ブルハイ
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ブルハイの出自に関して、モンゴル年代記の中でも『アルタン・トプチ』にのみ、次のような逸話が伝えられている。ダヤン・ハーンが即位後最初の事業として義父(母のシキル太后の再婚相手)であるヨンシエプのイスマイル太師を討った時、討伐軍を率いるトゴチ少師はシキルとイスマイル太師の間に生まれたバブタイ(Babudai)とブルハイ(Burqai)の二人を捕らえたという[2][3]。史料上で明記されているわけではないが、このブルハイこそが後に青海方面で活動するburqai/卜児孩と同一人物であると推定されている[2]。
イスマイル太師の没後、ヨンシエブ部はオイラト出身のイブラヒム太師が掌握し、再びダヤン・ハーンと対立した。イブラヒム太師はオルドス部のマンドライと協力してダヤン・ハーンに対抗し、時は優勢であったが、最期にはダラン・テリグンの戦いで敗れて青海地方に没落することとなった。1533年(嘉晴12年)の明朝の史料には「小王子の部落であった(元は大ハーンの配下であった)ブルハイ(卜児孩)は内変によって西海(青海)に逃れ、荘浪・寧夏方面で患をなして20年となる」との記述があり、ブルハイはまさに1509年(正徳4年)に起こったダラン・テリグンの戦いの後にイブラヒム太師に従って青海方面に移住したものと推定される[2]。
黒い辰年(1532年)の戦闘
青海地方に移住したイブラヒムとマンドライは正徳年間に明朝領の甘粛地方で略奪を行ったことが明側の史料に記載されるが、ブルハイについては1532年(嘉靖11年)正月に至って始めて言及されるようになる[2]。この時、ブルハイ(卜児孩)は属夷のテムゲ(帖木哥)を通して明朝に貢市を求めたという[4][5]。しかしこのころ、ダヤン・ハーンの孫世代の中からオルドス部を率いるメルゲン・ジノンと、その弟でトゥメト部を率いるアルタンが勢力を拡大しており、1530年代よりヨンシエブ部は両者の攻撃を受けるようになる[6]。
『明世宗実録』によると、虜酋の吉嚢(メルゲン・ジノン)は1533年2月以前に十万余りの配下を率いてオルドス地方に駐屯し、明朝との国境を窺い掠奪していたため、明朝の各辺はジノンを警戒するようになった[7]。しかし、ここでジノンは4-5万騎を河西に突出させ、ブルハイを襲って大いに破ったという[8][7]。これに対応するように、『アルタン・ハーン伝』には「黒い辰年(1532年)にメルゲン・ジノンとアルタン・ハーンがシンフラ(Singqula、賀蘭山を指すか)を越え、ブハ川(青海に流れ込む布哈河)の峡谷に駐屯した時、ブルハイは娘をメルゲン・ジノンに妃として差し出して逃げて行った」との記述がある[9]。
青い未年(1535年)の戦闘
次に、『明世宗実録』1536年(嘉靖15年)正月条によると、その前年に虜酋の吉嚢(メルゲン・ジノン)は十万の配下を率いて楡林を攻撃しようとしたが、これは明将によって撃退された。しかし、メルゲン・ジノンは5万騒を別に西海(青海)に派遣しており、この軍勢は亦不剌(イブラヒム)の陣営を襲撃してその部落の大半を収集し、ただ卜児孩(ブルハイ)のみが残党を率いて逃れ出たと伝える[10][9]。これ以後、漢文史料上ではイブラヒムは言及されなくなるため、恐らくこの遠征を切欠としてイブラヒムは没落し、代わってブルハイがヨンシェフを統べるようになったものとみられる[11]。同じく『アルタン・ハーン伝』には青い午年(1534年)からメルゲン・ジノンとアルタン・ハーンがシンフラを越え、青海のゴルバルジン(γurbalǰin)でウイグド(ヨンシエブ)を攻めて戦利品を得て、青い未年(1535年)に帰還した」と記述される[12]。
1543年-1544年の戦闘
1541年(嘉靖20年)正月にはブルハイが甘粛巡撫に金・馬を献上しており、明側も四方の安定のため、ブルハイの行動を受け入れた[13]。一方、モンゴル高原では1542年(嘉靖21年)にメルゲン・ジノンが死去したことでアルタンが最大の実力者となり、周辺地域に勢力を拡大していた。『アルタン・ハーン伝』によると、このころアルタン・ハーンは、「悪心あるブルハイ・タイシを主の前であなた(ボディ・アラク・ハーン)に叩頭させた」「仇ある敵を鎮圧して自分の臣下となした」功績により、「トゥシェートゥ・セチェン・ハーン(Tüsiyetü sečen qaγan)の称号を授けられたという[14]。この『アルタン・ハーン伝』の記述に基づき、1543年-1544年ごろにアルタンによるヨンシエブの討伐が行われ、敗北したブルハイは捕らえられてしまったものと考えられている。ブルハイがどのような最期を迎えたかは記録がないが、漢文史料上でも1541年(嘉靖20年)以後言及されることがなく、アルタンの遠征によってまもなく死去したものとみられる[15]。
なお、この遠征を経ても青海地方には未だヨンシエブの残党が活動しており、晩年のアルタンは1561年(嘉靖40年)に再びこれを討った。この時、征服されたヨンシエブの残党はアルタンの甥のダイチン・ノヤン(Dayičing noyan)に継承され、ダイチン・ノヤンは同年より青海に定着するようになっている[16]。
脚注
- ↑ 吉田 1998, p. 254.
