
フィリップス製のコッククロフト・ウォルトン回路 による高電圧発生器、欧州原子核研究機構 所蔵
1932年 、イギリス のキャベンディッシュ研究所 のジョン・コッククロフト とアーネスト・ウォルトン が開発したコッククロフト・ウォルトン回路 を使った高圧発生器を使い、核分裂反応の検出に成功した。
物理学研究所では、コッククロフト・ウォルトン回路の発熱問題を対策し、信頼性を向上させた高電圧発生器を開発した。この利点に着目したキャベンディッシュ研究所の所長のアーネスト・ラザフォード は、この利点に注目し、1936年にフィリップス物理学研究所に1250kV高電圧発生器の製作を依頼した。その数年後には2MV高電圧発生器を発注した。第二次世界大戦が終わると、フィリップスに多数の高圧発生器の生産が依頼された。
1932年 、アーネスト・ローレンス によりカリフォルニア大学バークレー校 でサイクロトロン が開発されると、物理学研究所でもサイクロトロンの研究が始まった。しかし第二次世界大戦でドイツの占領下では資材の調達が難しく、理論的な設計にとどまった。1942年 にライデン大学 から物理学研究所に移籍したヘンドリック・カシミール は、サイクロトロンに用いる電磁石の検討を行った。
1946年 、オランダ政府は原子核物理学 の研究拠点として、アムステルダムに原子核物理研究所(nl:Instituut voor Kernfysisch Onderzoek 、略称:IKO)を開設した。IKOに設置されるシンクロサイクロトロンはフィリップスが製造した。1949年 、オランダ初のシンクロサイクロトロンの運転が始まった。この加速器は重水素 を28MeVまで加速することができた。
1958年 、物理学研究所ではAVFサイクロトロン (方位角可変磁場サイクロトロン)を開発した。サイクロトロンで、粒子を加速しエネルギーが高くなると、軌道面に対して鉛直方向に不安定になる問題があった。AVFサイクロトロンでは、磁場を方位角方向に周期的に変化させる構造を採用し、粒子に強い集束作用を与えることが可能になる。これにより、粒子の軌道が安定し、より高いエネルギーまで加速させることができる。フィリップス製のAVFサイクロトロンはオランダ国内外の研究施設で導入された。
サイクロトロンは商業製品にはならなかったが、ガイガー=ミュラー計数管 などの放射線関係の計測機器の開発、高電圧装置の開発、半導体製造に使われるイオン注入 装置の開発につながった。
また原子核物理学に関係する人物として、1932年 に物理学研究所に入所したコーネリアス・バッカー(w:Cornelis Bakker )と、1952年 に入所したシモン・ファンデルメール がいる。バッカーは、シンクロサイクロトロンの理論設計を行い、1955年 に欧州原子核研究機構 の事務局長に就任した。またファンデルメールは、研究所で高電圧発生器と電子顕微鏡の研究に従事した。1956年 に欧州原子核研究機構に移籍し、1984年 にノーベル物理学賞 を受賞した。
ブリュッセル万国博覧会 のフィリップス・パビリオン
ハーグ王立音楽院 でピアノを学んだディック・ライマーカーズ(w:Dick Raaijmakers )が、1954年 にフィリップス物理学研究所に入所した。ライマーカーズはキッド・バルタン (Kid Baltan[ 注釈 5] )の変名 で、発振器やオープンリール 式のテープレコーダーを使った電子音楽作品3曲を制作した。
またディック・ライマーカーズと共に、物理学研究所に所属していたヘンク・バディングス 、トム・ディッセフェルト(Tom Dissevelt)と物理学研究所で制作された電子音楽は、「ポピュラー・エレクトロニクス」と題したCD4枚組のディスコグラフィ として、2004年 に発売された。またフィリップス物理研究所からオランダの電子音楽を題材にしたドキュメンタリー映画「ルーム306(Kamer 306)[ 注釈 7] 」が制作された。
1958年 、ブリュッセル万国博覧会 において自社の技術成果を活用した芸術表現を展示したいと考え、パビリオンのプロデュースをル・コルビュジエ にに依頼した。実際のパビリオンの建築設計は現代音楽家のヤニス・クセナキス が行った。
展示映像は、ル・コルビュジエのコンセプトを基に『ポエム・エレクトロニク』と題された8分間のフィルムが制作された。作曲は、エドガー・ヴァレーズ が行った。ヴァレーズは物理学研究所の設備を使い、映像と同じく「ポエム・エレクトロニク 」と題された電子音をベースとした曲を制作した。
