フィリップス物理学研究所

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1923年に竣工した旧フィリップス物理学研究所の建物。2013年、映画館に改装された。

フィリップス物理学研究所(フィリップスぶつりがくけんきゅうじょ、: Philips Natuurkundig Laboratorium、通称:NatLab)は、かつてオランダに存在した研究所である。

総合電機メーカーのフィリップスの中央研究所として1914年に設立され、真空管コンパクト・ディスクステッパーなどの半導体製造技術で画期的な技術開発を行った。また、サイクロトロン人工衛星などの研究開発でも知られる。

1970年代の最盛期には、2,000人以上の研究員や技術者をかかえ、フィリップスの年間売上高の約1%の予算が投じられ、自由な雰囲気のもと研究が行われた。

1990年代、全世界的にフィリップスの研究活動を統括するフィリップス・リサーチに統合された。その後、フィリップスの組織改編にともない研究所の活動は段階的に縮小した。2012年にハイテクキャンパス・アイントホーフェンの土地と建物が売却され、事実上閉鎖となった。

最初期

フィリップス物理学研究所の最初の建物の完成を記念した銘板

フィリップスは白熱電球のヨーロッパ市場で、1910年頃にはシェア3位になり、従業員数も2,000人に達していた。しかし、ゼネラル・エレクトリックがタングステン・フィラメントとガス充填という技術革新で照度と寿命を大幅に改善した電球を発表した。フィリップスは、ゼネラル・エレクトリックにライセンス料を支払い、技術導入を行った。これらの技術は、1900年に設立されたゼネラル・エレクトリック研究所(w:General Electric Research Laboratory)の成果であった[1]。ゼネラル・エレクトリックは、AEGシーメンスなどドイツの電球製造企業と契約を結び、これがフィリップスの脅威となった[2]。ジェラルド・フィリップス(w:Gerard Philips)は、基礎研究への投資が必要であることを認識し、フィリップスでも独自に基礎研究を行うことを決定した。

1913年10月23日、フィリップスはオランダの新聞に博士号を持つ自然科学者を募集する求人広告が掲載された[3]。この求人に、ライデン大学ヘイケ・カメルリング・オネスのもとで研究助手をしていたジル・ホルストが応募してきた[4][注釈 1]

フィリップスはジル・ホルストを採用し、1914年アイントホーフェンの工場の4階にあてがわれた研究室で働き始めた[4]。初期の研究テーマは、白熱電球の性能を向上させることであった[4]。特に、カーボン・フィラメントにより電球内部が黒く変色してしまう問題を解決することであった[4]

1923年、アイントホーフェンのストライプS(Strijp-S)と呼ばれた地区に研究所専用の建物が竣工した[5]。1920年代の主要な研究員としてに、ドイツの物理学者のグスタフ・ヘルツがいた[4][注釈 2]。物理学研究所で、ヘルツはガス放電の研究に取り組んだ[6]

ホルストは、電球に充填するガスに着目した。フィリップス製の電球では、フィラメントに流れる電流よりもガスを流れる電流が大きいことがわかった[7]。ホルストらは、アルゴンと窒素の混合で改善することを発見した[7]。また、水素、ネオン、ヘリウムなどの気体を使い、ガス放電と発光現象の実験を行った[7]。これらのガス放電の研究は、1930年代にナトリウムランプ高圧水銀灯の製品化につながった[8]

真空管研究時代

第一次世界大戦1917年頃、オランダに不時着したドイツ軍の飛行機から無線受信機が発見された[9]。オランダ軍は同様の無線受信機の試作を検討し、フィリップスに真空管の開発を依頼した[9]。フィリップスは無線向けの真空管の市場規模について懐疑的で、この依頼を断った[9]

しかし、第一次世界大戦が終わると、ラジオ放送の開始を見据え、真空管の研究を本格的に始めることになった。当時、無線機技術はアメリカRCAイギリスのマルコーニ・カンパニーが先行していた[10]

1922年、ホルストはバルタザール・ファン・デル・ポールを主任研究員として招き、ラジオ向けの真空管の研究開発を任せた[11]。ファン・デル・ポールの最初の研究テーマは、真空管向けの酸化バリウム・コーティングしたフィラメントの開発であった[12]。ただファン・デル・ポールは、実験より理論を好み、特に無線伝送をテーマとした。1927年、ファン・デル・ポールらは真空管を使った発振回路を発見し、この動作を説明するためにファン・デル・ポール方程式と呼ばれる数理モデルを発表した[13]

1924年、ベルナルド・テレゲン(w:Bernard D. H. Tellegen)が物理学研究所に配属され、ファン・デル・ポールのチームに加わった。テレゲンは、まず三極真空管の研究に着手した。1926年五極真空管を発明した。五極真空管は民生用ラジオ受信機や、第二次世界大戦で連合軍側のレーダーに幅広く使われた[9]1932年にはフィリップスの累計の真空管製造数が1億個に達した[9]。この発明はフィリップスをヨーロッパ最大のラジオ真空管メーカーに成長させた[9]

第二次世界大戦期

1940年5月10日ドイツ国防軍がオランダに侵攻した。フィリップス家や真空管の製造装置の一部などはイギリスへ退避した。一方で、フィリップスの工場の大部分の人員や設備、物理学研究所のほとんどの研究員もオランダに残ることになった。ドイツ監督下で、物理学研究所の活動は継続された。

