タラベラの戦い

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1809年7月27日 - 28日
場所スペインタラベラ・デ・ラ・レイナ
北緯39度58分 西経4度50分 / 北緯39.967度 西経4.833度 / 39.967; -4.833
結果 イギリス・スペイン連合軍の勝利。その後連合軍は撤退。
タラベラの戦い
半島戦争
1809年7月27日 - 28日
場所スペインタラベラ・デ・ラ・レイナ
北緯39度58分 西経4度50分 / 北緯39.967度 西経4.833度 / 39.967; -4.833
結果 イギリス・スペイン連合軍の勝利。その後連合軍は撤退。
衝突した勢力
フランスの旗 フランス帝国 イギリスの旗 イギリス
スペイン王国
指揮官
スペイン王ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)
フランスの旗 ジャン=バティスト・ジュールダン
フランスの旗 クロード・ヴィクトル=ペラン
イギリスの旗 アーサー・ウェルズリー
グレゴリオ・ガルシア・デ・ラ・クエスタ英語版
戦力
46,138[1] イギリス:
20,641
スペイン:
約35,000
合計:
約55,000[1]
被害者数
7,268[1] イギリス:
5,363[1]
スペイン:
1,200 (スペインの報告には疑問が残る[2]

タラベラの戦い(タラベラのたたかい、英語: Battle of Talavera)は、1809年7月27日から7月28日にかけて、スペインタラベラ・デ・ラ・レイナ近郊で行われたナポレオン戦争スペイン独立戦争)中の主要な戦闘である。アーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公爵)率いるイギリス・スペイン連合軍と、ジョゼフ・ボナパルト(スペイン王ホセ1世)の名目上の指揮下にあるフランス軍が激突した[3]。 

ポルトガルからフランス軍を追い出したウェルズリーは、グレゴリオ・ガルシア・デ・ラ・クエスタ英語版将軍率いるスペイン軍と合流し、マドリードへ向けて進軍した。これに対し、フランス軍はジョゼフ・ボナパルトが名目上の指揮を執り、実際には軍事顧問のジャン=バティスト・ジュールダンが指揮する軍を集結させ迎え撃った。

タラベラの東手前まで進軍したイギリス・スペイン連合軍は、スペイン軍が撤退するフランス軍を追ってさらにマドリード方面へ進撃し、イギリス軍は進軍を停止していた。スペイン軍は、集結を終えたフランス軍と遭遇してタラベラへと引き返し、フランスの第1軍団を指揮するクロード・ヴィクトル=ペラン元帥がこれを追撃していた。タラベラの戦いは、タラベラを占領した連合軍に、フランス軍が攻撃を仕掛けたことで生起した戦闘である[4]

タラベラはタホ川の北岸にある街である。川から北に数キロはオリーブコルクガシの樹に覆われた平地で、その先は丘になっている。イギリス・スペイン軍が進軍してきた西側にはMedillinの丘があり、ポルティニャ川という南北に流れる小川が作る渓谷を挟んで、東側にはCascajalの丘がある。イギリス軍を率いるウェルズリーは、タラベラの街から平地を横切り、丘陵地帯までに軍を布陣することにした。軍の右翼にあたる街側にはスペイン軍を配置し、中央と左翼には主にイギリス軍を配置した。左翼はMedillinの丘に陣地を構えることになっていた。左翼の丘がもしフランス軍に奪取されれば、イギリス・スペイン軍の戦列が破綻することは明らかであった。イギリス軍は一個師団を丘に配置する予定であったが、手違いから、27日の時点では部隊は丘の山頂の手前までしか進軍できていなかった[4][5]

タラベラの戦いの地図。南側にあるタラベラの街(画像右)から、北にある丘陵地帯(画像左)に向かって軍が布陣している

フランス軍には、丘に陣取る連合軍を攻撃しないという選択肢もあった。既に、スールト元帥プラセンシア経由でウェルズリーの後方を遮断するように命令を受けていた。この行動を連合軍が察知すれば、連合軍はタラベラを放棄して、タホ川の南へ渡る決断を下すはずであった。そのためジョゼフとジュールダンは、攻撃に消極的であった。しかし、ヴィクトルが連合軍への攻撃を主張して主導権を握り、また27日夜の時点で連合軍とフランス軍が接近しすぎたため、攻撃を行わざるを得なくなった。ジョゼフとジュールダンも、攻撃を黙認した。攻撃を行わなければ、ヴィクトルは皇帝ナポレオン・ボナパルトに向けて、二人のことを臆病者だと告発するに違いないと、ジョゼフは考えていた[6]