プランビコンは、RCA が1950年に開発したテレビカメラ用の撮像管 であるビジコン の問題点を解決したものである。ビジコンは、透明な電極の上に、光が当たると電気が流れやすくなる「光導電体」の薄膜が塗られている。カメラから集光された光がこの膜に当たると、光の強さに応じたプラス電荷の模様(静電潜像)ができる。これを後側の電子銃で、左上から右下にスキャンすると、静電潜像に従った電流が流れる。
ビジコンの弱点は、光が消えても電荷がすぐに消えない遅延性があり、これが暗電流を発生させて残像の原因になった。RCAは素材の差は無いと考えていたが、物理学研究所では、ダイオードを形成して暗電流を遮断できる素材があると考えた。結局、光導電体面に一酸化鉛 (PbO )を採用して、この弱点を克服したものがプランビコン である[ 注釈 8] 。プランビコンは、業務用ビデオカメラの撮像管で主流の技術となった。
I2LによるNOR回路の実装
Integrated injection logic (IILまたはI2L)は、バイポーラトランジスタ による集積回路の技術である。1960年代に、バイポーラトランジスタを使った論理回路の実装方法としてTransistor–transistor logic (TTL)やDiode–transistor logic (DTL)がある。TTLやDTLは、信頼性が高く高速動作が可能だったが、抵抗器を使うため消費電力が大きく、また集積回路 で集積度をあげるときの制約になっていた。
IILの進歩性は、PNP型バイポーラトランジスタとNPN型バイポーラトランジスタの組み合わせだけで抵抗器などを使わずに論理回路を構築できる点である。PNPトランジスタのコレクタをNPNトランジスタのベースにつなげる。PNPトランジスタを定電流源とし、NPNトランジスタをスイッチングするという組み合わせになっている。IILの登場によって、TTLやDTLと比べ低消費電力と集積度の向上が可能となった。CMOSトランジスタが高速化するまでは集積回路の一般的な回路として広く普及した。
ドイツのIBM とフィリップス物理学研究所で同時期にそれぞれ独自に発明された。1971年、ドイツにあったIBM の研究所で発明された集積回路をMTL (Merged-Transistor Logic)と名前がつけられた。これは「素子をいかに物理的に重ねて(Mergeして)面積を減らすか」という集積回路の製造の点が名前に反映されたものである。一方、フィリップス物理学研究所で発明された集積回路技術はIIL (Integrated Injection Logic)と命名された。これは「キャリア(電子または正孔)を注入(Inject)して動作させる」という動作原理が名前に反映された。結局はIILの名が一般化した。
Integrated injection logic (IILまたはI2L)を実用化したことで、自社製の集積回路による電卓 の商品が見えた。1970年の秋、研究所で電卓プロジェクトが始まった。整数と最大3桁の小数の四則演算、10キー操作ボタン、液晶ディスプレイで、IILによる3チップ構成であった。1972年、国際固体素子回路会議 でIntegrated injection logicの応用例として実演されたが、商品化には至らなかった。
LOCOSの製造プロセス
LOCOS とは、シリコン上に形成したトランジスタを酸化シリコンの絶縁層で囲み、電気的分離する製造プロセスである。物理学研究所のエルセ・コーイ(Eelco Kooi)などによって発明された。
1959年 、フェアチャイルドセミコンダクター でプレーナー プロセス が発明された。この製法は、シリコン表面を薄い酸化膜で覆うことで内部のシリコンを保護した。また酸化膜は絶縁層にもなり、表面リーク電流を抑える役割も果たした。ただ、初期のプレーナー プロセスで製作されたトランジスタは、それまでのメサ型トランジスタと比べて周囲と電気的に分離されておらず、寄生容量などの影響でスイッチング速度が遅く、特性が悪かった。フェアチャイルドはトランジスタを逆バイアスのPN接合で囲むことでトランジスタを電気的に分離する方法をとった。しかし、集積回路の集積度が上がり、トランジスタの間隔が狭くなってくると確実に分離する技術が必要となった。
物理学研究所の研究員であったエルセ・コーイ(Eelco Kooi)は、フローニンゲン大学 で化学を専攻し、半導体製造プロセスの研究を行っていた。1966年から、シリコンに薄膜を形成する研究に着手した。特に、シリコンの任意の場所で酸化膜の厚さを変えることができる方法を探索した。
