ラワンドルジ
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乾隆21年(1756年)、まだ数歳にすぎなかったラワンドルジは、すでにエフ(額駙、皇女の婿)に内定されていたが、皇六女か皇七女のいずれと婚姻するかは決まっていなかった。
乾隆23年(1758年)、皇六女が死去したため、ラワンドルジと皇七女の婚姻が正式に決定した。
乾隆28年(1763年)、エフであるラワンドルジの嫡兄で世子であったジャンチュブドルジ(占楚布多爾済)が死去した。
乾隆29年(1764年)、エフの身分により、ラワンドルジは他の庶兄を差し置いて新たな世子となった。
乾隆31年(1766年)、ラワンドルジは京城に送られ養育された。
乾隆35年(1770年)、ラワンドルジは乾隆帝の第七女・固倫和静公主(七公主)を娶り、グルン・エフ(固倫額駙)に任ぜられた。
同年閏5月20日、暑さに弱いラワンドルジのため、乾隆帝は彼を張家口郊外の牧場へ避暑に行かせた[1]。同年7月初4日、公主降嫁の約20日前、乾隆帝は新築された七公主府を訪れ、娘と駙馬の将来の住居を視察した[2]。七公主府はもと大臣高恒の邸宅であったが、後に公主府へ改築された。また、熙春園も固倫和静公主と駙馬に与えられ、3年に及ぶ修繕の後、完成した御園への居住が特別に許された[3]。
乾隆36年(1771年)、父・チェングンザブが死去し、ラワンドルジはジャサク・ホショイ親王位を継承した。父の死後、乾隆帝は詔を出し、駙馬に対して遺産争いのような粗野な行為を戒め、公平な分配を命じた。兄の一人はすでに分家しており、他の二人は出家していたため、残りの財産の大半はラワンドルジに与えられた。
乾隆38年(1773年)12月20日、豫妃ボルジギト氏が薨去し、七公主およびラワンドルジは喪に服した。
その後、臨清・石峰堡の戦役に従い功績を挙げ、御前大臣に任じられた。石峰堡の回民反乱の際にも出征したが、乾隆帝は娘婿の身を案じ、アグイ(阿桂)やヘシェン(和珅)に書簡を送り、決して前線で戦わせないよう命じた。また、酷暑の中では耐えられないと考え、京へは来ず遊牧地で避暑しつつ父の墓を祭るよう指示した。遊牧中にはフトゥクトゥ・フビルガーン(呼図克図呼畢勒罕)を迎え護送し、8月に避暑山荘へ参上した[4]。
乾隆40年(1775年)1月10日、七公主が死去した。二人の間に子はなかった。その後ラワンドルジは再婚し、これは乾隆朝で唯一、公主死後に再婚した額駙であった。
『内務府奏銷档』によれば、乾隆41年(1776年)10月28日、ラワンドルジは部下とともに正陽門外で弓術の試験を行い、その後「広和楼茶園」で芝居を観たところ、内務府の役人に発見された。さらに他の官員も見つかり、計7名が拘束され歩軍統領衙門に送られた。ラワンドルジ以外の官員は罷免され刑部に付され、規定により杖刑100を受けた。管理責任者も俸給1年分の減俸処分となり、ラワンドルジ自身も杖刑は免れたが、1年の減俸を科された。
乾隆45年(1780年)6月、ラワンドルジはトゥシエト・ハン部の牧地を侵占したとして、親王としての俸禄を永久停止された。同年11月には、彼が統率する善撲営が満洲軍に敗れたため乾隆帝に叱責され、官職はフェンシェン・ジルン(豊紳済倫)に交代された。
乾隆48年(1783年)1月、俸禄の支給が再開された。
乾隆50年(1785年)1月、ラワンドルジはウリヤスタイ将軍代理に任じられた。
乾隆51年(1786年)、遊牧地へ戻る途中に落馬して右大腿を負傷した。乾隆帝は医師と官員を派遣して見舞わせ、ラワンドルジは上奏して容体を報告した。皇帝は「無理をするな」と朱批を与えた。
乾隆57年(1792年)には俸米500石が削減されたが、辺境での生活と多くの家族を養う事情を考慮し、特別に200石の支給が認められた。
嘉慶8年(1803年)、嘉慶帝が順貞門で刺客の陳徳の襲撃を受けた際、ラワンドルジは即座に護衛して刺客を捕らえ処刑し、その功により御用補褂を賜った。実子はなく、養子バヤンジルガルがこの功績により輔国公に封ぜられた[5][6]。
ラワンドルジは死後、和静公主と合葬された。その墓は現在の北京市朝陽区東直門外にある。その後も子孫のエフ(額駙)たちおよび家族がこの墓地に葬られ[7]、玄孫のナヤントゥ(那彦図)も愛新覚羅氏の宗室女性を娶っている。
登場作品
- 天命(2018年、中国、演:袁文傑)
- 金枝玉葉 ~新たな王妃となりし者~(2019年、中国、演:王宇威)
出典
- ↑ 『乾隆朝満文上諭档』:乾隆35年閏5月20日、勅命により次のように命じられた。「現在は酷暑であり、七額駙ラワンドルジはモンゴル人で暑さに耐えられないため、張家口外にある父の牧場へ赴き、避暑するようにせよ。」謹んでこれを承る。
- ↑ 『乾隆朝満文上諭档』:七月初一日、勅命により次のように命じられた。「朕は初四日に徳勝門を経由し、城壁上の道から安定門へ入り、雍和宮にて朝食をとったのち、そこから七公主府を視察し、その後宮中へ戻る。」謹んでこれを承る。
- ↑ 『熙春園·清華園考 清華園三百年記憶』
- ↑ 『ラワンドルジが足の負傷状況を報告した上奏文』:奴才ラワンドルジ、謹んで奏上いたします。このたびの件につき、蒙古の医師を賜り治療を受けましたことに対し、上奏して御恩に感謝申し上げましたところ、上奏文に朱批が下されました。「お前の身体の具合は実際のところどうか。歩行は可能か」とのことでございました。この慈しみ深きお言葉を仰ぎ受け、恐れながら申し上げます。現在、患部はひどく腫れ上がっており、動こうとすれば実に耐え難い苦痛がございます。ただいま奴才ラワンドルジの身体は、ハン・アマ(汗阿瑪、皇帝陛下)のご恩典により、モンゴルの医師に骨を接ぎ筋を整えていただき、すでに固定され、徐々に療養して回復に向かっております。しかしながら、まだ自力で力を入れて歩くことはできず、人に支えられてようやく歩行できる状態でございます。今後回復いたしましたならば、直ちに参内し、ハン・アマに拝謁いたす所存にございます。以上、やや快方に向かいつつある現状を謹んで奏聞いたします。これに対し、朱批にて「無理をするな」と仰せられました。謹んでこれを承ります。
- ↑ 『清史稿』巻二九六
- ↑ “明清人物傳記資料”. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月17日閲覧。
- ↑ 『燕都説故』の「大程各荘的公主墳」