マルクズ・ブイルク・カン
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マルクズ登場以前のケレイト
ケレイト部族の前身は、『イェニセイ碑文』などに見える「九姓タタル国(toquz tatar eli)」、また『遼史』などの漢文史料で阻卜として言及される遊牧集団であったと考えられている[2]。10世紀初めに興った契丹国(遼朝)はモンゴル高原の阻卜に幾度も出兵し、特に開泰元年(1012年)11月にはウイグル帝国の旧都オルド・バリク(窩魯朶城)を拠点に阻卜が兵を挙げたが、遼朝の蕭図玉らによって平定された[3][4][5][6]。なお、この時反乱軍を率いた人物は「石烈太師阿里底」あるいは「七部太師阿里底」と表記されるが、「石烈」は「克烈(ケレイト)」の誤記、「七部太師」は『集史』の伝える「ケレイトに往昔一人の部族長がおり、七人の息子がいた……」という伝承に対応する称号と見る説があり、ケレイト部族長の遠祖と推定される[7]。
一連の戦役を経てケレイトは一時遼朝に屈服したようで、重熙14年(1045年)には「阻卜大王屯禿古斯(トン・トクズ)が諸酋長を率いて来朝した」とされ、続いて重熙22年(1053年)にも馬や駱駝を献上したとの記録がある[8][9]。これより、おおよそ30年にわたってケレイトと遼朝は良好な関係を維持した[9]。
マルクズの挙兵
しかし、大安年間までにモンゴル高原では「北阻卜酋長磨古斯」なる人物が登場し、大安5年5月20日(1089年6月30日)には遼朝より「阻卜諸部長」と認められた[10][8]。この人物こそがペルシア語史料の『集史』でオン・カンの祖父として名が挙げられるマルクズ・ブイルク・カンに相当すると考えられている[11]。
大安8年(1092年)、知西北路招討使事の耶律何魯掃古は耶睹刮を討伐するためマルクズに協力を要請したが、この時契丹軍が誤って磨古斯を攻撃したことをきっかけに、マルクズは遼に反抗するようになった[12][13]。耶律何魯掃古はマルクズ討伐を図ったものの果たせずして帰り、大安9年(1093年)3月には都監の蕭張九がマルクズ討伐に派遣されたが敗戦を喫した[14]。さらに、同年10月には耶律撻不也が新たに起用されるも、マルクズは偽りの投降を申し出て油断させたところを急襲し、敗北した耶律撻不也は戦死するに至った[15][16]。
大安10年(1094年)3月、連年の敗戦を受けて遼朝は新たに耶律斡特剌を都統に、耶律禿朶を副統に、耶律胡呂を都監にそれぞれ任じ、マルクズ討伐のため派遣した[17]。同年10月、耶律斡特剌・耶律那也・耶律特麼らは大雪の中マルクズ率いる軍団を補足し、斬首1千級余りを得る勝利を収めた[18][19][20][21]。これによってマルクズは劣勢となり、同年12月および寿昌元年(1095年)7月にも耶律斡特剌がマルクズに勝利を収めたとの報告がなされた[22][23]。
しかしマルクズの叛乱の完全平定にはまだ長い時間がかかり、遼軍によって遂にマルクズが捕らえられたのは寿昌6年1月24日(1100年3月6日)のことであった[24]。マルクズは寿昌6年2月12日(1100年3月24日)に遼の道宗の下に連行され、市中で磔にされたと伝えられている[25][26]。
マルクズの妻のクトクタイ
『集史』ケレイト部族志においてマルクズ自身の記録はさほど多くないが、マルクズの没後に妻のクトクタイが仇討ちを果たしたことについて下記の通り詳細に記述している。
オン・カンの祖父は名をマルグズ(Marghūz)といった。彼のことをブイルク・ハン(Buirūg Khān)とも言っていた。当時、タタル諸部族は人口が多く、強力であったが、常にヒタイ、ジョルジャ(Jurja)の君主達に臣従していた。当時、タタル部族長達の中に一人の人物がおり、〔彼のことを〕ナウル・ブイルク・ハン(Näuūr Büirūq Khān)と言った。遊牧地はブユル・ナウルと呼んでいる地の領域にあった。ある時、〔ナウル・ブイルク・ハンは〕機会をとらえ、ケレイト部族長マルグズ・ブイルクを捕えてジョルジャの君主のもとに送った。ジョルジャの君主は彼を木に打ちつけて殺した。
しばらくしてからクトクタイ・ハリグチ(Qūtūqtai Harikjī)と呼んでいるマルグズの妻は彼女達の遊牧地がタタル諸部族と隣接していたので人を遣わして言った。「タタル部族長ナウル・ブイルク〔様〕に盃を一献さし上げたい。つきましては、百頭の羊と十頭の雌驟馬と、百オンドルの馬乳酒(qumiz)をそれぞれに五百マンの馬乳酒をおさめて、車に積んでいきます」と。〔彼女は〕夫の仇を討ちたいと考えて、完全武装の百名の勇士をそのオンドルの中に隠して車に乗せた。到着すると羊は料理人達に渡し、〔料理人は〕料理にとりかかった。〔彼女は〕言った。「宴会の時のために馬乳酒を車に積んで持ってきております」と。宴会〔場〕に着くとオンドルを積んだあの百台の車を家の向かいに持ってきて開けた。勇士達がとび出してきて、〔マルグズ・ブイルクの〕妻の従者達と共に、タタル部族長を捕えて殺した。そこにい多数のタタル人達も同様に殺した。 マルグズ〔ブイルク〕の妻がこのようなやり方で己が夫の復讐をとげたというこの事件はよく知られている。 — ラシードゥッディーン、『集史』ケレイト部族志[27]
なお、『集史』はマルクズを殺害したのをジョルジャの君主(=金朝皇帝)としているが、上述の通りマルクズ=磨古斯であるならば、「ヒタイの君主(=遼朝皇帝)」が正しいことになる[28]。