ヨアン・ミレ・メリク

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生誕 ヤコブ・ヨアン・ミレン・メリク
(1840-08-09) 1840年8月9日
ワラキアブカレスト
死没 (1889-01-29) 1889年1月29日(48歳没)
ルーマニア王国ヤシ
研究分野 数学
ヨアン・ミレ・メリク
Ioan Mire Melik
1873年のメリク(ジュニメアにて)
生誕 ヤコブ・ヨアン・ミレン・メリク
(1840-08-09) 1840年8月9日
ワラキアブカレスト
死没 (1889-01-29) 1889年1月29日(48歳没)
ルーマニア王国ヤシ
研究分野 数学
研究機関 ヤシ大学英語版ルーマニア語版
出身校 エコール・デ・ミンヌ・ド・パリ
主な受賞歴
プロジェクト:人物伝
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ヨアン・ミレ・メリク: Ioan Mire Melik, Meric[1]、出生名:Iacob Ioan Miren Melik1840年8月9日 - 1889年1月29日(1889-01-29) )は、ワラキア出身のルーマニア数学者教育者政治家である。ルーマニアの文学団体「ジュニメア英語版ルーマニア語版」の初期からの会員であった。私教育ヤシ大学英語版ルーマニア語版在職中の活動で知られ、算術幾何学トポグラフィー測量を扱った初期の科学入門書を執筆した。ジュニメアの会議では目立たず、文学的な協議にも深く関与しなかったが、しばしば管理業務や出版事業を担当することもあった。

高等学校 Institutele-Unite の校長を務めた際にはドイツ語教師としてミハイ・エミネスクを雇った。メリクは非常に厳格な人物とされ、公然と生徒と対立することがあった。

ジュニミスト (Junimist) に倣って、メリクは団体の自由保守主義政党への変貌に追随した。1884年の総選挙ルーマニア語版ヤシ市から代議院議員となった。ジュニミスト政権下で教育におけるティトゥ・マヨレスク英語版ルーマニア語版の政策の実施を補佐した。

メリクは技術者実業家としても知られ、私有地のあったコステシュティ・ボトシャニロル英語版ルーマニア語版の近代史に貢献した。息子エウジェンルーマニア語版らを残して、病名は不明ながら48歳で歿した。

生い立ち

1840年8月9日、ワラキアの首都ブカレストに生まれた[注 1]。祖父オハン (Ohan) はアルメニア使徒教会聖職者であった[1]。息子エウジェンによれば、メリク家はオスマン帝国から迫害によって散開した移民英語版アルメニア語版であった。オスマン帝国領エジプト外務大臣英語版を務めたボゴス・ユスフィアン英語版とは親戚関係にある[4]。ヨアン・メリクの父はアラケル・"ポポヴィチ"・メリク (Arakel "Popovici" Melik) 、母はマリア・ジェディク (Maria Gedik) である。アラケルとマリアの間にはヨアンの他に息子 (Gavril) と娘 (Anika) がいた[1]。ヨアンのおじヤコブ (Iacob) は著名な建築家であった。オスマン帝国の政治家ムスタファ・レシト・パシャはヤコブの建築をワラキア政府に推薦したが、ヤコブは国を去りパリに移住した[5]。新居でヤコブは1848年のワラキア革命英語版のために亡命した指導者、とりわけ穏健派・親オスマン派のイオン・ギカ英語版ルーマニア語版アレクサンドル・G・ゴレスク英語版ルーマニア語版ニコラエ・プレショイアヌルーマニア語版と文通した[6]

生涯を通してヨアンは「アルメニア・グレゴリオス民族籍」を持つ者と記録された[7]。彼自身の供述によれば、ヨアンはまずブカレストガルベン区英語版ルーマニア語版のアルメニア学校、その後同地域の一般の学校に通学した[1]。1854年から1856年まで聖サヴァ大学英語版の中等教育学校に通い、本人によれば、成績優秀で賞を受けるような生徒であったという[1]。1856年からおじヤコブがヨアンの教育を引き継ぎ、ヨアンはフランスへ渡った。1857年の間、私立の寄宿学校で教育を受けたのち、パリ大学医学部に入学した。しかし考えが変わって1860年にエコール・デ・ミンヌ・ド・パリに出願した[1]。1864年に卒業して、短期間フランスとベルギー岩塩坑英語版で働いた[1]

