フェルディナント・ベルトゥー

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フェルディナン・ベルトゥー(Ferdinand Berthoud、1727年3月18日 - 1807年6月20日)は、スイス時計師

1753年パリにて、時計師親方となる。王室および海軍付き機械時計師の座に就き、とりわけマリン・クロノメーターの分野で卓越した規模の作品を残した。

フェルディナン・ベルトゥーはブランド名でもあり、2006年Chopardが買収した[1]2015年9月から高級時計を販売している[1][2]

フェルディナン・ベルトゥーは1727年3月18日、スイス国ヌーシャテル州ヴァル=ド=トラヴェールのプラスモン=シュル=クヴェにて、時計師・振り子時計職人の貴族家庭に誕生した。

父ジャン・ベルトゥーは、大工頭兼建築家。クヴェの重要市民、ヌーシャテル州の資産家、そして1717年から1732年までヴァル=ド=トラヴェールの判官を務めた。母ジュディス・ベルトゥー(1682-1765)はクヴェ出身。

フェルディナンには兄弟が4人:アブラハム(1708-?);ヴァル=ド=トラヴェール判官、ヴェリエール裁判所書記、クレシエで弁護士、時計・振り子技術専門家のジャン=アンリ(1710-1790);デザイナーのジャン=ジャック(1711-1784);農業従事者、振り子時計職人のピエール(1717-?)。彼はクヴェ市議会議員となり、1741年マルグリット・ボレル=ジャケと結婚し、2人の息子に恵まれた。ピエール=ルイ(1754-1813パリ)、そしてアンリ(?-1783、パリ) は叔父フェルディナン・ベルトゥーの才能と関係の深いキャリアを築くことになった。

