ペナンの歴史
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この項ではペナン州(マレー語:Pulau Pinang)の地域史を述べる。現在のペナン州はペナン島と対岸のセベラン・プライからなるが、両地域にはイギリス東インド会社による取得以前から人々が居住しており、ペナン島では少なくとも18世紀初頭のマレー人集落の存在が記録されている。また、セベラン・プライのグア・ケパ遺跡などからは先史時代の人類活動も確認されている[1]。
16世紀末にはヨーロッパ人による航海記録が残され、1593年にはイギリス人船長ジェームズ・ランカスターがペナン島を訪れた。その後、1786年にイギリス東インド会社がペナン島に拠点を設け、クダ王国との関係をめぐる交渉と対立を経て、1791年の条約によってイギリスの支配が一定程度認められた。さらに1800年には対岸のセベラン・プライが別の条約によって東インド会社の支配下に入り、ペナン島と対岸地域からなる植民地拠点が形成された[1]。その後、ペナンは自由港政策を背景に多様な地域から商人や移民を集め、海峡植民地の一部として発展したが、シンガポールの台頭や植民地統治の再編によってその位置づけは変化した。
第二次世界大戦中には日本軍の占領を受け、戦後はマラヤ連邦を経て、1963年のマレーシア成立に伴って現在のマレーシアの一州となった。
航海時代
ペナン島とセベラン・プライは、イギリス東インド会社による取得以前から人々の活動が存在した地域である。セベラン・プライのグア・ケパでは、貝塚、人骨、石器などから約3,000~4,000年前の居住の痕跡が確認されており、ペナン島でも約5,000年前にさかのぼる新石器時代の石器が発見されている[1]。
歴史時代に入ると、ペナンはマレー半島西岸とスマトラ島、マラッカ海峡を結ぶ航路の周辺に位置することから、海上交通との関係を深めた。ペナン島は歴史的にはクダ王国の領域に属しており、イギリス東インド会社が進出する以前からマレー人の集落が形成されていた。1795年の土地調査記録には、ペナン島のダト・クラマット(Datok Keramat)が1705年にはすでに開かれていたことを示す記述があり、バトゥ・ウバン(Batu Uban)やスンガイ・クルアン(Sungai Kluang)などにもマレー人の居住地が存在したとされる[1]。
ヨーロッパ人によるペナン島の記録としては、イギリス人船長ジェームズ・ランカスターの航海が重要である。ランカスターは1591年に東方へ派遣された船団の一員となり、1593年にペナン島を訪れた[1]。
16世紀以降、ポルトガル人をはじめとするヨーロッパ勢力はマラッカ海峡の交易に進出し、香辛料などをめぐってオランダ、イギリスなどとの競争を繰り広げた。ペナン島はマラッカ海峡北部に位置することから、船舶が航海条件を整えるための寄港地として利用されるようになったとされる。一方、海峡周辺では海賊活動も存在し、ペナン島周辺の海上交通の安全はクダ王国を含む沿岸諸勢力にとって重要な問題となっていた。
殖民の始まり
東インド会社
1600年に設立されたイギリス東インド会社は、アジアとの貿易を拡大しながらインドを中心に勢力を伸ばした。17世紀にはオランダ東インド会社との競争に敗れ、東南アジアにおける香辛料貿易の主導権を失ったが、18世紀になるとイギリスの海軍力とインドにおける政治的影響力の拡大を背景として、マラッカ海峡周辺への関心を再び強めた。
18世紀後半には七年戦争やアメリカ独立戦争などの戦争が続き、イギリスとフランス、オランダなどの対立が東南アジアの海上交通にも影響を及ぼした。東インド会社にとっては、戦時に利用できる安全な寄港地と、インドと中国を結ぶ航路を支える拠点を確保することが重要な課題となった[2]。
この状況の中でペナン島に着目した人物の一人が、イギリスの商人フランシス・ライトである。ライトは1770年代からペナン島を東インド会社の拠点として利用する構想を持っていた。1771年にはペナン島の取得を提案したが、当時はインド総督ウォーレン・ヘースティングズによって採用されなかった[3]。
その後、東南アジアの国際情勢が変化すると、ペナン島の戦略的重要性が高まった。1786年、インド総督代理ジョン・マクファーソンは、クダ王国のスルタンとの交渉をライトに委ね、東インド会社がペナン島に拠点を設けるための交渉が本格化した[4]。
