ロシア共和国
帝政崩壊後、臨時政府に率いられた短命な民主国家
From Wikipedia, the free encyclopedia
ロシア共和国(ロシアきょうわこく、ロシア語: Российская Республика)は、1917年の二月革命後の1917年9月1日(新暦9月14日)、ロシアに成立した短命国家である。
| ロシア共和国/ロシア民主連邦共和国 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
|
Российская Республика | |||||
|
統制下にあった地域(10月革命以前) | |||||
|
国歌:Рабочая Марсельеза 労働者のラ・マルセイエーズ | |||||
| 公用語 | ロシア語 | ||||
| 宗教 | ロシア正教 | ||||
| 首都 | ペトログラード | ||||
| 首相 | |||||
| 1917年3月15日 - 1917年7月21日 | ゲオルギー・リヴォフ | ||||
| 1917年7月21日 - 1917年11月7日 | アレクサンドル・ケレンスキー | ||||
| 1917年11月7日 - 1918年1月17日 | 不在 | ||||
| 1918年1月18日 - 1918年1月18日 | ヴィクトル・チェルノフ | ||||
| 変遷 | |||||
| 2月革命 | 1917年3月8日-1917年3月12日 | ||||
| ニコライ2世の退位 | 1917年3月15日 | ||||
| 臨時政府の成立 | 1917年3月16日 | ||||
| 十月革命 | 1917年11月7日 | ||||
| 国号変更 | 1918年1月18日 | ||||
| ボリシェヴィキにより解体 | 1918年1月19日 | ||||
| 通貨 | ルーブル | ||||
| 現在 |
| ||||
| |||||
| ロシアの歴史 | |
|---|---|
|
この記事はシリーズの一部です。 | |
| ヴォルガ・ブルガール (7c–13c) | |
| ハザール (7c–10c) | |
| キエフ大公国 (9c–12c) | |
| ウラジーミル・スーズダリ大公国 (12c–14c) | |
| ノヴゴロド公国 (12c–15c) | |
| タタールの軛 (13c–15c) | |
| モスクワ大公国 (1340–1547) | |
| ロシア・ツァーリ国 (1547–1721) | |
| ロシア帝国 (1721–1917) | |
| ロシア共和国 (1917-1918) | |
| ロシア民主連邦共和国 (1918) | |
| ロシア国 (1918年-1920年) | |
|
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(1917-1991) (ソビエト社会主義共和国連邦) (1922–1991) | |
| ロシア連邦 (1991–現在) | |
| ロシア史 (1991年-現在) | |
ロシア ポータル |
1917年10月(11月7日(新暦)にボリシェヴィキが十月革命で権力を掌握すると、翌1918年1月18日の憲法制定議会でロシア政体法令によりロシア民主連邦共和国(ロシアみんしゅれんぽうきょうわこく、ロシア語: Россійская Демократическая Федеративная Республика)に国号が変更されたが、翌日にボリシェヴィキの手によって憲法制定議会と同時に解体された[1]。
成立までの経緯
リヴォフ率いる臨時政府の成立
二月革命後、ニコライ2世が退位したことによってペトログラードには1917年3月16日、立憲民主党員グレゴリー・リヴォフ率いるロシア臨時政府が成立した。
この臨時政府は崩壊までの間、社会革命党、立憲民主党、ロシア進歩党、オクチャブリスト、トルドヴィキ、メンシェヴィキ、人民社会党、正教会による大規模な連立によって維持されていた。
ロシア臨時政府設立に尽力したリヴォフは、同政府初代大臣評議会議長、及び内務大臣という重要ポストを併任した。彼は政権掌握後、ロシアの民主化改革に力を入れた。共和国では彼の手腕の下、普通選挙が整備され、報道と言論の自由が認められ、死刑が廃止され、宗教、階級、人種に関するすべての法的制限が撤廃された[2]。一方で中央同盟国との戦争継続を図ったことから、兵士や労働者らの支持は芳しくなく、ソビエトへ支持が集中することとなった。
ケレンスキー政権
結果的に臨時政府の影響力を落としてしまったリヴォフは同年7月に辞任し、(前)陸海軍大臣であった社会革命党党員のアレクサンドル・ケレンスキーが政権を掌握した。
