フィリッポ・ガッリ
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2012年のガッリ | ||||||
| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Filippo Galli | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1963年5月19日(61歳) | |||||
| 出身地 | モンツァ | |||||
| 身長 | 181cm | |||||
| 体重 | 72kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF (CB) | |||||
| ユース | ||||||
| 1981-1982 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1982-1996 |
| 217 | (3) | |||
| 1982-1983 |
→ | 28 | (2) | |||
| 1996-1998 |
| 54 | (2) | |||
| 1998-2001 |
| 93 | (2) | |||
| 2001-2002 |
| 28 | (1) | |||
| 2002-2004 |
| 38 | (1) | |||
| 通算 | 458 | (11) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1984-1987 |
| 7 | (0) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2006-2008 |
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| 2008-2009 |
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1. 国内リーグ戦に限る。2018年7月29日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
フィリッポ・ガッリ(Filippo Galli, 1963年5月19日 - )は、イタリア・モンツァ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはDF。
普段はセンターバックとしてプレーしたが、時には右サイドバックやスウィーパーとしてプレーすることもあった[1]。ACミランに13シーズン半に渡り在籍し、クラブの黄金期を支えた[2]。
ミラン
ミランに在籍した13シーズンの間に、アッリーゴ・サッキやファビオ・カペッロらの下で、セリエAを5回、ヨーロピアン・カップを3回、 インターコンチネンタルカップを2回、UEFAスーパーカップを3回、スーペルコッパ・イタリアーナを4回制覇するなど、大きな成功を収めた[3]。ミランでは通算325試合に出場して4得点、セリエAでは通算217試合に出場して3得点を挙げている。レギュラーを務めていた当初は、フランコ・バレージ、マウロ・タソッティ、パオロ・マルディーニと共に先発していたが[4][5]、
1979年、15歳の時、ACミランの下部組織に入団、この時のチームメートにアルベリゴ・エヴァーニが居た[2]。1982年からはトップチームに昇格したが、セリエCのペスカーラ・カルチョにレンタル移籍し、デビューを果たした[2]。同クラブで28試合に出場し、セリエB昇格に貢献した活躍が認められ、1983-84シーズンにミランへ復帰[2]。1983年9月18日、セリエAデビュー戦となった、ホームのエラス・ヴェローナFC戦では4-2で勝利を飾り、すぐに、フランコ・バレージとコンビを組むようになった[2]。1984年1月15日のアヴェッリーノ戦において、セリエA得点を記録した[2]。同シーズンのリーグ戦28試合に出場した[2]。1987-88シーズン、レギュラーとしてプレーし、自身初のリーグ制覇を果たした[2]。
1988-89シーズンからは、怪我の多さからアレッサンドロ・コスタクルタの控えに回ることが多くなった[6][7][8][9][10]。チャンピオンズカップ決勝のステアウア・ブカレストもベンチスタートとなったが、後半途中から出場して優勝を果たした[2]。このシーズン、怪我で離脱した影響で、19試合の出場に留まった[2]。1989-90シーズン、再びレギュラーの座を奪取していたが、練習中にマルコ・ファン・バステンと激突し、膝を故障、かなりの試合を欠場[2]。チャンピオンズカップ決勝のベンフィカ戦でチームは2連覇を果たしたが、僅かな出場時間を得ただけだった[2]。1990-91シーズン、インターコンチネンタルカップでは、マルディーニが負傷したことにより、前半25分から出場し、優勝を果たした。このシーズン年間30試合に出場した[2]。
1991-92シーズン、ファビオ・カペッロが監督に就任して以降、緊急時に起用される、頼れる控え選手という立ち位置となったが[2]。1993-94シーズン、に行われたFCバルセロナとのUEFAチャンピオンズリーグ決勝では、出場停止のコスタクルタに代わり先発出場。ロマーリオに仕事をさせず、優勝に貢献した[11][2]。
レッジャーナ以降
1996-97シーズン冬の移籍市場でACレッジャーナ1919に移籍した[2]。2シーズンプレーした後、セリエBのブレシア・カルチョへ移籍、3シーズンレギュラーを務め、104試合に出場、その間、1999-00シーズンにブレシアはセリエAに昇格に貢献した[2]。
2001年からはジャンルカ・ヴィアリが監督を務めていた、ディヴィジョン1のワトフォードFCへ加入し、自身初めて国外でプレー[2][12]。2002年には母国のSSDプロ・セストに移籍し、2004年に41歳で現役を引退した[2]。
代表歴
A代表戦の出場歴は無いが、1984年から1987年の間に、U-21サッカーイタリア代表の試合にはに7試合出場している。また、UEFA U-21欧州選手権1984と1984年オリンピックにも参加している[13]。
指導歴
2004年の引退後は指導者としての道を進み、2008年8月からは古巣ACミランのユースチームの監督を務め、また、ミラン時代のチームメイトのカルロ・アンチェロッティのアシスタントコーチを、同じくミラン時代のチームメイトのマウロ・タソッティと共に務めた。また、一時期は評論家としても活動していた。2012年9月、FIGCによる育成機関コヴェルチャーノでコーチングを学ぶ[14]。
2009年よりミランのユース部門責任者を務め、ジャンルイジ・ドンナルンマやマヌエル・ロカテッリらを輩出[15]。2017-18シーズンを以て同職をマリオ・ベレッタに譲った[16]。
プレースタイルなど
知性とテクニックがあり、ヘディングが強く、相手からボールを奪う能力も高く、1対1の対応や相手選手のマンマークを得意とした、ディフェンダーであった[2]。シルビオ・ベルルスコーニから「ミランというチームのスタイルを最も体現している選手である」と評価されていた[2]。しかし、キャリアの全盛期を迎えたいた頃の大怪我により、順調に進んでいたキャリアは妨げられた[2]。