ペナン島への進出
当時、ペナン島はクダ王国の領域に属しており、クダ王国はシャムやビルマなど周辺勢力との緊張関係に置かれていた。ライトはクダ王国のスルタン、アブドゥッラー・ムカッラム・シャーに対し、東インド会社による軍事的支援を含む協力関係を提案し、その代償としてペナン島の利用権を得ようとした[4]。
しかし、交渉は当初から複雑であり、東インド会社側とクダ王国側との間では、金銭の支払いと軍事援助をめぐる認識に隔たりがあった。ライトは交渉が最終的にまとまる前からペナン島への進出準備を進め、1786年7月には移民を島へ送り込んだ。
1786年8月11日、ライトはペナン島に上陸し、ユニオン・ジャックを掲げて東インド会社による拠点の設置を宣言した。島はプリンス・オブ・ウェールズ島(Prince of Wales Island)と改称され、東岸に建設された町はジョージタウンと名付けられた。この出来事はイギリスによるペナン島の植民地支配の出発点となったが、この時点でクダ王国との関係が完全に整理されたわけではなかった。
東インド会社とクダ王国との間では、約束された支払いと軍事援助をめぐる問題が続いた。ライト側が提示した条件と実際に東インド会社が支払った金額には差があり、クダ王国側はイギリスの軍事援助が実施されないことにも不満を募らせた[5]。
1790年、クダ王国のスルタンはペナン島を奪回するための軍事行動を試みた。これに対してライトは東インド会社の兵力を動員し、クダ軍を撃退したとされる[6]。この軍事的対立の結果、翌1791年に東インド会社とクダ王国の間で条約が締結され、クダ王国側はペナン島に対する東インド会社の支配を事実上認めることになった[1]。
ペナンの発展
自由港と交易の振興
東インド会社はペナン島を交易拠点として発展させるため、広範な商人を受け入れる政策を採用した。特に重要だったのが自由港政策であり、関税上の優遇によってオランダの影響下にあった港湾に代わる交易地としてペナンを位置付けた。
この政策によってペナンには中国、インド、アラブ、ペルシア、スマトラなど各地から商人や移民が集まり、18世紀末から19世紀初頭にかけて人口は急速に増加した。ペナン州政府の史料でも、東インド会社による支配以前から存在していたマレー人集落に加え、イギリスによる自由港政策を背景として多様な住民が流入したことが示されている[1]。
自由港としての成長を支える一方、植民地政府は関税収入に代わる財源を必要としていた。そのため、蒸留酒やアヘンなどの専売・課税が重要な収入源となった。こうした財政制度は後のペナン社会におけるアヘン、賭博などをめぐる問題とも関係することになる。
植民地人口の多くをイギリス人以外の住民が占めるようになると、東インド会社は各民族・言語コミュニティの有力者を行政に組み込む方式を採用した。これにより、ペナンは中国系、インド系、マレー系、アラブ系など多様な住民が居住する港湾都市として発展した。
1794年にライトが死去すると、その後もペナンでは交易の拡大が続いた。1800年には東インド会社とクダ王国との新たな条約が結ばれ、対岸のセベラン・プライが東インド会社の支配下に入った。これによって現在のペナン州を構成する島部と半島部の双方が同社の支配領域となり、セベラン・プライは後にウェルズリー州(Province Wellesley)と呼ばれるようになった[1]。
1800年の条約では、東インド会社がクダ側に年間10,000ドルを支払うことが定められた。これは1791年のペナン島をめぐる条約を改め、セベラン・プライの取得を含めて東インド会社とクダ王国の関係を再整理するものであった[1]。
1805年にはトーマス・ラッフルズがペナンに赴任した。ラッフルズはペナンでの経験を後の東南アジアにおける植民地統治に生かし、後にシンガポールの建設に深く関与することになる。
- フランシス・ライトの墓
- ライトの息子ウィリアム・ライト
- トーマス・ラッフルズ
農業育成と造船業
19世紀初頭までにペナンは交易港として発展していたが、東インド会社はさらに農業生産と海軍施設の整備を進めようとした。1805年のトラファルガーの海戦によってイギリスが海上優勢を強めると、インド洋と東南アジアの海上交通を支える拠点の整備が重要となり、ペナンもその候補地となった。
ペナンはペナン管区(Penang Presidency)として行政上の地位を高められ、政府機関や軍事施設の整備が進められた。また、プランテーションによる農業生産も奨励され、コショウなどの作物が栽培された。