姉妹が2人:ジャンヌ=マリー(1711-1804)と、スザンヌ=マリー(1729-?)。

  • 1741年
    • 14歳でフェルディナン・ベルトゥーはクヴェ在住の兄ジャン=アンリのもと、振り子時計職人の見習いを始め、科学教育を受けた。1745年4月13日、フェルディナン・ベルトゥーは学業を終え、時計師・振り子時計職人の見習い終了。
  • 1745年
    • 18歳のフェルディナン・ベルトゥーは、時計師・振り子時計職人のキャリアを極めるため、パリに移住。パリ周辺地域の時計師親方のもと、見習いとして働く。研究書によると、フェルディナン・ベルトゥーは一時ジュリアン・ル・ロワのもとで就業し、驚くべきスピードで技術を身につけると書かれている。親方の子息ピエール・ル・ロワ1717-1785)とは見習い仲間であり、後に彼のライバルとなる。
  • 1753年
    • 12月4日国王の特別なはからいにより、同業組合の規定に相反して、フェルディナン・ベルトゥーの昇格が国王顧問会議により決定された。これにより彼は26歳の若さで時計師親方の肩書を正式に取得した。
  • 1755年以降
    • L’Encyclopédie méthodique(方法論百科全書)のために時計製造技術に関する出典記事を複数執筆するよう、フェルディナン・ベルトゥーは依頼を受ける。この百科全書は1751年から1772年にかけて、作家兼哲学者のディドロ(1713-1784)と、数学者哲学者ダランベール(1717-1783)の監修のもと、編集された。フェルディナン・ベルトゥーは1759年に初めて専門書「L’Art de conduire et de régler les pendules et les montres, à l’usage de ceux qui n’ont aucune connaissance d’horlogerie(振り子時計・携帯時計の製作および調整術、時計製造の知識がない人向け)[3]」を出版した。
ロンドンのジョン・ハリソン1693-1776)が開発したマリン・クロノメーターH4を詳細に観察する職務に、1763年国王はフェルディナン・ベルトゥーを任命した。数学者兼王立科学アカデミー代表会員のシャルル=エティエンヌ・カミュ(1699-1768)と、天文学者ジョゼフ=ジェローム・ルフランソワ・ド・ラ・ランド(1732-1807)がそれに同行した。しかしフェルディナン・ベルトゥーにとって、旅は期待外れのものとなった。ハリソンは(500ポンドと引き換えに)彼が製作したクロノメーターH1、H2、H3を見せてくれたが、最も完成度の高いかの有名なH4を見せることはきっぱりと拒んだためである。
ロンドンへの旅で、フェルディナン・ベルトゥーはかの有名なハリソンのH4を目にすることはできかったが、英国科学界への関心を深め、自身の作品や時計製造技術の分野で執筆することの重要性を確認した。そして1764年2月16日、ロンドンのロイヤル・ソサイエティにて「外国人準会員」に選出された。
  • 1764年
  • 1765年
    • フェルディナン・ベルトゥーはザクセン州公使ブリュル伯爵の仲介で、ハリソンと再会するためロンドンへ二度目の旅へ発った。二度目にして、またしてもハリソンはベルトゥーに自身の作品掲示を拒否された。フランス海軍のために同じものを開発する能力が、ベルトゥーに備わっていると十分承知していたためである。(レバー脱進機ハリソンは自身が開発した時計を記述するのに、4000ポンドという法外で抑制効果のある額を見返りとして要求したため)実物を見ることなく、H4の作動原理を記述したのがトーマス・マッジ1715-1795)。経度法会員の英国人時計師として、初のレバー脱進機を発明したことで有名な人物。
  • 1766年
    • 5月7日:フェルディナン・ベルトゥーはショワズール伯爵および海軍大臣の肩書を持つプラズラン公爵(1712-1785)へ論文を送付し、マリン・クロノメーター第6号と第8号の製作計画を提案した。それ以前に製作したマリン・クロノメーターに対する過去の功績への報酬と、英国技術に従った新作マリン・クロノメーター2台の実現に必要な予算として、3000リーヴルの援助を求めた。この論文には、援助金と王室および海軍付き機械時計師の肩書を取得し、マリン・クロノメーターの改良と海上での経度確定に専念したいという、フェルディナン・ベルトゥーの希望が明確に記載されている。
    • 7月24日:国王はマリン・クロノメーター2台の製作計画に賛同し、許可を下した[5]
新作マリン・クロノメーターの精度を保証するため、プラズラン公爵は1768年11月3日、探検家、水路測量技師兼王室海軍将校のフルリウー騎士(1738-1810)と、天文学者、海洋地理学者兼王立科学アカデミー会員のピングレ参事会員(1711-1796)にマリン・クロノメーター第6号と第8号を託した。彼らの任務は、ロシュフォールとサン=ドマング間の往復中、護衛艦リシスで時計を試験することであった。旅は10カ月におよび、時計の試験は成功に終わった。フルリウー騎士の観察結果は、1773年に「Voyage fait par ordre du roi, pour éprouver les horloges marines(マリン・クロノメーターの試験のため、国王の命により実施された旅)」というタイトルで出版された。
  • 1769年
    • フェルディナン・ベルトゥーは、甥であり才能ある若き時計師・振り子時計職人でもあるピエール=ルイ・ベルトゥー、通称ルイ・ベルトゥーをクヴェ(スイス)からパリへ呼び寄せ、その見習いをサポートした。フランスおよびスペイン海軍へ供給するクロノメーターの製作およびメンテナンスにおいて、ルイは叔父を補佐した。
  • 1770年
    • 4月1日:マリン・クロノメーター第6号と第8号の成功に続き、フェルディナン・ベルトゥーは国王および海軍付き機械時計師の免許を取得し、年間3000ポンドの援助金とクロノメーター製作監修担当に就任した。王室からはマリン・クロノメーター20台を受注した。成功はすぐに訪れ、様々な試験遠征や地図作成の旅へ、フェルディナン・ベルトゥーの時計が同行した。
  • 1771年
    • ド・ボルダ騎士(1733-1799)はヴェルダン・ド・ラ・クレンヌ侯爵(1741-1805)の命を受け、フリゲート艦ラ・フロールに乗船し、カナリア諸島やアンティル諸島でマリン・クロノメーターの試験を行う遠征へ旅立ちます。コルベット艦レスピエーグル船長のシャストネ・ド・ピュイセギュール伯爵が、1774年から1775年にかけてカナリア諸島およびアフリカ沿岸の遠征の際、ラ・ブソール船長のド・ボルダ騎士に同行した。
  • 1785年
    • 8月1日:フェルディナン・ベルトゥーはアストロラブ船長のド・ラ・ペルーズ伯爵(1748-1788)に5台のクロノメーターを託した。これは太平洋でジェームズ・クック(1728-1779)が発見した地を補完する目的で、世界一周の旅へ発つためであった。
  • 1788年
    • (ソロモン諸島の)サンタ・クルーズ島沖合で、アストロラブ号が海難事故に見舞われた際、船にのせていた時計は海で消失してしまった。
  • 1791年
    • フェルディナン・ベルトゥーはジョゼフ・ド・ブリュニー・ダントルカストー騎士(1737-1793)の遠征に、マリン・クロノメーター4台を託した。これはルイ16世の要請で、フリゲート艦ラ・ロシェルシュとレスペランスの指導者として、ラ・ペルーズ伯率いる遠征隊の捜索を目的としたものである。
  • 1795年
    • フェルディナン・ベルトゥーは国立学院(フランス学士院)の機械術部門で第一階級名誉会員に選出された。革命以降、国家年金受給者としてルーヴル宮に居を構えたベルトゥーは、絶えず時計製作に取り組み、マリン・クロノメーターのメンテナンスに腐心し続ける。しかし、何よりもまず彼が専念するのは、彼の著書で最も重要なHistoire de la Mesure du temps(時間計測の歴史)(1802年)の出版であった。
  • 1804年
    • 7月17日:フェルディナン・ベルトゥーは学士院会員として、レジオンドヌール勲章シュヴァリエの称号をナポレオンから授与された。
  • 1807年
    • 6月20日:フェルディナン・ベルトゥーは子孫を残すことなく、80歳で逝去した。モンモランシー(ヴァル=ドワーズ県)のグロスレに埋葬され、そこには彼の記念碑が建てられている。

フェルディナン・ベルトゥーのキャリアは、啓蒙の世紀から帝政期にかけて、革命を乗り越えつつも、彼が生きた時代同様、非凡なものであった。その才能が同時代を生きた人々に認められることで、国立学院の会員となり、ルイ15世、ルイ16世統治下ならびにナポレオン帝政期に王室および海軍付き機械時計師という誰もが羨む地位にも恵まれた。

作品

注釈と参考文献

ともに参照

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