- 1 2 3 4 烏蘭 2000, p. 347.
- ↑ 森川 2007, pp. 188–189.
- ↑ 『明世宗実録』嘉靖十一年正月(十八日),「虜酋卜児孩者、本北虜小王子部落也。以内乱奔拠西海、久為甘粛患。又時侵掠亦郎骨・土魯番、諸夷苦之。至是、因属夷帖木哥等納款求通貢市、且欲与帖木哥結親、永為和好。鎮巡官以状聞、兵部議覆。虜酋内附誠不可拒、但其謀多詐、且未有信使往来、恐為所紿。上是之、命総制尚書唐龍及鎮巡官各遣人偵探虜情的確、議処具奏」
- ↑ 和田 1959, pp. 504 347.
- ↑ 和田 1959, p. 504.
- 1 2 吉田 1998, p. 256.
- ↑ 『明世宗実録』嘉靖十二年二月癸卯(三十日),「先是、小王子部落卜児孩因内変逃拠西海、為荘・寧辺患且二十年、已懼小王子讐己、請納款于我。朝廷下守臣勘上方略。無何、虜酋吉嚢等擁十餘万衆屯套内、窺犯延綏花馬池、以入涼・固属、各辺戒厳、不得間、乃突出四五万騎、乱河西済襲卜児孩、大破之。至是、総制尚書唐龍及甘粛鎮巡官以状上且言、卜児孩既衰敗遠遯西海獲寧納款事不必再議、惟一意審固謀略、加意隄備。仍諭属番帖木哥、彼或以窮来帰、即設計擒献、重加賞齎。兵部覆如龍議、報可」
- 1 2 吉田 1998, p. 121.
- ↑ 『明世宗実録』嘉靖十五年正月丙子(二十日),「総制陝西三辺尚書唐龍言、先年虜酋吉嚢等擁衆十万突犯楡林、臣調兵分部禦之、虜屡遭挫衄、度不能入、乃別遣五万騎由野馬川渡河、径入西海、襲破亦不剌営、収其部落大半、惟卜児孩所領餘衆脱走。此以夷攻夷、誠中国之利也。故経今歳餘、虜警稍息。辺人云、虜率餘衆西掠四川松潘等処、窃恐得利而帰、勢将復熾。況属番帖木哥・革課等或為其積威所劫、与之連合、勾引套虜駐牧、則酒泉・張掖之間未可安枕、積薪厝火、其勢必然、未雨徹桑、為力則易。乞勅甘粛守臣積芻粮、閲兵馬、立重賞、募勇敢、令人分番海上、密探進兵之路及虜中虚実与駐牧之所、戒諭属番勿与通謀、構之為間諜、布之為声援、伺虜間隙、為兵進止、河西腹心之疾、庶其可已。兵部覆議、従之」
- ↑ 吉田 1998, p. 378.
- ↑ 吉田 1998, p. 122.
- ↑ 『明世宗実録』嘉靖二十年正月丙午(十九日),「甘粛巡撫都御史陳卿言西海虜酋卜児孩遣人献金牌・馬匹、叩塞納款。事下兵部、尚書張瓚等言、卜児孩拠西海二十餘年、実為甘粛腹心之害。若果輸誠、則荘浪・西寧諸処得耕収休養、屯田堡寨得乗間修挙、河西孤危之勢可転為安矣。但虜情叵測、今止献金牌」
- ↑ 吉田 1998, p. 126-127.
- ↑ 吉田 1998, p. 348.
- ↑ 和田 1959, p. 681.
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434。
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年11月。ISBN 978-4894347724。
- 吉田順一『アルタン・ハーン伝訳注』風間書房、1998年3月。ISBN 978-4759910827。
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 烏蘭『『蒙古源流』研究』遼寧民族出版社、2000年1月。ISBN 7806443630。
- 宝音徳力根Buyandelger「応紹不万戸的変遷」『西北民族論叢』第2巻、2003年12月15日。
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