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マンジタイ

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マンジタイ(モンゴル語: Manǰitai Küregen,1256年/1257年 - 1306年/1307年[1])とは、14世紀初頭にモンゴル帝国(大元ウルス)に仕えたコンギラト部出身の万人隊長(トゥメン)。『元史』などの漢文史料では蛮子台(mánzǐtái)と表記される。

概要

マンジタイは大元ウルスを創設したクビライの義兄に当たるナチン・キュレゲンの息子として生まれ、兄弟にはオロチン、ジルワダイ、テムル、ナムブイらがいた[2]。マンジタイは末弟であったが、オロチンとジルワダイが1277年(至元14年)にシリギの乱で互いに争って死去し、その後当主位を継承したテムルも1290年(至元27年)死去し、その息子ディウバラがまだ幼かったため、マンジタイが当主の地位を継承することとなった[3]。

当主への就任と同時に、マンジタイはクビライの娘で兄嫁であったナンギャジンをレビラト婚によって娶った[3]。1294年(至元31年)にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、ナンギャジンは「皇姑(皇帝の叔母)」として魯国大長公主に封ぜられ、マンジタイも金印授けられて濟寧王とされた[2]。しかし、最初はマンジタイの長兄オロチンに嫁いでいたナンギャジンは既にかなり年をとっていたためか、両者の間には子供が生まれていない[3]。

オルジェイトゥ・カアンの治世中には中央アジアのカイドゥ・ドゥアとの戦闘が多発し、マンジタイも一軍を率いてこれに加わった。ある時、敵軍と遭遇戦となった時は、単騎で突撃を四度繰り返し、大勝利を収めたという[2]。1299年(大徳3年)からはオルジェイトゥ・カアンの甥に当たるカイシャンがモンゴリアの駐屯軍を指揮するようになり、マンジタイもカイシャンの指揮下に入って「蒙古軍民官」を総領したという[2][4]。1301年(大徳5年)8月にはカイドゥ・ドゥア軍との決戦が行われ(テケリクの戦い)、同年11月には「和林(カラコルム)軍」に安西王アナンダ・諸王クラチュ・トクトア・バブシャ・エジル・駙馬マンジタイ・コンギラタイ・イェルゲンらがいたことが記される[5]。また、1303年(大徳7年)には皇族のアナンダ・トクトア・バブシャと、駙馬マンジタイに金50両・銀珠錦幣等の物が下賜されている[6][4]。

その後、明確な時期は不明であるが、1304年(大徳8年)以後にナンギャジンが死去したため、新たにチンキムの娘のナンガブラを娶った[2][7]。1306年(大徳10年)2月にはマンジタイが資金不足に陥っているとの記録があり、同年3月に鈔万錠が下賜されたことが、マンジタイにかかる最後の記述となる[8]。翌1307年(大徳11年)3月には甥のディウバラが新たな当主となっており、1306年後半から1307年初頭の間にマンジタイは死去したようである[1]。『元史』の列伝によると死去時には52歳であった[1]。

コンギラト部デイ・セチェン家

脚注

参考文献

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