ウィリアム・ルブルック
13世紀のフランスの宣教師、探検家
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概要
フランドル地方(当時はフランス王国フランドル伯領)、現在のフランス共和国ノール県リュブリキ(英語読みルブルック)出身。生年は1515年から1520年の間とされる[2]。没年は不明で、『日本大百科全書』は1270年頃[3]、『山川世界史小辞典』は1293年頃[4]、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』は1295年頃[5]とする。
モンゴルへの派遣
ルブルックは、1253年にコンスタンティノープルを発ち、南ロシアから「草原の道」を経て翌1254年にカラコルムに到着し、モンケ・カアンへの謁見を果たした。
ルブルックがルイ9世から託された使命は、十字軍への協力要請[要出典]とキリスト教の布教であった。これについては、以下のような逸話が残っている。1248年、キプロス島に上陸した十字軍のもとに、モンゴル軍司令官イルチガタイからの使者がやってきた。熱心なネストリウス派信者であったイルチガタイは、「協力して聖地を奪還せん」とルイ9世に提案したのである。この話に惹かれたルイ9世はグユク・カン宛てに返答の使者を派遣し、ルイ9世はさらにルブルックを派遣した。ルブルックと会見したモンケはイルチガタイの使者の正当性を否定し、モンゴルによる世界制覇の野望を伝えたというものである。
しかし実際にはこの逸話の使者はルブルックではなくドミニコ会修道士アンドルーである。アンドルー修道士は、1249年にアンドルー他総勢7名で出発したが、グユクが既に死去していた為、グユク妃であるオグルガイミシュにバルハシ湖南東イミル河畔で謁見し1251年に帰国した。使節はオグルガイミシュの返書を携えて帰国した。その返書には同盟どころか貢納を条件とした和平が高飛車に記載されていてルイ9世を失望させたというものである。ルブルックの派遣は十字軍の協力要請ではなく、バトゥの息子サルタクがキリスト教徒である噂が広まっていたことと、モンゴルから帰国したカルピニがパリでルイ9世に面会した際、ルブルックも同席していて、ルブルック自身がモンゴルへの布教に興味を持ったことにある。
そこでルイ9世はサルタクへ書簡を送ることとし、使節にルブルックを派遣した。ルブルックはクレモナのバーソロミュー修道士、聖職者ゴッセト、通訳アブドゥッラーとともに1252年出発した。サルタクはルイ9世の書簡を読み、バトゥの判断を仰ぐ必要があるとしてバトゥと面会するように指示した。ルブルックがバトゥと面会すると、バトゥはモンケ汗に面会するよう指示した。このように、ルブルックの旅行は最初はカルピニ同様、カラコルムが目的地ではなかった。また、サルタクへ書簡を届けることが第一の目的であり、その後の滞在や帰国についてはルブルック自身明確な意識は無かった可能性がある。ルブルックの記録では、モンケが書簡を持って帰国を命じた時、「わたしどものつとめは神のみ旨のままに生きるよう人々に教えることであります。わたしどもがこの地方に参りましたのはひとえにことためで、もし陛下のお許しが得られましたなら、喜んでここにとどまるつもりでございました」と答えており、またカラコルム滞在中にチベット仏教徒と神学論争を行なっている。ルブルックはカルピニのような使節ではなく、後年のモンテコルヴィーノやオドリコに連なる異教の地における伝道者に分類できる。
ルブルックは「東方諸国旅行記」において、「彼らの住む家は、円形の、細い棒で作った上部が木枠でできているものである。ゲルのプレースに白いフェルトを用いる。大部分のフェルトは、白墨や白土と粉末にした骨を混ぜて彩色してあるので、フェルトが極彩色をしている。こうした住居は非常に大きいもので、幅が30フィートにまで達するものもある。私は車輪の直径を測ったことがあったが、その幅は20フィートあって、ゲルを積んで車を引く牛を数えると、一列に11頭でそれが二列からなっていた」と、当時のゲルに言及している。