ヤン・ウルバン
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
|
2025年のウルバン | ||||||
| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Jan Urban | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1962年5月14日(63歳) | |||||
| 出身地 | ヤヴォジュノ | |||||
| 身長 | 179cm | |||||
| 体重 | 72kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
|
| ||||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1981-1985 |
| 113 | (23) | |||
| 1985-1989 |
| 124 | (54) | |||
| 1989-1994 |
| 168 | (48) | |||
| 1995 |
| 21 | (3) | |||
| 1995-1996 |
| 33 | (6) | |||
| 1996-1997 |
| 19 | (3) | |||
| 1998 |
| 11 | (1) | |||
| 通算 | 489 | (138) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1985-1991 |
| 57 | (7) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2003-2005 |
| |||||
| 2007-2010 |
| |||||
| 2010 |
| |||||
| 2011 |
| |||||
| 2012-2013 |
| |||||
| 2014-2015 |
| |||||
| 2015-2016 |
| |||||
| 2017-2018 |
| |||||
| 2021-2025 |
| |||||
| 2025- |
| |||||
|
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ヤン・ウルバン(ポーランド語: Jan Urban, 1962年5月14日 - )は、ポーランド・ヤヴォジュノ出身の元サッカー選手、元ポーランド代表のサッカー指導者。現在はポーランド代表の監督を務めている。現役時代のポジションはフォワード。息子も同じくサッカー選手である[1]。
選手時代
クラブ
- ポーランド
貧しい鉱山労働者家族の下で6人兄弟の1人としてヤヴォジュノに生まれた[2] ウルバンは、母国のヴィクトリア・ヤヴォジュノ(Victoria Jaworzno)でキャリアを開始した当初、サッカーをしながら整備士や運転手として働いていた[3]。その後に所属したザグウェンビェ・ソスノヴィエツ(en)とグールニク・ザブジェでプロ選手として活動しており、特に後者のクラブでは、自身のキャリア最高となる1988-99シーズンの17得点を含めて54得点を記録する活躍でリーグ3連覇とスーパーカップ優勝に貢献した。
- オサスナ
ザブジェでの優れたパフォーマンスから、1989年8月により競争力の高いリーグであるスペイン1部のCAオサスナと契約[4] し、クラブ史上最高のストライカーの1人と語り継がれるようになる稀有な活躍を示すことになる[1]。1季目に35試合8得点を挙げると、2季目には、1990年12月30日のエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード戦(4-0)のハットトリック[5][6] を含めて34試合13得点を挙げ、UEFAカップ1991-92出場圏内にしてクラブ史上過去最高位となる4位でのシーズンを終了することに貢献した[7]。欧州カップ戦とリーグ戦との二足の草鞋となった2季目は、層の薄いチームにとって過酷なものであったためにリーグ戦で降格の危機に喘いでいたが、その中でウルバンは12得点を挙げて再度チーム最多の得点源として活躍し、残留に貢献した。UEFAカップの2回戦では、同シーズンのドイツ1部王者となるVfBシュトゥットガルトとのメルセデス・ベンツ・アレーナでの第2戦(3-2)で2得点を挙げる活躍を見せた[8]。
1992-93シーズンは、同胞のロマン・コセツキ(en)と前線でコンビを組んで7得点を記録。しかし、翌1993-94シーズンになると、別のポーランド人コンビのリシャルト・スタニエク(en)とヤツェク・ジオベール(en)に先発の座を奪われ、また、チームはシーズン終了時に2部へ降格する悲惨なシーズンとなった。なお、ウルバンはチーム2位となる5得点を記録した。1994-95シーズンはホセ・フランシスコ・ロホ(en)監督の下で2部でのプレーとなり、冬の移籍市場でレアル・バリャドリードと契約して1部の舞台へ戻った[9][10] までの間に12試合3得点を記録した。
- 晩年
バジャドリードではセンターバックに転向したことで本職のセンターフォワードでの仕事は少なく[11]、21試合の出場に対して僅か3得点に終わった。また、チームは19位で降格したかに思われたが、同1994-95シーズン終了後の騒動によって翌1995-96シーズンは22クラブに拡大となったことで最下位である20位のCDログロニェスの1チームのみが降格となり、最終的にバリャドリードは1部残留が決定した。しかし、ウルバン自身はバジャドリードから放出され、1995年9月11日にCDトレドと契約したことで2部でのプレーとなった[12]。トレドでは、33歳の高齢ながらチーム2位となる33試合6得点を挙げて良いシーズンを過ごした。
CDトレド退団後は、長年活動したスペインの地を離れてドイツ2部のVfBオルデンブルク(en)と契約。1998年から古巣のグールニク・ザブジェで1シーズンを過ごし、36歳の時に現役引退した。
代表
ポーランド代表としては、6年間で57試合7得点を記録し、1986 FIFAワールドカップでベスト16のメキシコ戦までの4試合全てに出場(うち先発3試合)した[13]。
指導者
現役引退後はパンプローナに定住したウルバンは、同市内にあるCAオサスナの下部組織で指導者としてのキャリアを開始し、2001年にチームをコパ・デ・カンペオネス・フベニール優勝に導く[14]。2003-04及び2004-05シーズンは、3部を戦う同クラブのリザーブチームを指導。その後は、同クラブの運営に参加し、2007年6月にレギア・ワルシャワの監督に就任するためにクラブを去った[15]。
2007年6月4日に強豪レギア・ワルシャワの監督に就任[16] すると、かつて指導したイニャキ・アスティス(en)を始めとしたオサスナから3選手を獲得した[17][18]。また、UEFA EURO 2008期間中はレオ・ベーンハッカー監督率いるポーランド代表のアシスタントを務めた。
2010年3月14日にレギア・ワルシャワを解雇となる[19] と、同年の10月29日から12月10日までポロニア・ビトムの指導をした。2011年3月10日には、マレク・バヨル(en)監督の後任としてザグウェンビェ・ルビンと契約したが、成績不振により同年10月31日にパヴェル・ハパル(en)監督に置き換えられた[20]。2012年5月30日からは再度レギア・ワルシャワの監督に就任し、2012-13シーズンにリーグとカップの2冠を達成してリーグの年間最優秀監督に選出された[21]。しかし、2013年12月18日のグールニク・ザブジェとのカップ戦(1-3)で敗退が契機となって翌19日にヘニング・ベルグ監督に置き換えられた[22]。