ヨアン・メリクは仕事でモルダヴィア英語版ルーマニア語版に赴いたが、モルダヴィアは1859年にワラキアと連邦を組んでモルダヴィア=ワラキア連合公国を成していた。メリクはアレクサンドル・ヨアン・クザ英語版ルーマニア語版政権からスラニクルーマニア語版英語版トゥルグ・オクナ英語版の岩塩坑の視察を命じられた[1]。ヤシ時代からの同僚、友人からはミルミリク (Mirmilic) と呼ばれていた[8]。1865年、メリクはジュニメアに通い始めた。外部からの支持者の一人という立場で、明らかに文学的野心を欠いていた。ジュニメアの創設者の1人でジュニミストの伝記を著作したヤコブ・ネグルツィ英語版は「かつて熱心なジュニミストであったが、常に寡黙であった」と述べている[1][9]。ネグルツィは冗談めかして、1865年から1880年の間の団体の会議の中でヨアンが発した言葉は23語程度だという見積もりは、メリクに有利なように誇張されていると付け加えている[9]。文学史家のジェオルジェ・カリネスク英語版ルーマニア語版は、メリクは天文学者ニコラエ・クリアヌ英語版や教師パヴェル・パイクwikidataと同様に、義理から、あるいは楽しみのためにただジュニメアに通っていたと考えている[10]。メリクはジュニミストの雑誌 Convorbiri Literare英語版ルーマニア語版 に一本の論文も発表しなかったことで評判であった[1][8][9][11]

ジュニミスト

ジュニミストとしての信頼を持つメリクは、1865年2月23日にヤシ大学で数学の代理教授に任命された[1][8]。並行して士官候補生の高等学校でも授業を行っていた[7]。1865年10月の間、メリクは学長マヨレスク英語版ルーマニア語版、国立美術館組織者のバルダサーレルーマニア語版、クリアヌ、ネグルツィの所属していた学者群に加わりルーマニアの従属関係、特に宗主オスマン帝国に対するクザの自律的な態度を支持した。彼らは公開書簡でルーマニア公が大宰相英語版フアトの叱責を受け入れなかったことを称賛した[12]。クザの政権が奇怪な連合英語版ルーマニア語版によって打倒され Locotenența Domneascăルーマニア語版 が設立されてまもない1866年4月、メリクは大学のテニュアとなった[1]。同年5月、在ユダヤ人の帰化案に反対する独立自由派英語版によりヤシで勃発した暴動に巻き込まれた。Românul英語版ルーマニア語版 に送られた手紙の中でメリクは、派閥主義者の綱領に賛成したのでなく、学問の自由を無視したルーマニア陸軍の暴動鎮圧に単に反対しただけだと述べた。大学の同僚の逮捕に抗議したことでメリクは一時的に逮捕された。学長がメリクのために介入したことで、メリクは解放された[13]

そのすぐ後に、メリクはジュニミストであった学長マヨレスクの保守派同盟者となり、有力な派閥主義者やルーマニアの自由主義英語版と学長の衝突の際に学長を支持した。カリネスクが著書 Istoria literaturii române de la origini până în prezentルーマニア語版 で述べたように、大学のジュニミスト集団は教授のメリク、クリアヌ、ネグルツィ、カラジャーニルーマニア語版マンドレアwikidataを中心として形成され、ジュニメアそれ自体「文化的側面のある政治的集まり」であった[14]。副次的で控えめな参加者ではあったが、メリクは初期の一部のジュニミスト計画に関与しており、マヨレスクには群の「銀行家」と呼ばれていた[1][9]。学内でジュニミストの目標を促進し、またジュニミストの私立学校 Institutul Academic の設立(と財政管理)に加わった。彼自身はこの出来事について「1866年夏、大学と高等学校 [ヤシ高等学校英語版] の同僚数名と協力して、私は Institutul Academic を開設した」と述べている[1]。メリクは Institutul Academic の備品調達、アシェット社のような名声ある会社からの本の購入、国内の信頼できる出版社について個人的に気を配っていた[1]

Institutul Academic は民間企業の運営する学校の規範とされ、ルーマニアの教育史英語版ルーマニア語版に大きな足跡を残した[1][15]。特にマヨレスクの担当した人文科学の貢献で知られている。熱心な学生で将来ジュニミスト教育者となるコンスタンティン・メイスネル英語版ルーマニア語版は「私たちはただ貴重な規範 [マヨレスク] と同じように話したり、身振り手振りをしたり、頭を動かしたりしたようだ」と回想している[16]。元学生で、後にこの学校の教師となった者にアレクサンドル・D・クセノポル英語版ルーマニア語版がいる。クセノポルは自身の母校について「すばらしい私立学校」、メリクについてモルダヴィアの中で「優れた教授陣」の一人と述べている。またメリクの「完全かつ慎重な正確さ」がクセノポル自身の倫理に影響を与えたと評価している[11]。クセノポルによれば、メリクは無断欠勤を許さない姿勢によって、厳格な同僚であると評価された。アルメニア人への固定観念に重ねて、他のジュニミストらはメリクのことを欠勤の mindirigiuキルター英語版)と呼んだ[11]

