マクドナルドの歴史

アメリカ合衆国の多国籍企業のファーストフードチェーンであるマクドナルドの歴史 From Wikipedia, the free encyclopedia

マクドナルドの歴史(マクドナルドのれきし)では、アメリカ合衆国多国籍企業ファストフードチェーンであるマクドナルドの歴史を記述する。

マクドナルドは、1940年にマクドナルド兄弟のリチャード・マクドナルドとモーリス・マクドナルドによって創業され、その後収益規模で世界最大の外食チェーンに成長した[1]。マクドナルド兄弟はカリフォルニア州サンバーナーディーノでバーベキュー料理を販売して事業を始めたが、ハンバーガーの方が人気を集めたため、事業モデルをカーホップ型のドライブインレストランへと転換した。1940年代から1950年代半ばにかけて、兄弟は事業を拡大し、有名なゴールデンアーチを導入したが、後にレイ・クロックによって、現在知られる大規模かつ商業的に成功した企業へと成長することとなった。クロックは兄弟に、よりセルフサービス型の事業モデルを採用し、全国展開するよう説得した。

クロックとマクドナルド兄弟は数年間にわたって協力したものの、マクドナルドというブランドの方向性を巡る意見の相違が頂点に達した。1961年、クロックが兄弟に事業から退くための金額を提示するよう求め、兄弟は270万ドルで合意して退いた。その後、ハリー・J・ソネボーンとクロックは協力関係を続けたが、ソネボーンは1967年に辞任。同年、マクドナルドは国際展開を開始し、現在では世界のほとんどの国に店舗を持つ。マクドナルドは世界最大級の民間雇用主の1つであり、CEOクリス・ケンプチンスキーである。年間収益は約260億ドルに達する[2]

2018年以降のマクドナルドのロゴ
カリフォルニア州ダウニーのフローレンス通りとレイクウッド通りに現存する最古のマクドナルド店舗(2007年撮影)。チェーン店3号店で、ゴールデンアーチを導入した2番目の店舗である。

マクドナルド兄弟の時代

マクドナルドは1940年代のカリフォルニアでリチャード・マクドナルドとモーリス・マクドナルドによって創業された。最初の店舗を開く前、マクドナルド一家はカリフォルニア各地でいくつかの事業を営んでいた。1937年にLA郊外モンロビアルート66沿いにオレンジジューススタンドを開店した。この事業を始めたのがリチャードとモーリス(通称「ディック」と「マック」)であったのか[3][4](p61)、あるいは父パトリックであったのかは資料によって異なり、息子たちが後から事業に加わったともされる[5](p206)。1940年、兄弟はサンバーナーディーノにバーベキュー店を開いた[4]

マクドナルド兄弟は1940年5月15日にカリフォルニア州サンバーナーディーノに最初のマクドナルド店舗を開業した。開業当初はカーホップによるドライブイン形式で客に対応していた。初期のメニューはバーベキュー中心で、店名も「McDonald's Famous Barbecue」であった[6]。しかし1948年、兄弟は利益の多くがハンバーガーに由来することを認識し、成功していたドライブイン形式を閉鎖して、ハンバーガー、チーズバーガーポテトチップスコーヒーアイスクリーム、ソフトドリンク、アップルパイのみを提供する簡素化されたシステムを導入した[7]

1952年4月、兄弟はさらなる効率向上と人目を引く外観を実現するため、新たな建物が必要だと判断した。建築家の推薦を集め、少なくとも4人を面接した結果、近隣フォントナを拠点とするスタンリー・クラーク・メストンを選んだ[8]。兄弟とメストンは設計段階で緊密に協力し、設備の実寸を裏庭のテニスコートにチョークで描くなどして効率化を追求した[9]

新しいデザインは赤と白のセラミックタイル、ステンレス鋼、鮮やかな色の板金とガラス、赤白黄緑のネオン光、そして高さ25フィートの黄色い鉄板製アーチ2本(ネオンで縁取り)などで注目を集めた。設計段階でこれを「ゴールデンアーチ」と命名した。道路脇には、シェフ帽をかぶったキャラクター「スピーディ」が歩く姿をアニメーションネオンで描いた小型アーチ看板も設置された。また兄弟は、食事の回転率を高めるために、暖房を弱めにしたり、固定・傾斜式の座席を用いて客が料理に向き合うよう配置したり、席間を離して会話を抑えたり、円錐形カップを採用して客に飲み物を手に持たせるようにするなどの工夫を取り入れた[8]