しかし、ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖令などヨーロッパの戦争はペナンの農産物輸出にも影響を与え、農業投資は期待されたほどの成果を上げなかった[7]。造船所についても計画どおりに発展せず、東インド会社は次第にペナンを大規模な海軍基地として整備する方針を後退させた。
海峡植民地へ
19世紀前半になると、ペナンの経済は周辺地域の政治情勢と競合港の発展に大きく左右されるようになった。特に1819年のシンガポールへのイギリス東インド会社の進出は、マラッカ海峡の交易構造を変化させた。シンガポールは海峡の東側に位置し、東南アジアと中国を結ぶ交易の拠点として急速に発展したため、ペナンとの競争が強まった[8]。
一方、ペナンでは中国人、インド人、マレー人などの人口が増加し、港湾経済と鉱業、農業を支える労働力となった。1835年の人口統計では、ペナンの人口は40,207人で、マレー人16,435人、中国人8,651人、インド人9,208人、アラブ人約3,000人とされている[9]。こうした人口構成は、ペナンが単一の民族によって形成された植民都市ではなく、複数の地域社会が交易を通じて結びつく港湾都市であったことを示している。
19世紀には中国系住民の人口と経済的影響力が拡大したが、その背景には単純な民族的性質だけではなく、移民の流入、商業ネットワーク、鉱業、港湾経済、植民地政府の労働政策など複数の要因が存在した。イギリスの行政官の中には、中国人移民の労働を高く評価する者もいたが、こうした評価は当時の植民地行政側の見解として扱う必要があり、民族集団の一般的な性質を示すものではない。
中国系住民の内部でも、福建語を話す集団、広東語を話す集団など複数の地域的・言語的コミュニティが形成された。さらに秘密結社や会党などの組織が都市社会に影響を及ぼし、1867年にはペナン大暴動(英語: 1867 Penang riots)が発生した。これは複数の中国系秘密結社の対立を中心としながら、都市社会全体を巻き込んだ大規模な騒乱となった[10]。
植民地政府はアヘン専売、賭博などから収入を得ていたが、これらの制度は都市社会の治安や社会問題とも結び付いていた。したがって、19世紀のペナン社会を単純に「民族対立」の歴史として捉えることはできず、植民地統治、移民社会、商業組織、秘密結社、財政制度などが複合的に作用していたと考える必要がある。
1826年、ペナン、マラッカ、シンガポールは海峡植民地として統合された。当初はペナンが政庁所在地となったが、シンガポールの急速な発展に伴い、1832年には政庁所在地がシンガポールへ移された。これによってペナンの政治的地位は低下したが、港湾都市としての重要性は維持された[11]。
スエズ運河
19世紀後半になると、ペナンは再び国際交易の拡大による恩恵を受けた。1869年のスエズ運河開通によってヨーロッパとアジアを結ぶ航路が短縮され、インド洋から東南アジアへ向かう海上交通におけるマラッカ海峡の重要性が高まった。また、蒸気船の普及によって石炭補給港の重要性が増し、ペナンはその立地を生かして発展した。
この時期にはスズの需要も増加し、マレー半島でのスズ鉱業の発展に伴ってペナンは鉱石の集散・精錬・輸出拠点となった。対岸のセベラン・プライを含めて交通網が整備され、19世紀末から20世紀初頭にかけて鉄道も開通した。
農業ではコーヒーの価格下落が打撃となった一方、ゴムの需要が拡大するとゴム栽培が盛んになった。スズとゴムの輸出、港湾サービス、商業活動によってペナンは再び繁栄を強め、19世紀後半には国際的な港湾都市としての地位を確立した[12]。
- スンダ海峡の位置
- マラッカ海峡の位置
- スエズ運河
20世紀のペナン
第一次世界大戦

20世紀初頭のペナンは、東南アジアの国際港湾都市として発展していた。イースタン・アンド・オリエンタル・ホテルなどのホテルには、商人や旅行者だけでなく、文学者、政治家、軍人、研究者なども滞在した。サマセット・モーム、ジョゼフ・コンラッド、ラドヤード・キップリングらの文学者も東南アジアを訪れており、ペナンは植民地都市の一つとして彼らの旅行記や文学作品にも登場した。