メリクはヴァシレ・ポゴル英語版とA・ファラ (Al. Farra) とともにジュニメアの所有していた出版社の管理者を務めた。ポゴルが自身の興味のままに書籍を入荷をしたために出版社は倒産した[17]。ジュニメアの商業部門は出版社の倒産の前にメリクの教科書 Elemente de aritmetică を含む一般の教科用図書を数多出版した[18][19]。メリクはジュニメア周年記念の会計係も務めた[1][9]。ジュニミストの資本の減少を見て、岩塩坑への投資を提案したが、失敗に終わった [1]。メリクは反対に屈さず、投資計画、信用組合の設立、新たな女学校 Institutul liceal de domnișoare Humpelルーマニア語版 の開設を提案し続けた[1][9]文献学Constantin Coroiu は、メリクによるジュニメアの収支の記録を、メリクが「計算手のように厳格」であったことの証左とみなしている[9]。ネグルツィによればメリクはマヨレスクの評判を熱心に擁護した。ジュニミストの代表が法定強姦のスキャンダルに陥れられ、出廷した際に、メリクは裁判所への立ち入りを禁じられたため、裁判官を挑発して決闘を申し込んだ[1][9]

Institutele-Unite ・政治

1867年2月18日、メリクはルーマニアのフリーメイソン英語版ルーマニア語版の保守派、Steaua României ロッジ英語版に加入した。Steaua RomânieiOriental Rite of Memphis英語版フランス大東社英語版の支部である。当時の Venerable Master英語版Iorgu Sutzu であった。ポゴルが90階級まで達しており、ジュニミストの著名人の殆どがこのロッジに加入した[2][3]。同年10月21日、メリクの階級は職人 (Fellow Craft) となった[1][9]。自由主義者の表明した外国人排他主義との対立においてジュニミストのメイソンの役割に注目して、研究者M・D・ストゥルザルーマニア語版は、 Steaua României は実は「避難所であり、外国出身の知識人が保守的貴族英語版ルーマニア語版やユダヤ人商人と連帯を形成する場であった」と考えている[2]。彼らの主な自由主義的批判者に学者シミオン・バルヌツユ英語版ルーマニア語版や率直な反ユダヤ主義者がいた[2][3]

メリクの1867年の算術の課程は非常に高い評価を得て、10度再販された[1]。他の執筆した教科用図書・入門書に Despre moneta română (1868) 、 Elemente de Geometrie (1869、10回再販)、 Elemente de Topografie(1879、4回再販)がある[1]。1883年から1888年までメリクとクリアヌ、コンスタンティン・クリメスク英語版ルーマニア語版は雑誌 Recreații Științifice を発刊した。この雑誌は Gazeta Matematicăルーマニア語版 の直接の先駆けとなった[20]

1875年、Institutul AcademicLiceul Nou が合併して私立学校 Institutele-Unite となった[1]。元生徒の Eugeniu Vincler によれば合併が完全に実現したのは1879年のことであった[21]

また、ヤシ市でタウンハウス建設に着手して(1882年完成)、ヤシ市に居住した[1]。地元のロクサンドラ (Roxandra) と結婚した[22]。クザの後に台頭したカロル1世は教育の功労を賞してメリクにベネ・メレンティ勲章一等英語版を授与した[1][23]。しかし、Vinclerによればメリクは「峻烈な」校長であり、ドイツ語教師としてミハイ・エミネスクを雇い、しばしば生徒の反感を買った。エミネスクは気難しく厳しく採点したので生徒にひどく憤慨された[24]。当時生徒であったコンスタンティン・ミレ英語版ヴァシレ・モルツン英語版らが参加した小規模の学生反乱はメリクによって抑えられた[25]。ある逸話によれば、暴動時にメリクはカフェテリアでの食事の提供を禁止して学生を屈服させようとした[26]。不祥事への関与を振り返って、Vincler は恥じ入る言葉を残している。エミネスクが詩聖と称えられ国で殿堂入りとなったためである[27]。ミレはメリクと個人面談をして退学を免れた。また、 Mustață-Roșie (赤い口髭)とメリクを嘲笑っていた[28]