シリコン表面の酸化膜は、化学蒸着 (CVD)で生成される。CVDとはシリコンウェハを加熱し、そこへ任意のガスを流して、シリコンと熱反応させて膜を成長させる方法である。コーイは、純シリコンの上に窒化シリコン (Si 3N 4 )の層があると、CVDで加熱しても窒化シリコンの下にガスが侵入して酸化することがないことを発見した。すなわち、窒化シリコンの膜を部分的に生成できれば、任意の場所だけ酸化膜をつけられることを示していた。
次にコーイは、窒化シリコンをCVDで直接、純シリコン上に形成する実験を行った。しかし窒化シリコンの侵食が激しく、思わしい結果とならなかった。そこでコーイはCVDで生成した酸化膜の上に、ジクロロシラン (H 2SiCl 2 )を使いCVDで膜生成を試したところ、酸化膜の上に薄い窒化シリコン膜の生成に成功した。
残った問題は窒化シリコンの膜をエッチングで部分的に除去する方法であった。コーイは、加熱したリン酸(H 3PO 4 )で窒化シリコンを除去できることを発見した。これは、シリコン上に任意のパターンで窒化シリコンのマスクを形成できることを示していた。窒化シリコンのマスクをつけたシリコンウェハを加熱し酸化ガスを流すと、マスクしていない部分に酸化シリコンが成長し、さらに成長した酸化シリコンの半分以上沈み込むことが分かった。つまり、シリコンの任意の場所に任意の深さの絶縁層を形成できることを示していた。これによりシリコン上に形成したトランジスタの周囲にLOCOSで生成した絶縁層で電気的に分離することができた。
まとめるとLOCOSのプロセスは以下の通りである。
シリコン上にCVDで酸化膜(SiO 2 )を生成する
シリコン上にCVDで酸化膜の上に窒化シリコン(Si 3N 4 )の膜を生成する
リソグラフィー を使い、任意のパターンで窒化シリコン膜と酸化膜をエッチングして除去する
窒化シリコンのマスクをつけた上から、加熱した上で酸素と純シリコンを反応させて酸化シリコンを成長させる
高温のリン酸で窒化シリコンの膜を除去する
LOCOSによりCMOSトランジスタの応答速度が向上し、CMOSが飛躍する嚆矢となった。1980年代に入ると、集積回路 を製造するほぼすべての企業がLOCOSのライセンスをフィリップスから取得することが必須という状況になった。集積度が上がり1μm プロセスまでは、LOCOSとその派生技術で対応可能であったが、それ以上の微細加工が求められるようになるとLOCOSの欠点が顕著になった。シャロートレンチアイソレーション (STI)が発明されると、LOCOSからSTIに置き換わっていった。
LOCOSの特許ライセンスがどれだけの収入をフィリップスにもたらしたかは不明だが、知的財産部門の責任者は「フィリップスはLOCOSとブランビコン撮影管という王冠特許を持っている」と語った。
物理学研究所では、当初から電球のフィラメントなど金属分野のテーマが扱われていたが、1930年代からフェライト磁石 の研究が続けられていた。1970年、サマリウムコバルト磁石 SmCo 5 を使った永久磁石の研究で、磁性の特性劣化の原因究明を行っていた。劣化原因は、製造工程での水素の吸収であった。
この現象が水素貯蔵に応用できると考えられ、同系の材料でランタン ニッケル 合金LaNi 5 が室温で比較的低圧下で大量の水素ガスを容易に吸収・脱着することを発見した。これは、水素吸蔵合金 の基礎となった。
フィリップスのスターリングエンジン発電機、1950年代
カシミール時代の物理学研究所の機械工学の主要な研究テーマとしてスターリングエンジン があった。低騒音で低燃費の自動車の動力源として蓄熱システムとスターリングエンジンの組み合わせが有望であると考えていた。1971年に、オランダ政府から市バスのエンジン開発のため助成金をうけた。さらに1972年 からフォード・モーター と共同研究が提携された。
フォードは、アメリカ合衆国エネルギー省 からの1億1000万ドルの研究助成に加え、フォードも5000万ドルの研究費を拠出した。1976年 に、スターリングエンジンを搭載したフォード・トリノ とDAF のバスによるデモンストレーションが実施された。このスターリングエンジンは排気ガス規制(大気浄化法 )を満たしたが、エンジン本体が重く、信頼性も高くなかった。デモンストレーションの後、次の段階への検討が行われたが、1978年 にフォードはフィリップスとの契約をすべてキャンセルした。これにより、物理学研究所のスターリングエンジン研究も中止となった。
