ゲレ・ボラト
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ダヤン・ハーンとその側室のジャライルのスミル・ハトンのあいだの子として生まれた。同母兄弟には外ハルハを統治したゲレセンジェがいる。幼少期のゲレ・ボラトとゲレセンジェについては、『アサラクチ史』や『シラ・トージ』といったモンゴル年代記に次のような逸話が伝えられている[4]。これらの年代記よると、ハルハ・トゥメンに属するチノス部のウダ・ボラトがある時ダヤン・ハーンに「今ハルハはジャライルとケルートのシグチたちに支配されている。我らの主とすべき[ダヤン・ハーンの]息子を一人下さい」と陳情したため、ダヤン・ハーンは当初ゲレ・ボラトをハルハに与えた[4]。しかし、ゲレ・ボラトは性格が強情であったためダヤン・ハーンの下に送り返され、その後改めてゲレセンジェがハルハに連れてこられ、ハルハの主になったという[4]。この逸話に関連して、ゲレ・ボラトの兄の息子のグン・ビリクは「ハルハのジャライルのエセン・シゲジンの娘のエシゲというアバガ・ベルゲン妃(Abaγa bergen qatun)」を娶ったとされるが、「アバガ・ベルゲン」という名前は「伯父の妻」を意味し、ゲレ・ボラトの元妻ではないかと推測されている[5]。
ハルハ・トゥメンから出戻ったゲレ・ボラトは、その後改めて別の集団を分封された。ゲレ・ボラトがダヤン・ハーンより分封された部族は史料によって異なり、『蒙古源流』・『蒙古世系譜』が「アオハンとナイマン(Auqan/Naiman)」とするのに対し、『アルタン・トプチ』やその他のモンゴル年代記は「ウルウト(Urud)」と記す[6]。しかし他の史料でアオハン・ナイマンを最初に分封されたのがトロ・ボラトの孫のボイマ・タイジであると確認できることから、実際にゲレ・ボラトに分封されたのはウルウトであると考えられている[7]。
ゲレ・ボラト王家が統治するウルウト部はチャハル・トゥメンの傘下にある遊牧集団であるとされるが、『ガンガイン・ウルスハル』のような後世に編纂された「八オトク・チャハル」の中には数えられていない[7]。ウルウトを「八オトク・チャハル」の中に含めるかどうかは、研究者によって見解が分かれている。
ゲレ・ボラト王家が統治するウルウト部はジャルート、ハラチン、ヘシグテンといった他の部族とともに清朝の太宗ホンタイジに降ったが、旗に編制されることなくその後の動向は不明である[8]。