ヘンリー・ド・ヴィアー (第18代オックスフォード伯)
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| ヘンリー・ド・ヴィアー Henry de Vere | |
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| 第18代オックスフォード伯 | |
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| 在位 | 1604年6月24日 - 1625年6月 |
| 出生 |
1593年2月24日 |
| 死去 |
1625年6月2/9日(32歳没) |
| 埋葬 |
1625年7月25日 |
| 配偶者 | ダイアナ・セシル |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | 第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー |
| 母親 | エリザベス・トレンサム |

第18代オックスフォード伯ヘンリー・ド・ヴィアー(Henry de Vere, 18th Earl of Oxford, 1593年2月24日 - 1625年6月2/9日)は、イングランド貴族、廷臣、軍人。
ヘンリーは1593年2月24日、ミドルセックスのストーク・ニューイントンで、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーとその2番目の妻エリザベス・トレンサムの一人息子として生まれた。1604年6月24日、父の跡を継いでオックスフォード伯となった[1]。
ヘンリーはオックスフォード大学で教育を受けたと伝えられている。1604年11月にインナー・テンプルの一員となり、1605年8月30日にオックスフォード大学修士号を授与された。1610年6月3日にバス騎士とされ、1611年11月15日にはヘイヴァリング・パークの管理人に任命された。若い頃は放蕩者として知られていた[1]。
1613年初頭、母が亡くなると、ヘンリーは母の財産の一部を相続し、長期の海外旅行に出発した。ブリュッセルからフランスを経由してイタリアへと旅立った。1617年にヴェネツィアで共和国のために奉仕する志願兵団を結成することを申し出て、アンコーナで異端審問の手に落ちた親族のシドニー・バーティの釈放を得るために尽力した[1]。
ヘンリーはまだ海外にいた間、複雑なもめ事に巻き込まれていた。サー・エドワード・コークの意に反して、コークの妻エリザベス・ハットンは、ヘンリーに娘フランシス・コークとの結婚を提案してきた。国王ジェームズ1世はフランシスを、初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの弟であるサー・ジョン・ヴィリアーズと結婚させたいと考えていた[2]。エリザベス・ハットンは、実際にはコークがバッキンガム公に対する宮廷での地位向上を図ろうとする計画を妨害していた。エリザベスはフランシスが既にオックスフォード伯に嫁ぐことを約束していると主張し、同盟国の宮廷においてフランシスを手の届かない存在にすることで、この計画を阻止しようとした[3]。この縁談の失敗は、後にバッキンガム公とオックスフォード伯の間に確執の種を撒くこととなったが、サー・ジョン・ヴィリアーズとフランシスの結婚は1617年9月に実現した。ヘンリーは1618年10月にイングランドに帰国した。1619年5月22日、ヘンリーは世襲の大侍従長に任命された[1]。
1620年6月から11月にかけて、ヘンリーはプファルツ選帝侯領にいる親族のサー・ホレーショ・ヴィアーの元で仕え、帰国後に1621年1月に軍議の一員に任命された。この会議は、イングランドがプファルツ選帝侯フリードリヒ5世に提供する援助を決定することを命じられていた。1621年7月、スペインとの交戦に対する軽率な不満表明が原因で、ロンドン塔に数週間投獄された。1621年12月、バッキンガム宮殿から海峡警備を任じられたアシュアランス号の指揮官に指名された。ヘンリーはオランダのインド洋船を拿捕し、この船は修復を余儀なくされた。ヘンリーは1622年3月まで海上で勤務したが、バッキンガム公の弟クリストファー・ヴィリアーズがヘンリーの従姉妹エリザベス・ノリス[注釈 1](ヘンリーの異母姉ブリジット・ド・ヴィアーと初代バークシャー伯フランシス・ノリスの娘)と結婚しようとした際に干渉したため指揮権を剥奪された。ヘンリーは「正義がバッキンガム公の手を通してのみ行われるのではなく、自由な時が来ることを望む」と述べたと言われている。この発言のためヘンリーはロンドン塔に送られ、ジェームズ1世は法務長官に星室庁でヘンリーを起訴するよう命じた。友人らが再三釈放を求めたにもかかわらず、ヘンリーは20ヶ月間厳重に監禁された。1623年12月30日、チャールズ王太子とバッキンガム公自身の「来たる議会会期の前に事態の収拾を図りたい」という強い要請により、ついにヘンリーは釈放された[4]。
その直後(1624年1月1日)、ヘンリーは第2代エクセター伯ウィリアム・セシルとエリザベス・ドルーリー[注釈 2]の娘であるダイアナ・セシルと結婚した。ダイアナは美貌で知られ、オックスフォード伯家に3万ポンドの財産をもたらした。フランシス・ベーコンは失脚の憂き目に遭い、結婚の月にオックスフォード伯に宛てた追従的な手紙で恩恵を求めた。ヘンリーはバッキンガムとの和解を断った[1]。
1624年6月、ヘンリーはプファルツ選帝侯のために編成された義勇歩兵連隊の大佐としてネーデルラント地方に赴いた。6月にはブレダ救援作戦の一環としてテルハイデンへの攻撃に参加したが、失敗に終わった。しかし、その後まもなくデン・ハーグで熱病のため亡くなった。1625年7月25日、ウェストミンスター寺院に埋葬された。ヘンリーには子女がおらず、又従兄弟のロバート・ド・ヴィアーが跡を継いだ[1]。詩人エイブラハム・ホランドはヘンリーへの哀歌を書き、エイブラハム・ホランドの死後、その兄弟で印刷業者のヘンリー・ホランドによって『Hollandi Posthuma』と題された詩集として出版された[5]。