ユリシーズ・バーグ (第2代ダウンズ男爵)
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第2代ダウンズ男爵ユリシーズ・ド・バーグ(Ulysses de Burgh, 2nd Baron Downes GCB、出生名ユリシーズ・バーグ(Ulysses Burgh)、1788年8月15日 – 1863年7月26日)は、イギリスの軍人、政治家、アイルランド貴族。軍人としては半島戦争の多くの戦闘に参戦して、タラベラの戦い(1809年)とトゥールーズの戦い(1814年)で負傷した[1]。半島戦争での経歴により初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーに起用され、1820年から1827年まで軍需局測量総監、1828年から1830年まで軍需局総監付き書記官を務めた[2]。政治家としては1818年から1826年まで庶民院議員、1833年から1863年までアイルランド貴族代表議員を務め、議会でトーリー党、のちに保守党、ピール派に属した[3]。
生い立ち
トマス・バーグ(Thomas Burgh、1810年6月没、トマス・バーグの息子)と妻アン(デイヴィッド・エーゴインの娘)の息子として、1788年8月15日にダブリンで生まれた[3]。1803年1月26日、ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学した[4]。
軍歴
父方のおばがアイルランド財務大臣ジョン・フォスターと結婚していたこともあり、イギリス陸軍に入隊したバーグはすぐに昇進を繰り返した[1]。バーグは1804年4月7日にエンサイン(歩兵少尉)として第54歩兵連隊に入隊した後[5]、同年12月29日に中尉に昇進[6]、1806年9月9日に第60歩兵連隊の大尉への辞令を購入して昇進[7]、同年10月14日に再び第54歩兵連隊に転じた[8]。ジブラルタル、西インド諸島駐留を経て[1]、1808年11月26日に第92歩兵連隊に転じた[9]。同年、ジョン・クラドックのエー=ド=カン(副官)になり、クラドックに随行して半島戦争中のポルトガルに赴いた[1]。指揮官がクラドックからアーサー・ウェルズリーに交代すると、ウェルズリーはバーグを引き続き副官として起用[1]、バーグは1809年7月28日のタラベラの戦いに参戦して負傷した[10]。1810年9月のブサコの戦いの勝利の報せを本国に届け[1]、1811年4月9日に少佐への名誉昇進辞令を得た[11]。以降1812年までフエンテス・デ・オニョロの戦い、エル・ボドンの戦い、シウダ・ロドリーゴ包囲戦、バダホス包囲戦、サラマンカの戦いに参戦、ウェルズリーのマドリード入城の報せを本国に届けた[1]。これにより1812年9月8日に中佐への名誉昇進辞令を得た[12]。直後にイベリア半島に戻り、1813年から1814年にかけてビトリアの戦い、サン・セバスティアン包囲戦、ピレネーの戦い、ニヴェル川の戦い、ニーヴ川の戦い、トゥールーズの戦いに参戦、トゥールーズの戦いで負傷した[1]。1814年7月25日にグレナディアガーズの中隊長および正式の陸軍中佐に昇進した[13]。1815年1月2日、バス勲章ナイト・コマンダーを授与された[14]。このほか、ポルトガルから塔と剣勲章を授与された[1]。また時期不明ながらロシア帝国の聖アンナ勲章も受章している[3]。
庶民院議員
半島戦争、ナポレオン戦争終戦とともに戦場に立つことがなくなり[1]、バーグは政界に転身した[15]。まず1816年4月にカーロウ県選挙区の補欠選挙への出馬を模索して断念したが、1818年イギリス総選挙で事態が変わった[16]。カーロウ県選挙区に影響力を持つカトリックの有力者ウォルター・カヴァナー(Walter Kavanagh)が亡くなり、その後継者たる弟トマスが初代オーモンド侯爵ウォルター・バトラーの妹との結婚とともにプロテスタントに改宗していたのであった[16]。カトリック解放に反対する現職議員はヘンリー・ブルーエンはすぐさまに政府に働きかけ、オーモンド侯爵を通じてカヴァナーの後援を得た[16]。政府がバーグの立候補を支持したこともあり、親カトリックの現職議員ロバート・アンソニー・ラトゥッシュ(Robert Anthony Latouche)は選挙戦の不利を悟って撤退、ブルーエンとバーグは無投票で庶民院議員に当選した[16]。バーグはこのときはリヴァプール伯爵内閣支持を表明しつつも、カトリック解放問題への意見を明らかにせず[16]、1819年5月のカトリック問題に関する採決にも投票しなかった[15]。