メリクはオスマン帝国との従属関係を断ち切ったルーマニア独立戦争英語版ルーマニア語版を離れて見守った。プレヴナ英語版で戦った親戚の大尉ルーマニア語版グリゴレ・バヌレスク (Grigore Bănulescu) から家族に送られた手紙を保管した[29]。1881年にルーマニア王国が成立してまもなく、メリクはジュニミスト政党に参加した。ジュニメアの会員を導き野党の保守党英語版ルーマニア語版に出入りしていたマヨレスクは1884年の総選挙ルーマニア語版において、ヤシの無所属の名簿でメリクを出馬させた。実際には、メリクやポゴル、ネグルツィらは与党の国民自由主義党ルーマニア語版と協力し、統一親政府派の名簿で議員に選出された[30]。しばらくして首相ブラティアヌ英語版がジュニミストからの度々の入閣要求を無視したため、ジュニミスト派全体が野党に戻った[31]。カロル1世がルーマニア国王に即位し、再びメリクの功績を讃えた。Monitorul Oficial al Românieiルーマニア語版 は、1884年2月にルーマニア星勲章英語版将校 (Ofițer) がメリクに送られたと報道した。しかし訂正が公表されて、メリクは受章したのは同勲章の騎士 (Cavaler) であったと知り、勲章を受け取らなかった[1][注 2]

晩年

1884年メリクは校長を辞任しクリメスクに引き継いだ[32]。依然として科学の普及において活発に活動し、1885年には測量弾道学の教科書 Equerulu grafometru sau quadrantulu de campania al D-lui Colonel de Artilerie A. Costiescu を執筆した[1]。1886年1月、România Liberă英語版ルーマニア語版 から国民自由主義者の教育大臣英語版ルーマニア語版ディミトリエ・ストゥルザ英語版に対するポレミックを発表した。メリクはストゥルザの政策、特に一科目でも不合格となった生徒を留年とする制度に反対していた[33]。1888年、メリクは3つの教科書を出版した。3,4年生向けの算術の教科書、初等コースのための幾何学の教科書、そして初等幾何学の教科書 Curs practic de Geometrie elementară である[1]。1885年3月、モルダヴィアコステシュティ・ボトシャニロル英語版ルーマニア語版村の土地を購入し、農業事業に莫大な資産を投資した。現金210000レイで購入した507fálce英語版ルーマニア語版(726ヘクタール[1]もの土地は、伝統的な区分では村の三分の一、実際には村の半分を占めた[34]

1888年3月、長引く政治内紛の後、カロル1世が保守党と国民自由主義党の両方に背き、ジュニミストらは勝利の瞬間を経験した。テオドル・ロセティルーマニア語版が首相、マヨレスクが教育大臣に任命され、しばらくしてメリクは事務次官となった。大学での地位は Ion Ralet に引き継がれた[1]。マヨレスクによりメリクはモルダヴィアの学校の監査を任ぜられた。彼らの共通の目標は学校教育体制において新たな政治的脅威、すなわち社会主義的活動家を排除することにあった。メリクは反社会主義者とのみ協力し、社会主義団体との関わりが疑われるすべての人物を解雇するよう指示された[9][35]。マヨレスクの送った手紙の中には、マルクス主義者Ioan Nădejdeルーマニア語版 の親戚が公務員として働いていないか尋ねるよう部下に指示した記述が残っている[9]

1889年初頭、学校の監査官、Institutele-Unite の支配人として活発に活動していた[36]にも拘わらず、メリクは急性の病気で臥した。1月29日、ヤシの自宅で歿し、Eternitatea墓地英語版ルーマニア語版軍礼英語版を以って埋葬された。受胎告知教会英語版にて式典が行われ、説教は地域の大祭司英語版 Irimia Galățanu が務めた。メリクはアルメニア・グレゴリオス教会の信仰を保っていたものの、葬儀はルーマニア正教会の作法に則って執り行われた[7]。式典は教育省に全面的に後援され、1500レイが融資された[37]。メリクの死は仲間のジュニミストに悼まれた。詩人アントン・ナウム英語版ルーマニア語版は式典のすぐ後に「健康であったのに、不運なメリクを7日間で亡くした。親しい仲だっただけに、心に穴の開いたような気持ちになった」と書いている[1]。1889年3月、ナウムはメリクの監査の仕事を引き継いだ[38]

没後

脚注

参考文献

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