経過

戦いは2日間にわたって激しく行われた。

7月27日夜

7月27日の午後7時、スペイン軍を追撃するフランス軍、ヴィクトルの縦隊が戦場に姿を現し始めた。Cascajalの丘を占拠したヴィクトルは連合軍に小競り合いを仕掛けた。この時、スペイン軍の四個大隊がパニックを起こし、戦場から逃亡するという事案が起こっている。この大隊の周囲のスペイン軍は踏ん張り、またこの時攻撃していたフランス軍も寡兵であったため、逃亡が戦局に影響を与えることは無かった[4]

次いで、フランス軍の全軍が戦場に到着すると、ヴィクトル元帥は大胆、あるいは無謀にも、大規模な夜襲を仕掛けることにした。中央の平野で牽制をしている間に、精鋭師団にMedillinの丘を攻撃させ、奪取を試みた[7]。丘を登っていったフランス軍は、夜襲を全く予期しておらず孤立していたイギリス軍亡命ドイツ人部隊英語版を踏み潰し、丘の頂上を奪取した。そこで、駆けつけてきた後方のイギリス軍と激しい戦闘になった。戦場は混乱したが、結局、フランス軍はイギリス軍の突撃でMedillinの丘から追い払われた。丘を攻撃したフランス軍三個連隊のうち、二個連隊は暗闇の中で満足に進軍できずに、戦闘に殆ど関与できなかった[7]

7月28日

28日朝の時点のヴィクトルは、一部の部隊による攻撃だけで最初にMedillinの丘を奪取する、という考えをまだ保持していた。そのため第一師団がMedillinの丘を奪取するまで、第一軍団の他の部隊は動かないように命令していた。ジョゼフも同様に、第四軍団の前進は第一軍団が前進に成功してからであるとした[8]

早朝5時、フランス軍はMedillinの丘に向けて猛烈な砲撃を開始し、イギリス軍砲兵を圧倒した。フランス軍は縦隊を前進させ丘を登らせ始めた。しかし、イギリス軍の戦列による最初の一斉射撃で、フランス軍の突撃の勢いは殺されてしまった。マスケット銃の撃ち合いでは徐々にフランス軍が劣勢となった。更には丘を攻撃している部隊以外のフランス軍が動かないことに気づいたイギリス軍が、フランス軍の側面に大隊を動かしたことでフランス軍は敗走し、ポルティニャ川の東まで戻っていった[9]

フランス軍の幕僚は更なる攻撃を行うべきかどうかで激論を交わしていた。その時彼らの下へ、ベネガス率いるスペイン軍がトレドに到達したこと、また、スールトのフランス軍は進軍開始が遅れてプラセンシア到着が8月2日以降になるという知らせが届いた。これは、タラベラにあるフランス軍が連合軍と対決しなかった場合、連合軍にマドリード入りを許してしまう可能性があることを意味した。そういうことで、攻撃に消極的な立場を取っていたジョゼフもヴィクトルに同意し、イギリス軍へ総攻撃を仕掛けることが決まった[10]。スペイン軍方面は牽制にとどめ、イギリス軍へと攻撃を仕掛けることが決められた。連合軍もこの動きを見て、スペイン軍の予備兵力をイギリス軍側に振り分けるなどして攻撃に備えた[11]

戦闘の様子を描いた絵画

午後2時、フランス軍の砲撃が始まり、再びフランス軍は連合軍を砲撃戦で圧倒した。2時半、フランス軍左翼が連合軍と接敵を開始した。左翼はイギリス軍の防御を破ることができなかった。更に、スペイン軍の騎兵による追撃を受け、大きな損害を受けながら撤退していった[12]。Medillinの丘を臨むフランス軍右翼はイギリス軍と激しい砲撃戦を続けたが、歩兵が前進することは無かった[13]

