ペドロ・トログリオ
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| 名前 | ||||||
| 本名 |
ペドロ・アントニオ・トログリオ Pedro Antonio Troglio | |||||
| 愛称 | チャンチャ(スペイン語で子豚)[1] | |||||
| ラテン文字 | Pedro TROGLIO | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1965年7月28日(60歳) | |||||
| 出身地 | ルハン | |||||
| 身長 | 172cm | |||||
| 体重 | 75kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1983-1988 |
| 59 | (3) | |||
| 1988-1989 |
| 32 | (1) | |||
| 1989-1991 |
| 40 | (1) | |||
| 1991-1994 |
| 106 | (13) | |||
| 1994-1996 |
| 56 | (20) | |||
| 1997-2002 |
| 124 | (4) | |||
| 2002-2003 |
| 31 | (4) | |||
| 通算 | 448 | (46) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1987-1990 |
| 21 | (2) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2004-2005 |
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| 2005-2007 |
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| 2007-2008 |
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| 2008-2010 |
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| 2010-2011 |
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| 2011-2016 |
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| 2016 |
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| 2017-2018 |
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| 2018-2019 |
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| 2019- |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ペドロ・アントニオ・トログリオ(Pedro Antonio Troglio, 1965年7月28日 - )はアルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
現役時代
CAリーベル・プレートでキャリアを始める。リーベルでは、リーグ優勝や、リベルタドーレスカップの優勝を経験。1986年のトヨタカップでも優勝した。 代表ではコパ・アメリカ1989に出場した他、1990 FIFAワールドカップにアルゼンチン代表の一員として出場し、6試合に出場、ソビエト連邦戦ではゴールを挙げた[2]。 イタリアではラツィオ、アスコリ、ヴェローナで4シーズンをセリエA、2シーズンをセリエBでプレーした。ベローナでは代表のチームメートであったクラウディオ・カニーヒアと共にプレーした。
その後1994年アビスパ福岡の前身、当時JFLの藤枝ブルックスに加入、1978 FIFAワールドカップでアルゼンチン代表であったホルヘ・マリオ・オルギン監督の下、1995年のJFL優勝に貢献、このシーズンの°ベストイレブンにも選出された。同年のJFLオールスターサッカーのメンバーに選出され、ウーゴ・マラドーナとのコンビで再三好プレーを見せると、バウタザールの得点をアシストした[3]。
1996年にはJリーグに昇格し、3月23日の名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[4]、10ゴールを挙げた[5][4]。
選手生活の晩年は母国で過ごし、クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタで約5年間プレー、最後は4部所属のクラブ・ビジャ・ダルミネで現役を引退した。
指導者時代
プリメーラB・ナシオナルのCDゴドイ・クルスで初めて監督を務めるがシーズン途中に退任。2005年3月、不振に喘ぐヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタの指揮官の座に就きクラブをプリメーラ・ディビシオンに残留させることに成功した[6]。翌シーズンのアペルトゥーラではクラブを過去最高タイの2位に導いた。同年6月、ヒムナシアで自身が着けていた背番号である21番がクラブ初の永久欠番に指定された。以降クラブはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタとのダービーマッチでは0-7の大敗を喫するなど再び下降線を辿り、2007年7月に辞任した。しかしファンからの支持は根強く、成績低迷に関する批判はフアン・ホセ・ムニョス会長に向けられた。
同年、ホルヘ・ブルチャガが退任したCAインデペンディエンテの監督に就任したが、翌年3月には成績不振により解任された。セロ・ポルテーニョの監督として2009年のアペルトゥーラを制すると、翌年5月30日にはクラウディオ・ボルギに代わってAAアルヘンティノス・ジュニアーズを率いることになった[7]。2011-12アペルトゥーラでは開幕以来低迷し、2011年9月18日に辞任することを発表した[8]。
個人成績
代表歴
- 1987年 - 1990年 アルゼンチン代表
- コパ・アメリカ1989
- 1990 FIFAワールドカップ (準優勝、6試合1得点)
試合数
- 国際Aマッチ 21試合 2得点(1987年-1990年)[11]
| アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1987 | 1 | 0 |
| 1988 | 3 | 1 |
| 1989 | 8 | 0 |
| 1990 | 9 | 1 |
| 通算 | 21 | 2 |