ボラクチン (バトゥ皇妃)
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生涯
ボラクチンは、モンゴル東部を遊牧していたが1202年にテムジン(チンギス・カン)の命でその大部分を壊滅させられた、タタル部アルチ氏族の出身であった[2]。なお、ラシードゥッディーンの『集史』では、オゴデイの第一皇后の名もボラクチンと記されている[3]。史料上に言及はないが、これを、1241年にオゴデイが死亡し、オゴデイの皇后のうちのドレゲネが権力を握ったがゆえに、バトゥの元に逃れたとする(両者を同一人物とみなす)説がある[4]。
バトゥの妻ボラクチンに関する最古の記事は、『ガーリチ・ヴォルィーニ年代記』の1250年の項である。すなわち、「バトゥの本陣を初めて訪れたガーリチ・ヴォルィーニ公国の統治者ダニールは、バトゥの後に、皇后ボラクチンにも拝謁した」という趣旨の記述である[5]。バトゥには26人の妻がいたが、現代に名の記録が残されているのはボラクチンのみである[6]。また、バトゥの子としてはサルタク、トクカン、エブゲンがいたが、このうちサルタクの母はボラクチンであるとみなされている[7]。なお、トクカンの母がボラクチンか否かは、トクカンがバトゥの死(1255年または1256年)後に結婚したという記述[8]、トクカンの子のトゥダ・マング(ru)の推定年齢が論拠となる。
バトゥ、サルタクが相次いで死亡すると、ジョチ・ウルスの統治者にはモンゴル帝国皇帝(大ハーン)のモンケの命によってウラクチが立てられ、ボラクチンは摂政となった。しかし程なくしてウラクチもまた死亡し、ベルケに統治者の地位が渡ることになった。これに対しボラクチンは、トゥダ・マングを統治者に立て、自身が摂政の地位に着くことを画策した。また、ジョチ・ウルス内にボラクチンに賛同するものはあらわれなかったため、中東制圧(ru)中のフレグに支援を求めた。しかしボラクチンの画策は失敗し、1257年、イランに亡命しようとしたが逃れえずに処刑された[1]。