3時、フランス軍中央がポルティニャ川を越えてイギリス軍と交戦した。イギリス軍はこの攻撃を退けたが、退却するフランス軍を深く追撃しすぎてしまった。イギリス軍がポルティニャ川を越えCascajalの丘のふもとまで到達したとき、無傷で控えていたフランス軍の予備が攻撃を開始した。追撃していたイギリス軍が甚大な損害を受けた結果、イギリス軍は危機的な状況に陥った。再び迫るフランス軍に対し、ウェルズリーは予備の旅団を投入。旅団長英語版が戦死するなどの損害を受けたが、なんとか持ちこたえ、フランス軍を撃退することに成功した。フランス軍の損害も甚大であった。中央での敗北は、フランス軍全体の士気に打撃を与え、最終的にはフランス軍を撤退させることにつながった[14]

Medillinの丘の更に北では、フランス軍が騎兵隊を中心に迂回を試みていた。この行動を予期していた連合軍は有利な位置に移動し展開していて、フランス軍は側面攻撃を受け損害を出した。フランス軍中央の攻撃が完全に撃退された後、ウェルズリーは迂回を試みたフランス軍に向かい、イギリス軍の竜騎兵隊に突撃命令を下した。しかし、この突撃は、隠れた渓谷に馬が足を取られたことで混乱し、失敗してしまった。混乱のまま突撃したイギリス軍の騎兵隊は、何とか方陣を組み終えていたフランス軍の射撃に晒され、壊滅した。フランス軍も、中央の攻撃が失敗したとの報告を受け取っていたので、後退していった[15]

フランス軍の士気が低下していたこの時点でも、フランス軍が予備で保持していた無傷の近衛騎兵連隊と、損害の少ない騎兵部隊を合わせれば、もう一回だけイギリス軍へ攻撃を仕掛けることが可能であった。ヴィクトルは攻撃を熱望していたし、ジョゼフはそれを実行に移すことを悩んでいた。ジョゼフは一瞬、攻撃を実行する賭けに出ようとしたが、連合軍右翼のスペイン軍が前進し始めたとの報告を受けて、撤回した。報告はすぐに誤報であると判明したが、いずれにせよこれ以上の攻撃は、予備を枯渇させるうえ、(当時のスペイン軍は軍を機動させる能力に乏しかったとはいえ)スペイン軍に対しきわめて脆弱になるものであった。ジョゼフは撤退を決断し、夕暮れから翌日深夜までに、フランス軍の全軍が撤退していった[16][17]。連合軍の損害と疲弊も深刻で、フランス軍への追撃は望むべくもなかった[18]

影響

タラベラの戦いを記念するモニュメント。北緯39度59分08.16秒 西経4度50分51秒 / 北緯39.9856000度 西経4.84750度 / 39.9856000; -4.84750

タラベラの戦いでの連合軍の勝利の結果、マドリードへの道が開かれたかのように見えた。一個旅団の増援も受け取り、体制を整えた連合軍は、ここでスールトのフランス軍が補給線を遮断しようとしていることに気づいた。ウェルズリーは当初、フランス軍を高々一個軍団、1万人強の部隊に過ぎないと考え、スペイン軍と負傷兵をタラベラに残してフランス軍の迎撃に出立した。実際には、スールトを始め接近するフランス軍は三個軍団5万人を数える大軍であった。そのことを知った連合軍は、ウェルズリーも、タラベラにあったスペイン軍も、急いでタホ川南岸へ撤退していった。一部の負傷兵は移送できずタラベラに残され、フランス軍に収容された[19][20]。その後、イギリス軍はかねてよりの補給不足が深刻なものとなり、更にポルトガル国境へと退却していった[21]

戦死戦傷行方不明を合わせて、フランス軍は7468人の損害を受けた。イギリス軍は5363人と、数字の上での損害はフランス軍より小さかったが、損耗率はフランス軍より大きかった[1]。両軍に比べれば、スペイン軍の損害は軽微なものにとどまった[17]

イギリス・スペイン連合軍はフランス軍相手に勝利を収めた。しかし、優勢なフランス軍が側面に現れたことで、連合軍のマドリード攻略という戦略的な目標を達成することは無かった[22]。少なくとも、タラベラでの勝利はイギリス軍兵士に自信を与え、士気を奮い立たせることには成功した。ウェルズリーはタラベラでの功績により、「ウェリントン子爵」の爵位を授けられた[23]

脚注

参考文献

関連項目

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