臨時政府成立当初から混迷を極めるロシア国内と同じように、臨時政府による軍の支配は揺らいでおり、バルチック艦隊の船員は極左思想に感化され、首都ペトログラードでの過激な政治活動に公然と参加していた。また、首相のケレンスキーと軍最高総司令官のラーヴル・コルニーロフは互いに不信感を重ねており、1917年8月にはコルニーロフが反乱を起こす結果(コルニーロフ事件)に至った。しかしこの反乱は鎮圧されたことによって失敗した。
ディレクトリ体制とロシア共和国の宣言
ケレンスキーはコルニーロフの反乱鎮圧後の1917年9月1日から25日(新暦9月14日-10月8日)にかけて、五大臣による集団的な意思決定体制のディレクトリ体制)を導入した[注 1]。9月1日(新暦9月14日)にロシア共和国を宣言した[6][7]。ディレクトリはロシア帝国議会ドゥーマを解散させた。
10月3日にはロシア共和国臨時議会を招集した。また、将来的な憲法制定に向けて憲法制定議会も設置し、ロシアの新たな国家体制を築こうと考えた。
しかし、依然として中央同盟国との停戦を呑むことができないケレンスキーらに、兵士、労働者を支持基盤とするボルシェヴィキは臨時政府に不満を溜め込んでいた。
ボリシェヴィキによる解体
結果、1917年11月7日(新暦)にボリシェヴィキが主導して十月革命が発生し、ロシア臨時政府は解体された。しかしこの動きに反発する民主主義者らは同月25日に制限選挙を実施し、憲法制定議会の議員を選定した。
社会革命党のヴィクトル・チェルノフらは1918年1月18日(旧暦1月5日)の憲法制定会議で政体法令を宣言し、ロシア共和国の政体を民主連邦共和国とし、「ロシア民主連邦共和国」へと国名を変更した。しかし翌日ボリシェヴィキによって憲法制定議会が強制解散され、ロシア民主連邦共和国も政体法令も解体された[1]。
ロシア臨時政府の呼称として
ボリシェヴィキによる呼称として
1918年7月のロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法(1918年ソビエト憲法)で「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」という正式名称が採用されるまで、ボリシェヴィキは自分たちの国家を「ロシア共和国」と呼ぶこともあった[8]。研究書でも同憲法が「ロシア共和国憲法」とも表記されることがあるが[9]、「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」と「ロシア共和国」は異なることに注意が必要である。
関連国家
- ロシア帝国 - 1721年11月から1917年9月のロシア共和国成立まで存在したロシア最後の君主主義国家。皇帝による専政が行われたが戦争によって国内を混乱を招き、二月革命に至った。
- ロシア臨時政府 - 二月革命後にロシア帝国に代わってロシア国内を統治した臨時政府。1917年9月に正式にロシア共和国として国号を採用した。1917年3月16日に成立し、1917年11月8日にボリシェヴィキによって解散を強いられた。
- ロシア国 (1918年-1920年) - ロシア内戦において1918年9月23日に社会革命党や立憲民主党などの反ボリシェヴィキ派によって西シベリアのオムスクで建国され、アレクサンドル・コルチャークが実権を握った。1920年4月に崩壊。
- ソビエト連邦 - 正式にはソビエト社会主義共和国連邦。ソビエト・ロシアを中核としたユーラシアの社会主義連邦国家。1922年12月30日に成立し、1991年のソビエト連邦の崩壊によって解散した。
関連人物
関連政党
ロシア社会民主労働党、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ
ロシア帝国時代に成立した社会主義政党ロシア社会民主労働党は、レーニン派による急進左派のボリシェヴィキと、穏健派・中道左派のメンシェヴィキに分裂した。1917年10月(新暦11月)に政権を掌握したボリシェヴィキはソビエト連邦共産党の前身となった。メンシェヴィキはボリシェヴィキによって弾圧され、指導者の何人かは海外に亡命し、消滅した。
自由主義政党
- オクチャブリスト - 立憲民主党 (ロシア)よりも穏健な自由主義政党。後にボリシェヴィキと対立。
- 立憲民主党 (ロシア) - 二月革命後の第1次臨時政府において政権を担った中道右派政党[10]。後にボリシェヴィキと対立。
左翼政党
- 社会革命党 - 全ロシア憲法制定議会において第1党であった中道左派政党。後にボリシェヴィキと対立。