1953年末、兄弟はメストンのデザイン図を持ってフランチャイズ加盟者を探し始めた[8]。最初のフランチャイズはゼネラル・ペトロリアムのディストリビューターであるニール・フォックスで、1953年5月にアリゾナ州フェニックスの4050 North Central AvenueとIndian School Roadに開店した。費用は一律1000ドル(2023年時点の$11,400と同等)。この店舗が初めてメストン設計の「ゴールデンアーチ」デザインを採用した。なおマクドナルドの名称を使用したのは兄弟にとって意外であった。別のフランチャイズ加盟者ロサンゼルスノースハリウッドのチャールズ・コックス)は1953年から1965年まで「Peaks」という名称を使用したが、他の店舗はすべてマクドナルドとなった。

2番目のフランチャイズ加盟者は、フォックスの義理の兄弟のロジャー・ウィリアムズと同僚のバーデット・ランドンで、いずれもゼネラル・ペトロリアムに勤務していた。2人は1953年8月18日にカリフォルニア州ダウニーの10207 Lakewood Boulevardに店舗を開いた。この店舗は現存する最古のマクドナルド店舗として現存している[10][11][12]

レイ・クロックは1954年にチェーンに加わり、やがて世界規模のフランチャイズへと発展させ、世界で最も成功したファストフード企業に築き上げた。

レイ・クロックの参入

1954年、プリンス・キャッスル社製のマルチミキサー(シェイク用ミキサー)の販売員であったレイ・クロックは、マクドナルド兄弟がサンバーナーディーノの店舗で自社製品を8台も使用していることを知った。興味を持ったクロックは自らカリフォルニアを訪れ、店舗を視察した。当時、マクドナルド兄弟は6店舗のフランチャイズを経営していた[13]

クロックはマクドナルドのビジネスモデルが成功の鍵になると確信し、兄弟に全米規模でのフランチャイズ展開を提案した。しかし兄弟はセルフサービス方式が寒冷かつ雨の多い地域で通用するか懐疑的であり、またサンバーナーディーノでの繁盛と既存・計画中のフランチャイズ展開から、全国展開には消極的であった。そこでクロックは、新たなフランチャイズ展開の責任を自身が担うと申し出た。彼はシカゴ郊外の自宅に戻り、カリフォルニアとアリゾナの一部を除く全米でマクドナルド店舗を展開する権利を得た。兄弟の取り分は総売上高の0.5%とされた[8]

ソネボーン・モデルと不動産戦略への転換

1956年、クロックはテイスティー・フリーズの元財務担当副社長であったハリー・J・ソネボーンと出会う。ソネボーンは、マクドナルドの成長と投資適格化を加速させる方法として「将来のフランチャイズ店舗が建設される土地と建物を所有する」アイデアを提案した。クロックは彼を採用し、この計画はフランチャイズ・リアルティという別会社を設立して実行に移された。この会社は土地と建物のリース契約やモーゲージを引き受け、それらの費用をフランチャイジーに20%から40%の上乗せと950ドルの低額頭金で転嫁した[14][15]

この「ソネボーン・モデル」と呼ばれる不動産所有方式は、現在もマクドナルドに受け継がれており、企業史上最も重要な財務上の意思決定とされる。今日のマクドナルドの不動産資産は貸借対照表上で377億ドルを占め、同社資産全体の約99%、年間総収入の35%に及んでいる[16]

1960年代

1963年に放映されたロナルド・マクドナルドが初登場のテレビCM
1968年に登場したビッグマック

1960年までに、マクドナルド店舗の年間総収益は5600万ドルに達した。郊外化に伴う自動車利用の増加や州間高速道路システムの発展がマクドナルドの成功を大いに後押しした。1961年、企業の方向性を巡るクロックと創業兄弟の対立が深まり、クロックは兄弟に「事業を完全に譲渡するならいくら欲しいか」と問いかけた。兄弟は270万ドル(2021年換算で約2340万ドル)を提示し、クロックにはその資金がなかったが、ハリー・J・ソネボーンが資金を調達し、クロックは兄弟から事業を買収した。この買収によって企業のIPO準備が整い、マクドナルドは国内トップのファストフードチェーンとなる基盤を築いた。売却の経緯について詳細は不明であり、2016年の伝記映画『The Founder』ではクロックによる敵対的買収として描かれているが、その解釈には異論があり、当時のインタビューではより自主的な移行だったことが示唆されている[13][17]