1914年に第一次世界大戦が始まると、ペナンの海上交通にも戦争の影響が及んだ。ドイツ帝国海軍の軽巡洋艦エムデンはインド洋で通商破壊活動を行い、1914年10月28日にはペナン港に侵入した。エムデンは港内でロシア帝国海軍の防護巡洋艦ジェムチュグを撃沈し、フランス海軍の駆逐艦ムスケも沈没させた。この攻撃はペナンにおける第一次世界大戦期の主要な戦闘として記憶されている。
第二次世界大戦
第二次世界大戦が始まると、ペナンも東南アジアにおける戦争の拡大に巻き込まれた。1941年12月10日のマレー沖海戦でイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが日本軍機によって撃沈されると、イギリス軍のマレー半島における制海能力は大きく低下した。
日本軍がマレー半島を南下すると、イギリス軍はペナンから撤退した。イギリス人を中心とする住民の一部も島を離れたが、すべての住民が同時に避難したわけではなく、撤退の過程には混乱が生じた。イギリス側は1941年12月18日にペナンからの撤退完了を発表した[13]。
翌12月19日、日本軍はペナン島を占領した。日本軍の占領下ではペナンは日本軍の軍事・行政拠点として利用され、港湾は日本軍とその同盟国であるドイツ国防軍のUボートの活動を支える基地としても使用された。これによりペナンは、インド洋方面における日本・ドイツ両国の海軍活動を支える拠点の一つとなった。
マレーシア独立期
1945年に日本が降伏すると、ペナンは再びイギリスの統治下に入った。戦争による人的・物的被害からの復旧が進められる一方、イギリスは戦後のマラヤにおける統治制度の再編を進めた。
1946年、イギリスはシンガポールを分離した上で、ペナン、マラッカなどの旧海峡植民地とマレー諸州を統合するマラヤ連合を成立させた[14]。この制度はマレー人の政治的地位やスルタン制度をめぐって強い反発を受け、政治運動の拡大を招いた。マラヤ連合は再編され、1948年にはマラヤ連邦が成立した。
戦後のマラヤでは、イギリスからの独立をめぐる政治運動が進展する一方、マラヤ共産党による武装闘争とそれに対するイギリス・マラヤ政府の軍事行動が続いた。マラヤ危機と呼ばれるこの時期の政治的・軍事的状況を経て、1957年8月31日、マラヤ連邦は独立した。ペナンもマラヤ連邦を構成する州として独立を迎えた[15]。
マレーシア独立後
独立後のペナンでは、植民地期から形成されてきた多民族社会を基盤として政治・経済の再編が進められた。中国系住民の商業上の影響力は大きかったが、ペナンの政治社会を単純に「華僑対マレー人」という二者間の対立だけで説明することはできない。マレー人、中国系、インド系などの民族集団内部にも政治的・経済的な多様性が存在し、政党間競争、植民地期から続く社会構造、経済政策、言語・教育政策などが複雑に関係していた。
1969年5月13日にはマレーシア各地で民族間の衝突を伴う大規模な政治的混乱が発生し、いわゆる5月13日事件として知られる。その後、マレーシア政府は政治・経済政策の再編を進め、ペナンでも社会経済構造の変化が進んだ。
ペナンは独立後も自由港としての地位を維持していたが、1969年以降の政策変更を経て、1974年には自由港制度が廃止された。これによって港湾貿易に依存していた経済は転換を迫られ、州政府は工業化を進めた。
1970年代以降、ペナンでは電機・電子産業を中心とする製造業の誘致が進み、バヤン・レパス地区には工業団地が整備された。これによってペナンの経済構造は港湾交易中心から製造業を中心とするものへと変化した。ペナン国際空港も整備され、国際的な製造業拠点としての役割が強まった。
1985年にはペナン・ブリッジが開通し、ペナン島とセベラン・プライの道路交通が大幅に改善された。セベラン・プライ側ではバターワースを中心に工業・物流機能が発展し、島部と半島部との経済的結び付きが強まった。
2004年12月26日、スマトラ島沖地震に伴うインド洋大津波がペナンにも到達した。沿岸部では人的・物的被害が発生し、漁業や沿岸集落にも影響が及んだ。その後、政府による復旧・復興が進められた。
現在のペナンは、ジョージタウンを中心とする歴史的都市景観、セベラン・プライの工業・物流拠点、電機・電子産業、観光業などが組み合わさった地域となっている。植民地期に形成された多民族・多文化的な都市社会は現在にも引き継がれており、2008年にはジョージタウンの歴史地区がユネスコの世界遺産「マラッカ海峡の歴史都市群」の構成資産として登録された。