ヨハン・ライドネル

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軍歴 1901–1918 (ロシア帝国陸軍)
1918–1940 (エストニア軍)
最終階級 中佐 (ロシア)
大将 (エストニア)
ヨハン・ライドネル
Johan Laidoner
1920年撮影
所属組織 ロシア帝国の旗ロシア帝国陸軍
エストニアの旗エストニア軍
軍歴 1901–1918 (ロシア帝国陸軍)
1918–1940 (エストニア軍)
最終階級 中佐 (ロシア)
大将 (エストニア)
戦闘 第一次世界大戦
エストニア独立戦争
勲章 自由十字章 (エストニア)
聖マイケル・聖ジョージ勲章
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ヨハン・ライドネルエストニア語: Johan Laidoner1884年2月12日 - 1953年5月13日)はエストニアの軍人。エストニア独立戦争が勃発した1918年-1920年、ならびに1924-1925年、1934-1940年にかけてのエストニア陸軍総帥。戦間期エストニア史における重要人物。

ヨハン・ライドネル(右)とフィンランド陸軍総帥フーゴ・オステルマン。1938年、タリンにて。フィンランドとエストニアは芬愛相互防衛条約の強化に向けた交渉を進めていた。

ライドネルはエイヤーチ(ロシア帝国リボニア自治区ビウジェンディ県、現在のエイヤーチ県バージャ村,)郊外のラジャ農場で生まれた。夏は牧夫として働き、秋から春にかけては教会学校に通う生活を送った。1901年陸軍に志願した。歩兵連隊に配属された彼の最初の任地はリトアニアコウノであった。1902年、ライドネルはのウィルナ士官学校に入校し、後に妻となるポーランド人のマリアと出会った。1909年、サンクトペテルブルクのニコライ士官学校に進学した。 ニコライ士官学校を卒業、ライドネルはロシア帝国中佐に任命される。ロシア帝国が崩壊するまでに、ライドネルは7つの勲章を獲得した。

エストニアに帰ったライドネルは、エストニア軍第一師団の指揮を執り、エストニア独立戦争を戦った。この際、イギリスの支援によってエストニアは勝利し、ライドネルもイギリスから勲章を授与された[1]。1918年にはエストニア陸軍総帥に抜擢され、続いて少将に昇格した。1919年、ライドネルはエストニア軍事学校を設立した。

1920年、ライドネルは正式に独立を遂げたエストニアの陸軍において、中将に任ぜられた。陸軍総帥の座を手放した彼は、エストニアオリンピック委員会などの政府系の団体に関与し始めた。国際連盟にもエストニアを代表して出席し、ドイツソビエト連邦の拡張に際しても孤立主義を貫いたことで知られた。陸軍総帥の座に舞い戻った1924年の12月、ソビエト連邦の支援を受けた共産主義者によるクーデターに遭遇したが、無事これを鎮圧した。

1926年、ライドネルは国際連盟を通じてモースル附近のトルコイラク間の領土紛争を調停した[1]。ライドネルはイギリスとの縁が深かったが、当時イギリスの委任統治領だったイラクよりも、むしろトルコ側の主張に配慮した[1]。ライドネルはイギリスを畏敬していたが、調停の職にあたっては中立的な立場を堅持した[1]

1934年、世界恐慌の嵐が吹き荒れる中、主に独立戦争の退役兵によって構成される極右団体「ヴァプス運動」がファシズムを擁して大衆の支持を獲得し、エストニアの体制を脅かしていた。国民投票によって承認されたヴァプス運動が起草した憲法下で臨時に全権を有していた国老兼首相コンスタンティン・パッツの要請により、ライドネルは陸軍総帥に復帰した。パッツは戒厳令を発し、ライドネルはパッツと協力して全ての政党活動を禁止した。

政治家として

1935年、大統領の地位に就いたコンスタンティン・パッツとライドネルとは国家防衛の必要性を強く主張し、中央集権的な憲法への改正を試みた。多数の自由主義者が投獄された。パッツは大統領令を利用して政治を行い、選挙は無期限に延期された。二回に分けて行われた裁判の結果、ヴァプス運動の指導者たちはみな投獄されたが、パッツとライドネルが政権の基盤を固めた後に釈放された。1936年、ライドネルはイギリス王ジョージ5世の葬式と、ジョージ6世の戴冠式に出席した[1]

パッツとライドネルの改革には、大学における軍事教練の義務化と、言論、出版の自由への規制が含まれていた。パッツもライドネルも自由主義者ではなかったが、エストニアを民主主義体制に戻すならば安定した政府が必要だという点では意見が一致していた。そこでパッツはコーポラティズムを導入し、各界を代表する有力者たちが民衆を指導することで世論を結束させ、政府の安定性を高めようと試みた。エストニア国会、すなわちリーギコグの選挙は1938年に再開され、ライドネルは職権として国会議員も兼ねることになった。1939年2月、ライドネルは大将へと進級した。

1939年、ライドネルは近隣諸国の急速な拡張と兵器の改良を背景に、陸軍の装備の近代化と改良、そして徴兵の拡大を求める計画を政府に提出していた。9月28日、蘇愛相互援助協定が締結された。この条約はソビエト軍がエストニア領内に軍事基地を建設することを認めるものだったが、ライドネルはこの条約に反対し、徹底抗戦を主張した[2]。ところが、1940年6月17日、大統領パッツの決断により、エストニアは戦わずしてソビエト連邦占領されることを選んだ。ソ連当局はエストニアの指導者を次々と逮捕し、その累はライドネルにも及ぼうとしていた。ライドネルと妻マリアが逮捕される数時間前、二人の自宅をアメリカ領事ジョン・ウィレイとその妻イレナが訪れた[1]。イレナの著書によれば、マリア夫人は彼女に「この家も庭も、もう私たちの刑務所も同然なの。いつ逮捕されるのかと怯えて暮らしているわ。でも、私は今までの、満たされた幸せな生活に感謝しているの。だからこそ、次は私が運命を受け入れなきゃならないのね。」と語った[1]。ライドネルは逮捕されたが、ソビエト連邦による処刑から免れた数少ない指導者の一人となった。しかし、その代償としてシベリアへ追放された。収監中の1944年、ライドネルは仏露辞書を手に入れ、その余白に遺書を認めた[1]。遺書は、「祖国エストニアよ、誰が何を言おうと、汝をこよなく愛している。」との言葉で結ばれている[1]共産化されたエストニア政府もモスクワにライドネルの釈放を懇願し続けたが、1953年5月14日、ヴラディーミル中央刑務所にて没した。遺体はヴラディーミル中央刑務所近くの墓地に墓標も無く埋葬されたため、今もなおその所在は不明となっている(ソ連崩壊後、墓地に記念碑が建立された)。

ライドネルの死後、彼の妻マリアも釈放された。しかしマリアがエストニアに帰ることを許されたのは、彼女が70歳の誕生日を迎えてからであった[1]

評価

言行録

参考文献

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