クロックとソネボーンは会社の拡大方針で意見が対立し、1967年にソネボーンは辞任。クロックがCEO兼社長に就任した[14]。同年、マクドナルドはアメリカ国外初の店舗をカナダブリティッシュコロンビア州リッチモンドに開店した[18]

1968年には、ハーマン・ペティがアフリカ系アメリカ人として初めてマクドナルドのフランチャイズに参入した。これは公民権運動後の流れを受けたものであり、アフリカ系アメリカ人がマクドナルドの事業に初めて参入した事例として非公式に認識されている[19]

1960年代におけるマクドナルドの成功は、巧みなマーケティングと顧客ニーズへの柔軟な対応に起因する。1962年には「人を引きつける魚」として売り出されたフィレオフィッシュサンドが登場した[20]。また、1967年にはペンシルベニア州ユニオンタウンのフランチャイズ経営者のジム・デリガッティがビッグマックを考案し、翌1968年に全米メニューに加わった[21]

1970年代

1971年から2018年まで本社が置かれていたイリノイ州オークブルックのマクドナルド・プラザ
1976年9月に開業したポリルアニュージーランド第1号店

1970年、北米以外で初めての店舗がコスタリカサンホセに開店した[22]。1971年には[23]、ヨーロッパ初の店舗がオランダザーンダムに開店した。これはスーパーマーケットチェーンアルバート・ハインとの合弁会社「Family Food N.V.」を通じて実現された[24][25]。同年7月にはアジア初の店舗が日本東京都に開店し、12月には当時の西ドイツミュンヘンのオーバーギーシング地区にドイツ1号店がオープンした[26][27]。さらに1971年、オセアニア初の店舗がオーストラリアニューサウスウェールズ州ヤグーナに開店した[28]

1972年、全米黒人マクドナルド経営者協会(National Black McDonald's Operators Association、NBMOA)が設立された。マクドナルドのフランチャイズ権を獲得した初のアフリカ系アメリカ人であるハーマン・ペティが設立を支援し、同協会は社内における黒人の声を代弁する存在となった[29]

同社の国際的な急速拡大には当初懐疑的な見方もあった。1974年、ウォリーとヒュー・モリスがマクドナルドをニュージーランドに持ち込もうとした際、クロックは訪問経験を理由に「人が全然いない……これほど死んだような場所は初めてだ」と言って断った。しかし最終的にモリス兄弟は1975年5月にフランチャイズ権を獲得し、アメリカへのニュージーランド産チーズ輸出で設備輸入費を相殺する契約を交渉した。1976年6月、ポリルアウェリントン近郊)にニュージーランド1号店が開業し、予想を大きく上回る成功を収めた[30]。この頃までにマクドナルドはフランススウェーデンイギリス香港などにも進出しており[31]、1976年までにアメリカとカナダで3600店舗以上を展開していた[32]

1979年にはシンガポールオーチャード・ロード沿いリアット・タワー東南アジア初のマクドナルドが開業した[33]。同年、ブラジルリオデジャネイロにも南米初の店舗が開業した[34]

1980年代

1982年4月29日、マレーシア初のマクドナルドがブキッ・ビンタン通りに開店した[35]

1984年7月18日、カリフォルニア州サンイシドロのマクドナルド店舗でサンイシドロ・マクドナルド銃乱射事件が発生した。犯人は22人を射殺し、19人に重軽傷を負わせた。事件はSWATスナイパーが犯人の心臓を撃ち抜いて終結した。店舗は清掃と修復がわずか2日で行われたが、地域社会の強い反発を受けて最終的に取り壊され、敷地には犠牲者22名を追悼する記念碑が建てられた。

1984年にはロサンゼルス五輪に合わせ、「アメリカが勝てば、あなたも勝ち」というキャンペーンを展開。アメリカの選手が獲得したメダルに応じて無料食品を提供する企画であった。しかし、ソ連など東側諸国がボイコットしたため競争相手が少なく、アメリカは174個のメダルを獲得。全米6000店以上で品不足が発生し、損失は数百万ドル規模に上ったと推定されるが、会社は損失額を公表しなかった[36]

同年10月29日、パートナーのソール・カハンがメキシコシティ・ペドレガル地区にメキシコ初のマクドナルドを開店した[37]

1988年には日本マクドナルドが東京都内の3店舗でプリペイドカードを導入した。決済の迅速化を目的とし、1000円、3000円、5000円の額面で提供された[38]

