モンゴジェジェ

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モンゴ・ジェジェ (満文:ᠮᠣᠩᠣᠵᡝᠵᡝ, 転写:mongojeje, 漢文:孟古哲哲[1]) は清太祖ヌルハチ福金フジン。太宗ホン・タイジ生母。イェヘ・ナラ氏[1]女真族イェヘ初代東城主ベイレヤンギヌ娘、第二代ナリムブルおよび第三代ギンタイシの妹。

ホン・タイジを産んだ後に病歿。清朝史上で初めて追封された皇后である (孝慈高皇后)[2]

イェヘ東城主ベイレヤンギヌは、蜂起して間もない頃のヌルハチの訪問を受けたおり、ヌルハチをみて「常ならざる人」であることをみぬいた。そこで当時まだ幼かった娘モンゴ・ジェジェを、婚姻適齢期になったら妻あわせようとヌルハチにもちかけた。ヌルハチは、長女がすでに適齢期をむかえているのに、なにゆえに幼女を充てがうのかと訝しがった。決して長女を出し惜しみする訣ではなく、この娘こそ「常ならざる」君に最も相応しい、そうヤンギヌがいうので、ヌルハチは承諾した。[2]

万暦12年 (1584) にヤンギヌは李成梁率いる明軍の討伐を受けて兄チンギャヌ (イェヘ西城主) ともども殺害され、モンゴ・ジェジェの嫁入り話はその兄で、二代目東城主となったナリムブルが引き継ぐことになった。そしてヌルハチが満州国マンジュ・グルンを建国した万暦15年 (1587) の翌年、14歳となった[1]モンゴ・ジェジェは兄ナリムブルに連れられマンジュに帰順した。ヌルハチは諸王ベイレを引き連れて歓迎し、盛大な酒宴が催された。[2]

万暦20年 (1592) 旧暦10月25日申の刻 (16時前後)、モンゴ・ジェジェは男児 (ヌルハチ第八子) を出産した。のちの清太宗ホン・タイジである。[3]これはモンゴ・ジェジェのたった一人の子供となった。

遡ること同19年 (1591)、イェヘ東城主ナリムブルは、マンジュ勢力の伸長を警戒し、ヌルハチに領土の割譲を求めたが、門前払いをくった。そこでナリムブルは、ヌルハチを力づくで屈服させようとフルン四部 (海西女直) で聯合し、マンジュ領を侵掠した。しかしヌルハチはその報復にハダ領フルギャチを掠奪し、ハダ国主ベイレメンゲブルを破ってフルンに屈服しない姿勢をみせた (→富爾佳斉フルギャチ大戦)。これに不満を募らせたナリムブルは、同21年 (1593)、九部聯合軍を結成してグレの山でヌルハチのマンジュ軍と再び刃を交えた。ところが結果は数で圧倒的に勝る九部聯合軍の惨敗におわり (→古勒山グレイ・アリンの戦)、フルン四部は連名で使者を派遣して、ヌルハチに自らの「不道」を詫びた。

この頃、イェヘは不倶戴天の仇であるハダとの確執を再燃させ、内訌を誘発されて国内勢力が分裂したハダは、ヌルハチのマンジュ軍の攻撃を受けて万暦29年 (1601) に滅亡した。イェヘはさらにウラと結託し、ウラ国主ブジャンタイは度々ヌルハチと背盟をくりかえした。

そんな中、万暦31年 (1603) 旧暦9月、モンゴ・ジェジェが病歿。享年29歲 (数え歳)。ヌルハチはその死を悼み、婢四人を殉死させ、牛馬各100頭を屠った。祭司斎戒は一箇月あまりに及び、ヌルハチは昼も夜も泣き通した。霊柩は三年も宮内にとどめおかれた。[1]

死期を悟ったモンゴ・ジェジェは、最後に母と一眼会いたいとヌルハチに頼んだ。愛妻のたっての願いならばと、ヌルハチは早速イェヘ側に使者を派遣し、愛妻の母をマンジュに連れてきてほしいと申し入れた。ところがナリムブルは実妹たっての願いを拒み、モンゴ・ジェジェはマンジュの地で永眠した。[4]ここに至ってヌルハチは、愛妻の最期の願いを拒んだイェヘ側の態度を憎んだ。翌32年 (1604) 旧暦正月、ヌルハチは兵を率いてイェヘの璋ジャンと阿奇蘭アキランの二城を攻め落とし、二城七寨の人畜2,000餘り接収して帰還した。[1]

埋葬地

天命9 (1622) 年、ヌルハチは父祖の妻子の墳墓をヘトゥアラから新都・遼陽城のあるい一帯に移葬し、[5]:40モンゴジェジェも東京楊魯山に移された。天聡3 (1629) 年には更に瀋陽の福陵に移葬された。

モンゴジェジェの死後10余年が経った天命8 (1623) 旧暦6月、ヌルハチはホンタイジについて「我が愛妻の生みし唯一の後嗣なる故に愛憫に勝へず」と語ったという。モンゴジェジェの妹・綽奇 (松古図の母) もまたヌルハチのフジンの一人である。

正妻、中宮、追謚

脚註

参考

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