天文観測衛星ANS 予備機
1960年代、ユトレヒト大学 とフローニンゲン大学 の天文学者たちが、紫外線とX線の検出器を搭載した人工衛星 による天文観測を提案した。1969年 にオランダ政府が支援を表明すると、フィリップス物理学研究所とフォッカー の宇宙開発部門によるコンソーシアム が組まれ、衛星の設計と製造が行われた。
フィリップスは物理学研究所が中心となり、衛星の姿勢制御システム、搭載されるコンピュータ、地上との通信システムなど開発を担当した。実際の開発業務はヘルドロップ研究所 で行われた。担当者も増員され、最大で300名が作業に従事した。
衛星プロジェクトはANS (Astronomische Nederlandse Satelliet)と呼ばれた。衛星は太陽同期軌道 に投入される計画で、姿勢制御システムは地磁気を感知する磁気コイル・センサーを入力とし、リアクションホイール で衛星の姿勢を制御するものであった。
衛星はアメリカ航空宇宙局 により、1974年 8月30日 に打ち上げられ、オランダ初の人工衛星となった。計画では、近地点が高度500kmの楕円極軌道に投入される予定であったが、打ち上げ時のロケットの不具合により近地点の高度266kmを周回する軌道になった。衛星に搭載されたコンピュータはプログラム書き換え可能な構成であったため、実際の軌道に合わせて修正されたため、観測活動に影響は無かった。
1976年 4月27日 、オランダ政府の予算が打ち切られたため、衛星による観測は停止した。1977年 にANS衛星は大気圏に再突入して燃え尽きた。衛星は2機製造され、衛星の予備機は、物理学研究所内で展示されていた。
1978年に発売されたマグナボックス [ 注釈 9] Magnavision
物理学研究所においてレーザー技術は、1960年代から研究テーマとして扱われていた。しかし、民生用途としては懐疑的で、しばらく研究は低調であった。
物理学研究所のピート・クラマー(Piet Kramer)が、1967年に光学研究グループの責任者になった。クラマーは、商品開発から「磁気テープではなく、レコード盤のように映像を再生できる装置はできないか」と持ちかけられた。1969年 、VLP(Video Long Play)と呼ばれた研究テーマを立ち上げた。最大のテーマは映像の記録方法とその読み取りであった。VLPの最初期は、ガラス円盤に微小なカラー画像を焼き付け、これを撮影管のプランビコンで読み取るというアイデアだった。この方式で1時間分のカラー画像は18万枚必要となり、音声が記録できない問題もあった。
そこで、磁気ディスクと光学読み取りの両方が検討された。1970年、映像を周波数符号化でディスク表面のピットで記録し、レーザーで読み取る方式に決定した。1972年、VLPのプロトタイプが公開された。
一方、アメリカの技術者、デビッド・ポール・グレッグ (David Paul Gregg)が、1958年に最初の光ディスクによる動画再生装置を考案した。これは、ディスク表面のピットをレーザーで読み取る構造であった。MCA がこの特許を買い取り、DiscoVision と呼ばれた光ディスクの映像再生装置を開発していた。両社は1974年に提携し、規格の統一と共同開発を進めた。
VLPの製品化は1978年で、フィリップスは北米市場にLaserVision という製品名で投入した。しかし、VHS のビデオデッキと比べ高価で、映像ソフトも約100タイトルしかリリースされず、撤退に追い込まれた[ 注釈 10] 。
LaserVisionの規格は、1979年 に参画したパイオニア が単独でLaserDisc の名前で製品開発と市場開拓を継続した。特に日本市場では家庭用プレイヤーの他に業務用カラオケ装置の記録媒体としても普及したため、DVD が浸透するまでエコシステムを維持できていた。
フィリップス製コンパクトディスク・プレイヤー CD 100の販売の様子。(アムステルダム 、1982年 撮影)
1974年 、ALP(Audio Long Play)プロジェクトが始まった。ALPの仕様は、ディスク径が200mmで、VLP(Video Long Play)からレーザー読取の技術を転用が考えられた。初期の議論の中心は、VLPで採用されたFM変調によるアナログ記録をALPでも採用するか、別方式を新たに開発するかであった。問題は、FM変調ではディスクのわずかな損傷や汚れがあると読み取りエラーが発生し、再生音に影響をあたえる点にあった。