1820年3月でも無投票で再選して[17]、当選と同日に軍需局総監のウェリントン公爵(ウェルズリーが1814年に叙爵)がバーグを軍需局測量総監に任命した[2][18]。年俸1,225ポンドで弾薬、補給品などの状態に関する報告書作成などが職務である[2]。議会では主に陸軍予算について演説し、経費削減、軍縮に反対、1824年3月に陸軍における体罰としての鞭打ちの廃止に反対した[2]。カトリック解放については1821年に反対票を投じたものの、1825年のカトリック解放法案には賛成票を投じた[17]。1825年5月27日、大佐への名誉昇進辞令を得るとともに国王のエー=ド=カン(副官)に任命された[19]。1825年の後半に次期総選挙の候補者が取り沙汰されたとき、カーロウ県ではバーグとブルーエン以外の3人目がいないとされる(すなわち、2人が無投票で再選する予想だった)[17]。
1826年3月3日に初代ダウンズ男爵ウィリアム・ダウンズが死去すると、ダウンズ男爵位の特別残余権(special remainder)に基づき爵位を継承した[3]。バーグの父方の祖母アンは初代ダウンズ男爵のおばであり、2人は親族だった[3]。アイルランド貴族の爵位だったため、バーグはアイルランドの選挙区であるカーロウ県選挙区で立候補できなくなり[17]、代わりに1826年イギリス総選挙で軍需局が影響力を有するクイーンバラ選挙区から出馬した[2]。このとき、軍需局はバーグと現職議員フレデリック・ベンティンク卿を支持していたが(もう1人の現職議員ジョージ・ピーター・ホルフォードは不出馬)、1820年代より現地住民が不満を感じており、1826年の総選挙で対立候補ジョン・カペルをトップ当選させ、ダウンズ男爵は16票差でベンティンクに競り勝った程度だった[20]。
1827年春にカニング内閣が成立すると、ダウンズ男爵は軍需局測量総監を辞任した[2]。1827年7月、陸軍において半給になった[21]。1828年2月にウェリントン公爵内閣が成立すると、ダウンズ男爵は軍需局総監付き書記官(Secretary to the Master General of the Ordnance)に任命され、再び議会で政府の陸軍予算を擁護するようになった[2]。それ以外では1828年2月に審査法廃止に反対、5月にカトリック解放に反対したが、1829年ローマ・カトリック信徒救済法の採決には投票しなかった[2]。1830年4月と5月にユダヤ人解放に反対票を投じた後、1830年イギリス総選挙に出馬せずに議員を退任、同年にウェリントン公爵内閣が倒れると軍需局総監付き書記官にも辞任した[2]。
貴族代表議員
1833年3月30日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1863年に死去するまで務めた[22]。ウェリントン公爵の支持を得ての選出であり[2]、貴族院では保守党に属した[3]。1835年2月にロバート・ピールに王室家政のポストを申請したが、失敗している[2]。その後、穀物法廃止をめぐりピールを支持してピール派に移ったが、後に本流の保守党に戻った[3]。
庶民院議員退任後の軍歴
一方で軍務は継続し[2]、1837年1月10日、少将への名誉昇進辞令を得た[23]。1846年11月9日、中将への名誉昇進辞令を得た[24]。1854年6月20日、大将への名誉昇進辞令を得た[25]。連隊職では1845年4月4日に第54歩兵連隊隊長に任命され[26]、1850年8月15日に第29歩兵連隊隊長に転じ[27]、1863年に死去するまで務めた[28]。1860年5月18日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[29]。
死去
1863年7月26日にキルデア県アサイのバート・ハウス(Bert House)で死去した[3]。後継者がおらず爵位は廃絶した[3]。遺産は2人の娘とその子孫が分割相続した[2]。