ミハーイ・ジチー
From Wikipedia, the free encyclopedia
ハンガリー南西部ショモジ県のザラ(Zala)で生まれた。ハンガリ貴族のジチー家の出身である。いとこに作曲家でピアニストのゲザ・ジチー(1849-1924)がいる。1842年から法律を学ぶためにペシュトに移り、同時に、イタリア生まれで、ペシュトで美術学校を開いたマラストニ・ヤカブに絵を学んだ。1844年にウィーンに移り、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーに学び、ウィーンの展覧会で高い評価を得た[1]。ヴァルトミュラーの推薦で、ロシア大公ミハイル・パヴロヴィチの公妃、エレナ・パヴロヴナの娘の絵の教師として雇われ1847年にサンクトペテルブルクに移った[2]。サンクトペテルブルクの貴族の家でも美術教師として2年ほど働いた後、教師をやめ、作品を売って生活を始め、ヘッセン大公国のアレクサンダー王子から支援を受けたり、1858年にサンクトペテルブルクを訪れたフランスの作家テオフィル・ゴーティエと知り合い、ゴーティエの旅行記で賞賛されたことなどによってサンクトペテルブルクで名声と人気をえるようになり、1859年に皇帝アレクサンドル3世によって宮廷画家に任じられた。ロシアの有力な廷臣の注文で数多くの絵画を制作した。1865年にミトロヴィッツ伯爵家の女性と結婚したが1867年頃に離婚した。
1871年にヨーロッパを旅し、1874年にパリに住み、歴史画を描き、出版物の挿絵を描き、1880年までパリで活動した。
ロシアに戻ると宮廷画家として働き1906年2月にサンクトペテルブルクで亡くなった。
ジチー残した作品の中には1911年にライプツィヒで300部で出版されたエロティックな40点の作品からなる版画集、「Liebe」などもある。