1942年12月6日、連合軍がオイスター作戦を実施した。これはアイントホーフェンのフィリップスの工場を標的に爆撃し、ドイツの真空管の供給を断つ目的であった。人的被害を最小化するために爆撃は日曜日に行われたが、約150人の民間人が犠牲となった。フィリップス物理学研究所にも被害がでた。

カシミール時代

ヘンドリック・カシミール、1958年撮影

1946年、ジル・ホルストが所長を退任する。後任として、1942年ライデン大学から物理学研究所に移籍したヘンドリック・カシミールが所長に就任した[14]

カシミールは、物理学研究所の基礎研究が不十分であると考えた[14]。製品に直結する研究だけでなく、具体的な製品応用の見通しがつかない研究テーマ、例えば量子力学超伝導天体物理学原子核物理学といった分野の研究テーマも推進した[14]。カシミール自身は、1947年に導電板の間に量子力学的な引力が生じること(カシミール効果)を予想した。

また、手狭になったストライプS(Strijp-S)から、アイントホーフェンの南のワルーレ(Waalre)に物理学研究所の施設を移転した。

カシミールが所長であった1972年までの期間で、フィリップスに利益をもたらした物理学研究所の成果として、業務用ビデオカメラのプランビコンの開発、半導体分野でIntegrated injection logicの開発、半導体製造プロセスのLOCOSの開発が挙げられる[15]

カシミールが所長であった時代の研究所の雰囲気をケイス・スホウハメル・イミンクは以下のように語っている。

私たちは、関連性のある研究を自由に行うことができた。事前に決められた課題はなく、完全な自由と自律的な研究支援が与えられていた。私たちは、その日に何をするか分からないまま仕事に向かった。研究の進め方に関するこの考え方、むしろ曖昧な考え方が、結果として驚くべき発明を生み出した。まさにイノベーションの天国だった。 ケイス・スホウハメル・イミンク[16]

研究所改革

1972年、カシミールが所長を退任した。カシミールが所長を務めた1945年から1972年の間で研究員1人あたりの年間研究費は約10倍に増加した[17]オイルショックによる経済の低迷を受け、物理学研究所も変革を求められた。新たに所長となったのは、パネンボルグ(Pannenborg)であった[18]。パネンボルグは、経営陣へのプレゼンテーションで、基礎研究から、市場調査によるニーズ発掘を重視すべきと主張した[17]。彼はこれを「テクノロジー・プッシュからマーケット・プル」と表現した[17]

物理学研究所の持つ技術が応用でき、市場拡大が見込まれる2つの分野として、コンシューマー向けのコンピュータと半導体製造であった[19]

再編と閉鎖

ハイテク・キャンパス・アイントホーフェン、2013年撮影

1980年代に入ると、フィリップスの業績悪化が顕著となった。1989年に、物理学研究所の予算額の3分の2は、製品部門からの委託研究として自律的に確保する方針に変更した[20]。また1990年に発表されたコスト削減策により、NatLabと海外研究部門を合わせた人員が4,000人から3,300人に削減された[20]

1990年にフィリップスのCEOに就任したヤン・ティマー(Jan Timmer)は「センチュリオン作戦(: Operatie Centurion)」と呼ばれた、経営再建策を示した。これに従い、ASMLなどの事業がフィリップスから切り離された。

1998年、フィリップスはアイントホーフェンにあった物理学研究所の敷地を再整備し、フィリップス・ハイテク・キャンパスを開設した。2003年に、キャンパスをハイテク・キャンパス・アイントホーフェン(w:High Tech Campus Eindhovenと改名し、他社に施設を解放した。

2000年代に入ると、フィリップスはディスプレイや家電製品などの部門が売却され、ヘルスケア、ライススタイル、照明の3分野に経営資源を集中することになった[21]。研究所の研究テーマもこれらのテーマが中心となり、また大学や部品サプライヤーなどと提携した研究テーマが過半を占めるようになった。一方で、研究者の自発的な研究テーマは減少した。

2012年までに、製品開発や販売から独立した中央研究所としての機能は縮小を続けた。2012年3月にハイテクキャンパス・アイントホーフェンの土地と建物が投資家グループに4億2500万ユーロで売却され、フィリップスはテナントとして入居する形に移行し、事実上、物理学研究所は閉鎖された。

2013年10月11日、1923年に建築された建物をリニューアルし、シネマコンプレックスとしてNatlabシネマがオープンした[22]

ヘルドロップ・プロジェクト・センター

1950年代後半、アイントホーフェンのストライプSの物理学研究所の施設のスペース不足が顕著となった。1959年、サイクロトロンとその応用の中性子発生装置、電子顕微鏡などの研究チームが、アイントホーフェンから東に約5km離れたヘルドロップ(Geldrop)へ移転した[23]

1970年、オランダ初の天文観測衛星ANSの開発拠点として、ヘルドロップ・プロジェクト・センター(Project Centrum Geldrop)として発足した 。天文観測衛星プロジェクトが終了した後も、オフィス・オートメーションやパーソナルコンピューター、光通信に関する研究拠点として機能した。1991年、ヘルドロップ・プロジェクト・センターは閉鎖され、ワルーレ(Waalre)に物理学研究所に統合された。

主な研究

脚注

参考文献

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