モスクワ大公国
中世に現在のロシアに存在した公国
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モスクワ公国(モスクワこうこく)、後にモスクワ大公国(モスクワたいこうこく、 ロシア語: Великое княжество Московское マスコフスカエ・ヴェリーカエ・クニャージェストヴァ)として知られ、モスコビア[1][2][3](ラテン語: Moscovia)の名でも知られる国家は、当初はウラジーミル・スーズダリ大公国内の分領公国であり、その後1480年までジョチ・ウルス(金帳汗国)の支配下に置かれていた[4]。ジョチ・ウルスの臣下として初代の公(かつ初代モスクワ市の公)となったのは、アレクサンドル・ネフスキーの16歳の息子ダニール・アレクサンドロヴィチであった。1480年にウグラ河畔の対峙を経てジョチ・ウルスから独立したモスクワ国家の初代統治者となったのは、イヴァン3世である。

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概要
すでに11世紀半ばには、古代キーウ国家、すなわちルーシにおいて、独立した諸公国・諸地方への分裂の兆しが現れ始めていた。新たな公国が次々と誕生し、この時期の主要な封建国家として、ザレーシエ(ウラジーミル・スーズダリ大公国)、ハールィチ・ヴォルィーニ、トゥーロフ・ピンスク、チェルニーヒウ、ポロツク、スモレンスクの各公国、ならびにノヴゴロド・プスコフの両共和国が挙げられる。
人口の流入はロストフ・スーズダリ地方の発展に寄与した。地方の諸公は、大公位を巡る激しい争いを繰り広げるようになる。ユーリー・ドルゴルーキー公によってドミトロフ、コストロマなどの新都市が建設された。1169年、アンドレイ・ボゴリュブスキーの治世下において、ザレーシエの諸地方はルーシから独立を獲得し、その軍勢はキーウ・ルーシを略奪、アンドレイ・ボゴリュブスキーは自らをキーウ大公から独立した君主であると宣言した。フセヴォロド3世の治世には、新たな封建中心地が次々と出現し、ザレーシエの分裂が進行した。13世紀に入ると、その内部からペレヤースラウ、ロストフ、スーズダリ、ヤロスラヴリ、トヴェリ、モスクワなどの諸公国が誕生した。
モスクワの初代分領公となったのは、アレクサンドル・ネフスキーの息子ダニール・アレクサンドロヴィチであり、彼は1277年にハーンのヤルルィク(ジャルリグ、勅許状)を授かった。1330年代以降、ザレーシエの諸公は、稀な例外を除いて、貢納徴収権を認めるハーンのヤルルィクの保持者となった。モスクワ諸公の支配地の更なる拡大とタタールのバスカクを通じた権力の中央集権化に伴い、彼らは15世紀末までに自らの拠点から統一されたモスクワ大公国の中心地を作り上げることに成功した。
非公式のモスクワ側の資料によれば、アレクサンドル・ネフスキーが息子ダニールに遺したモスクワの支配権は、ハーンであったメングティムルによってウラジーミル大公国から分離され、16歳のダニール・アレクサンドロヴィチが新設されたモスクワの公座に据えられたという。
歴代君主
戦争
- モスクワ・ヴォルガ・ブルガール戦争
- モスクワ・ノヴゴロド戦争
- モスクワ・トヴェリ戦争
- ウクライナ・モスクワ戦争
- ポーランド・モスクワ戦争
- モスクワ・リトアニア戦争
- オルシャの戦い
議論
モスクワ公国はもとは北東ルーシの小公国であった。従って、元来はキエフの公権力よりはノヴゴロド公国(ノヴゴロド・ルーシ)の公権力を受け継ぐ国家で、君主の称号でも、あるいは対外的な文書においても、北東ルーシを指して「モスクワはルーシの後継者」であると表現していた。住民についても元来はキエフ系の住民ではなく、現地の東スラヴ人とフィン人の融合した独自の民族・文化・社会慣習をもっていた。これに、後代になってキエフ・ルーシの内紛やモンゴルのルーシ侵攻などから逃げてきたキエフからの難民が加わった。[要出典]
国力を蓄えるに従い、15世紀末以降キエフ・ルーシの相続人を自認し始めた。その大きな理由は、キエフ府主教座がモスクワへ遷座したことである。とりわけ帝政期ロシア史学はこうした見方を無意識のうちに引き継いだ。これに対し、ウクライナでは19世紀のフルシェフスキー以来、キエフ・ルーシの継承国家をハールィチ・ルーシ、リトアニア・ルーシとする見方が登場し、着実に根を張った。こうした二つの見方の対立はソ連の研究史において表面上はやや緩和されたが、全体としてはモスクワを後継国家とする見方が強かったといえる。ソ連崩壊後、双方の見方はナショナリズムと結び付き鋭く対立したが、その一方で両国の一流の研究者はこうした対立とは距離を置いている。自国のみを正統的相続人とする見方は、歴史を一瞥すれば一面的な見方であることは明らかだからである。しかし、「相続人」をめぐる問題は両国のアイデンティティと関わるがゆえに、とりわけ教科書レベルではさほど冷静とはいえない記述が散見される。[要出典]
なお、この問題はロシアやウクライナ、ベラルーシに限定された問題ではない。中世後期よりヤギェウォ朝のポーランド王国もまたルーシの相続人を自認した。近世に入ると、ポーランドはキエフを含めたかつてのキエフ・ルーシの領域の大半をキエフ県として領有することとなり、またリトアニア大公国との制度的同君連合であるポーランド・リトアニア共和国によって上記ハールィチ・ルーシおよびリトアニア・ルーシの正当な継承権を獲得、将来的にはモスクワの領域もポーランドの版図に加えられるべきであると主張していた(ポーランド・ロシア戦争)。しかし、ソ連の影響力のもと、ポーランドの主張は影を潜め(加えて、第二次世界大戦後に、国境線が西方に移動したことに伴い、ポーランドではもっぱらピャスト朝の相続人であることが強調されるようになった)、ソビエト連邦の崩壊によりウクライナが独立すると、ポーランド・ウクライナ関係に配慮することが定着し、ルーシをポーランド領とする主張はなりを潜めたが、ポーランド人の間ではルーシを未開の辺境地帯と捉える傾向は定着している。一方、ウクライナの主張は同国の独立により国際的にも広く知られることになったが、他方でキエフ・ルーシの歴史を独占(他国の祖でもあることを認めずに)しようとする一部の過激な見方には反発もある。[要出典]
「ルーシ(ロシア)」という固有名詞は元々キーウ・ルーシ、すなわち現在のウクライナがルーツであるため、2023年3月にはロシアの呼称を「モスコビア(モスクワ)」に変更するよう求める請願書に署名が集まった[5]。
カール・マルクスは、著書『18世紀の秘密外交史』の中で、次のように述べている[6]。
「モスクワ大公国発祥の地は、ノルマン人時代の輝かしき栄光の大地ではなく、モンゴルによる奴隷制という血塗られた沼地であった。そして現代のロシアは、モスクワ大公国が変化したものに過ぎない。」