1990年代

1991年、マクドナルド・エクスプレスの第一号店舗が開店した。これらは小規模な試験的店舗で、通常はプレハブ建築や都市型の店舗として建設され、ミルクセーキやクォーターパウンダーといった一部メニューは提供されなかった[39]

2005年12月、中国海南省三亜市のマクドナルド・ソフトドリンク、アイスクリーム売店

中国本土初のマクドナルドは1990年10月に深圳市東門に開店した[40]

「エクストラバリューミール」(バーガー、ポテト、ドリンクのセット)は1993年に登場し、当初は映画『ジュラシック・パーク』とのタイアップの一環として販売された[41]

1992年4月28日から29日にかけて台湾マクドナルド爆破事件が発生。恐喝目的で台湾各地のマクドナルド店舗内外に爆弾が仕掛けられ、警察官1名が死亡、子供2人を含む民間人4名が負傷。台湾国内57店舗が一時閉鎖された[42][43]

その1週間後の1992年5月7日、カナダのシドニーリバーシドニーリバー・マクドナルド殺人事件が発生。従業員デレク・ウッドと共犯2人による強盗未遂で従業員3名が殺害され、もう1人は頭部を撃たれ重い障害を負った[44]

1992年10月12日、イギリスのマンチェスターのアーンデール店舗でマーク・ホプキンスが感電死した[要出典]

1993年9月、日本マクドナルドの1000号店が開店。販売促進策として、ゴールデンアーチやキャラクターをあしらったTシャツや綿浴衣を販売するショップを展開予定とし、またセガと提携してロナルド・マクドナルドを主役とするゲームを発売する計画も発表された[45]

1993年から1994年にかけてマクドナルドは中東に進出。イスラエルサウジアラビアに続き、クウェートオマーンエジプトバーレーン、アラブ首長国連邦に店舗を開店した[46]。1995年にはイスラエルに初のコーシャー対応マクドナルドが開業した[47]

同1995年、カナダのニューブランズウィック州バサーストのフランチャイズ経営者のロン・マクレランがマックフルーリーを考案した[18]

1997年、ボリビアサンタクルス・デ・ラ・シエラに初のマクドナルドが開店。しかし2002年11月、国民・政府の文化的な反発およびフランチャイジー「アルコス・ドラドス」の損失により全店舗が閉鎖され、ボリビアとキューバはマクドナルドが存在しない唯一の中南米諸国となった[48][49][50]。閉鎖後、競合のバーガーキングがこれらの店舗を引き継いだ[51]

また1990年代には一部店舗でピザの販売も行われていた[52]

2000年代

2003年から2006年/2007年まで使用されたロゴ

1990年代の終わり以降、アメリカ国外で1万1000以上のマクドナルド店舗が新たに開店した[53]

2000年には、デトロイト都市圏ミシガン州ディアボーンにあるマクドナルドが、同州初、かつミシシッピ川以東で唯一、ムスリム顧客向けにハラール食品を提供する店舗となった[54]

2010年代

2012年1月、マクドナルドは2011年の売上高が過去最高の270億ドルに達し、2400店舗を改装、さらに1300店を新規出店する計画を発表した[55]

しかし10年代半ばになると、同社の利益は低下傾向を示した[56]。これに対応して2015年から、一部の朝食メニューを一日中提供する「終日朝食」を開始した[57]。当初はサービスの遅れを招いたとしてフランチャイジーから不評を買ったが[56]、最終的には成功し、同年第4四半期の業績は「アナリスト予測を容易に上回った」とCNBCが報じた[58]

2016年7月22日には、ドイツのミュンヘン2016年ミュンヘン銃乱射事件が発生。ドイツ系イラン人の18歳青年のデイヴィッド・ソンボリが、移民の多く集うマクドナルド店で銃を乱射し、さらに外の通りとオリンピア・ショッピングモールで発砲した後、自ら命を絶った。この事件で9人が死亡し[59]、16人が負傷した[60]

2020年代

2022年3月8日、マクドナルドはロシアによるウクライナ侵攻から12日後、ロシア国内850店舗すべての営業を停止すると発表した。この決定は、他の欧米企業の同様の動きや世論からの圧力を受けたものだった[61]。その後、同年6月12日に地元フランチャイジーのアレクサンドル・ゴヴォルによって『Vkusno & tochka』(Вкусно и точка、「おいしい、それだけ」)として再開業された[62]

2022年7月、マクドナルドはフロリダ州の大手フランチャイジー企業のキャスパーズ・カンパニーを買収した[63][64]

脚注

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