コンパクトカセット の開発を主導した経歴を持ち、フィリップスのオーディオ製品部門の技術ディレクターであったルー・オッテンス が、ALPプロジェクトに参加した。オッテンスは、製品部門に小型ALPプレイヤーの開発を指示した。また物理学研究所にALPで音声記録の方法の開発を依頼した。物理学研究所では、従来のFM変調符号化とPCM方式の符号化を並行して開発を行った。
1977年 、ルー・オッテンスはALPの製品仕様を以下のように決定した。
直径115mmの光ディスク[ 注釈 11]
量子化ビット14bit
サンプリング周波数44.1kHz
エラー訂正機能を持つPCM符号化によるデジタル記録
最大60分の再生時間
ALPプレイヤー用のD/Aコンバーター の開発も物理学研究所のテーマであった。サンプリング周波数である44.1kHzの4倍で駆動する14ビットD/Aコンバーターが開発された。物理学研究所は、コンパクトディスクを実現する上でで重要な機構であるレーザー一体型の光学ピックアップとサーボ機構 の開発を主導した。
一方、日本 のソニー でも技術研究所の中島平太郎 や土井利忠 が直径300mmで再生時間150分の光ディスクによる音楽再生装置を研究していた。特に土井はエラー訂正のあるデジタル記録が最適であると社内で主張していた
。
1978年 、フィリップス本社を訪問したソニーの大賀典雄 に開発中のALPのデモンストレーションが行われた。その場でフィリップスからソニーに対して共同開発の打診があり、1979年 にソニーとの共同開発が始まった。ソニー側の主張が採用となり、光ディスクの直径を120mm、最大再生時間が74分に変更した。また量子化ビットについても、ソニー側が主張した16bitに変更された。
物理学研究所のケイス・スホウハメル・イミンク が、データ列を光ディスクのピットの物理パターンに変換するためにEFM を開発した。またソニー技術研究所とフィリップス物理学研究所が共同で、クロスインターリーブとリードソロモンを組み合わせたエラー訂正CIRS (Cross Interleaved Reed-Solomon code)を開発した。
フィリップスのデザイン部門が作成したテレビ電話のデモンストレーション
1970年代、物理学研究所では通信技術研究グループとテレビ技術研究グループが共同で音声通話だけでなく双方向の映像コミュニケーションができる電話システムの研究が行われていた。通信技術研究グループでは、映像信号の伝送方法、既存の電話通信網との統合方法、交換機の開発を行った。テレビ技術研究グループは主としてテレビ電話端末機の開発を行った。
当時の技術では、既存の電話線に映像信号を統合することは困難で、アナログ映像用の信号線を別で送る方式となった。テレビ電話端末は、カメラ、モニター、マイク、スピーカーが組み込まれており、机の上の書類やスケッチを他者側に見せる工夫もなされていた。
最初に15台のテレビ電話端末が作成され、物理学研究所と本社取締役から選ばれたメンバーのオフィスに設置された。その後、PTT(オランダ郵便電話公社)の協力で、より広域な実験も行われた。
1976年 7月1日 にプロジェクトは中止となった。映像信号と音声信号の統合の見込みが立たず、既存の電話網をそのままではテレビ電話サービスを提供することは困難であると判断されたためであった。
1962年 、フィリップスが集積回路 の市場への参入を表明すると、物理学研究所の光学、計測制御などを専門とする研究員からなる集積回路製造装置の研究チームがつくられた。
1960年代、マスク・アライナー と呼ばれる装置で、シリコンウェハと1対1のマスク原版を転写して集積回路を製造していた。集積回路の配線パターンの微細化が進むと、1チップ分のマスク画像をウェハ上に転写を繰り返すステッパー が有望であると考えられるようになった。物理学研究所内ではステッパーのことをシリコン・リピーター(Silicon Repeater)を略したSiRe と呼んだ。1970年 から本格的にステッパー研究が始まった。
1974年 、最初のステッパーSiRe-1 が完成した。6台製造され、フィリップスの半導体工場で使われた。1977年に物理学研究内にSiRe-2 の開発チームが発足した。SiRe-2は1980年 に完成し、自社工場のSiRe-1を置き換えた。経営陣は、ステッパーの商業的価値を見出し、SiRe-2はPAS 2000 として製品化され[ 注釈 13] 、IBM などに納入した。
しかし、フィリップスは半導体製造装置市場で苦戦し、半導体製造に精通したパートナー企業を探したが、候補企業との交渉は失敗を重ねた。1984年 、ASMインターナショナル と合弁して半導体露光装置を開発製造するASMリソグラフィー社(1988年にフィリップスからスピンアウトし、現在のASML )を設立した。物理学研究所の研究チームは、油圧サーボを電動リニアサーボモータに変更するなど重要な改良を加えたSiRe-2A を開発した。1988年 に、SiRe-2AはPAS 2500/10 としてASML で製品化された。
1984年 、フィリップスは1MbitのSRAM を開発し、集積回路製造で世界トップレベルに立つプロジェクトを立ち上げた。これを実現するためには、配線幅700nmの製造プロセスが必要で新たなステッパーが必要であった。物理学研究所にSiRe-3 開発チームが結成された。開発チームはカール・ツァイス に光学レンズ設計を依頼した。1987年 、365nm波長の紫外線リソグラフィー、6インチ・シリコンウェア対応のステッパーであるSiRe-3A とSiRe-3B の2台を完成させ、自社工場で実際に1Mbit-SRAMの製造を行った。ASMLはSiRe-3をベースにPAS 2500/40 の製品化を行った。
集積回路の微細化が進むと、回路全体を1度の露光で転写するのではなく、光学系の中心部分に細いスリットを入れて、スリットを滑らせながら(ステージを動かしながら)露光する方式が望まれた。ASMLはこの方法を「ステップ・アンド・スキャン」とよび、1991年 に物理学研究へプロトタイプの開発を依頼した。研究所ではSiRe-4 と呼ばれる開発チームを組織した。SiRe-4では、ステッパーの駆動系と測定系を物理的に完全分離し、レチクル、レンズ、ウェハの相対誤差をリアルタイムで測定できる差動干渉計を開発した。SiRe-4 をベースにASMLはステップ・アンド・スキャン機構を世界で初めて採用したPAS 5500/500 を製品化した[ 注釈 14] 。
1997年 、ASMLは、物理学研究所に極端紫外線リソグラフィ (EUV)の基礎開発を依頼した。また液浸 によるリソグラフィ など次世代のステッパー要素技術開発も共同で行われていた。ただ、フィリップス本体の低迷から研究員や研究設備がASMLへ移管されていった。また物理学研究所で、他の半導体 に関する基礎研究とその人的資源はフィリップスの半導体部門がスピンオフしてできたNXPセミコンダクターズ に引き継がれた。
国際連合総会ビルにあるフーコーの振り子
ニューヨーク にある国際連合本部 の国際連合総会棟のロビーにつながる階段にフーコーの振り子 がある。これは、1955年 にオランダ のユリアナ女王 が寄贈したものである[ 注釈 15] 。
振り子は、物理学研究所で設計、製作されたものである。弦の長さが約23m、錘の質量が約90kgで、弦の支持装置に自在継手、楕円歳差運動対策としてシャロン環、振り子の減衰対策として電磁石がそれぞれ使われている
振り子の弦の長さは約23m、錘の質量が約90kgで、弦の支持装置に自在継手、楕円歳差運動対策としてシャロン環、振り子の減衰対策として電磁石がそれぞれ使われている。減衰対策の電磁石は錘が真下を通過する点に設置されており、また錘の下面に銅板 が設置されている。錘が電磁石の上を通過するタイミングで磁界を発生させると、銅板に渦電流 が発生し、電磁石と反発する方向にローレンツ力 が生じる。これにより、振り子の減衰を防止することができる
プロジェクトZeusは、フィリップス物理学研究所内で行われていた、薄型ディスプレイの開発プロジェクトである。1986年、研究員のジェラルド・バン・ゴルコム(Gerard Van Gorkum)らが、ブラウン管 を10cm程度の薄さにした試作機「アポロ」を作った。これは、電子銃をブラウン管の底に置き、ここから発射された電子を水平近くまで曲げて、蛍光面を走査することで、薄型ブラウン管を実現したものであった。
ゴルコムは、真空のガラス管に電圧を加えると、電子銃から放出された電子がガラス管の側壁を跳ねながら、所定の位置にある蛍光体まで輸送できることを、1989年 に発見した。ゴルコムはこの現象を電子ホッピング(Electron Hopping)と命名した[ 注釈 16] 。
対角71cm程度(約28インチ)の薄型ディスプレイが試作され、鮮明な画質を実現していた。しかし1996年 、プロジェクトは中止となった[ 注釈 17] 。中止に至った原因は、プロジェクトが秘密裏に行われ、競合他社は液晶ディスプレイ やプラズマディスプレイ に注力しており、共同開発するパートナー企業を見つけることができなかったことが挙げられる。